数年ぶりに母と枕を並べて眠ったドリスは、とても幸せな気分で目を覚ました。

 カーテンの隙間から射し込む金色の朝日は、普段なら目にするだけで動機息切れ目眩を起こすのに、今朝は不思議と心を弾ませてくれる。

(あれは、夢じゃないのよね?)

 魔力凍結の呪いを解くことができるかもしれない。昨夜、メリンダはたしかにそう言った。

 ドリスはとうの昔に諦めてしまっていたのに、魔法師団の人たちはこの十年間、呪いを解く手がかりを見つけるために尽力してくれていたのだと知り、嬉しさと申しわけなさで胸がいっぱいになった。現段階でわかっている手がかりについては、日を改めて魔法師団長も交えて話し合いの場を設けると、メリンダが提案した。

 もうしばらくの間、王宮にとどまることとなった旨を報告すると、母は年甲斐もなく泣きだし、痛いほどにドリスを抱きしめた。気が済むまで泣いたかと思うと、今度は父を呼びつけ、魔法でランカスタ村の屋敷へいったん戻り、ドレスやアクセサリーを山のように王宮へ持ち込んだのだった。

「あなたのために仕立てたドレスが無駄にならなくてよかったわ」

 ダイアナが今朝、見立ててくれた衣装は、胸元の露出を控えめにした清楚な印象を与えるデザインのドレスだった。ドリスの瞳と同じ、夜明け前の空を思わせる藍色のドレスの裾には、同系色の絹糸で精緻な花模様の刺繍がほどこされ、一歩足を運ぶごとに風にそよぐスミレのようにふわりと揺れる。

「お許しが出たら、国王陛下にお目通りさせていただきましょうね。私たちがこうしていられるのも、陛下のご厚情のおかげですもの」

「はい、お母様」

 十年前、魔力の暴発によって王太子に怪我を負わせたドリスは、その場で両親ともども死罪に処されてもおかしくなかったのだが、国王の計らいにより罰を受けることなく故郷のランカスタ村へと送り返された。ドリスはその時の罪悪感や、重臣たちによく思われていないことから、国王への謁見を遠慮していた。ユーフェミアの代役として昨日顔を合わせているが、先方は少しも疑っていなかった。

 ドリス・ノルマンとして目通りが叶うなら、十年分の感謝の気持ちを伝えたい。

(呪いが解けたら……、殿下は喜んでくださるかしら?)

 脳裏にセレストの無愛想な顔が浮かんだその時、部屋の扉が叩かれ、続き間の向こう側から一人の女官が姿を見せた。

「ドリス様、王太子殿下がお見えです。急ぎ、こちらのお部屋へ」

 ここがランカスタ村の自宅だったら、条件反射で逃げたり隠れたりしていただろう。けれどここは王宮で、ドリス自身も今までとは違う。根暗の引きこもりを卒業すると決めたのだ。

 ドリスはダイアナとともに、背筋を伸ばして居間へ通じる扉をくぐった。

 花模様の刺繍をあしらった豪奢なソファのそばに、客人たちは並んで立っていた。

「お父様、メリンダさんも。どうなさったのですか?」

 渋面のセレストを挟んで、ダレンとメリンダも何やら難しい表情を浮かべている。取り次いだ女官は、ダレンの指示を受けてすみやかに退室した。

「やあ、おはよっ、ドリス」

 片手を挙げてぎこちなく微笑むメリンダのもう片方の腕の中に、見覚えのある白い物体がちょこんと収まっている……ように見えた。

(気のせい……よね?)

 小ぶりのカボチャほどの大きさで、タンポポの綿毛のように白くてふわふわしていて、サファイアのように透き通った青色の目をした何かが、蛇女メドゥーサのような恐ろしい形相でこちらをガン見しているのは、きっとドリスの思い過ごしだ。

 藍色のドレスの裾を踏まないよう、ドリスは心の中で「平常心、平常心」とつぶやきながらセレストたちの前へ進み出た。

「おはようございます、王太子殿下、メリンダさん、お父様」

 ドレスをつまんで会釈をしたドリスは、白い毛のかたまりを抱えるメリンダにこう言った。

「おいしそうな綿菓子ですね」

 次の瞬間、白い毛のかたまりがメリンダの腕の中から飛び出した。

「ふっざけるんじゃ……、ありませんわ――――っ!!」

 甲高い怒声とともに、強烈な鉄拳ねこパンチがドリスの額に命中ヒットした。




 肉球の痕がくっきりと残る額をさすりながら、ドリスは涙をこらえていた。

(わたしよりも姫様のほうがずっとつらい思いをなさっているのよ。泣いてはいけないわ)

「でも、泣きたい逃げたい消えてしまいたい……」

 心の声が口をついて出ていることに気づかないまま、年代物の絨毯が敷かれた大部屋の隅で膝を抱える。壁の肖像画に描かれた偉人達に睨まれているような気がして、ドリスはますます身を縮めた。

「誰かわたしを山中に埋めてください、もしくは海の底に沈めてください、もういっそ火口にでも放り込んでください……」

 ぶつぶつと呪詛めいたつぶやきを漏らすドリスの目は、底なし沼のように暗くよどんでいる。

「ここまで豪快にヘコんでくださると、わたくしは逆に落ち着けますわ」

 冗談なのか本心なのかわからないユーフェミアの言葉が、少し離れたところから聞こえてくる。彼女は、整然と並べられたオーク材の机の上に、幻獣の像よろしく鎮座していた。

「冬眠中の蛙になりたい……、永遠に冬眠したい……」

 膝を抱えて背を丸めるドリスのすぐ隣では、セレストが壁にもたれかかっていた。座り心地のよさそうな椅子が目の前にあるのに腰かけようとせず、腕を組んだまま黙って立っている。

 ここは魔法師団の塔、三階にある『悠久の間』。

 気が動転してよく覚えていないが、メリンダの魔法でここへ連れてこられたようだ。父の姿がないところを見ると、ドリスと同じくショックを受けた母をなだめているのだろう。

(姫様の呪いが解けていなかったなんて……)

 ユーフェミアが再び猫になってしまった瞬間を目撃したセレストが言うには、日が昇ると同時に彼女の姿が変わったらしい。

 思い返せば、昨日、ユーフェミアが元の姿に戻ったのは夕暮れ時ではなかったか。

(まるで、おとぎ話のようだわ)

 太陽の下では黒鳥、月の下では人間の娘になる、黒鳥姫の物語を思い出した。

 古くから伝わるおとぎ話が本当は実話なのだと知ったのは、つい昨夜のこと。

 黒鳥姫――サレムに呪いをかけた魔女リプリィと、ドリスに魔力凍結の呪いをかけた魔女は同一人物。

(わたしは……、沈黙の魔女リプリィと同じ悪行を姫様に働いてしまったのね)

 リプリィは親友だったサレムを吸血伯爵から取り戻すため、己の身も顧みず彼女に二重の呪いをかけた。

(じゃあ……、わたしは?)

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