第4章 凍れる魔力を融かすもの
1
夜明け前のバラ園は、真夜中の静寂とはまた異なる独特の静けさがただよっている。
少しずつ闇が抜けていくように薄明るい青へと変わる空の下、夜露にしっとりと濡れた草花や土の匂いがたちこめる。
セレストは時折、部屋を抜け出してはこのバラ園を訪れていた。
ある場所で足を止め、雨上がりに似た湿った匂いを吸い込む。早咲きのバラの微香が鼻先をくすぐった。
見事に刈り込まれた深緑色の植え込みは、ちょっとした迷路のように入り組んでいるのだが、そのとある一角だけ葉の色がわずかに若い。
かつて、ドリスが無意識に風の魔法で斬り裂いてしまった部分だ。他の者の目には、ましてや夜明け前の暗がりでは樹齢の違いなどわかるはずもないが、セレストの目にはそのつなぎ目がはっきりと映っている。
小さな雫の載った葉に手を触れ、大きく息を吐き出す。
薄桃色の唇が、心に抱く相手の名前を紡ごうとした時、
「お兄様」
背後から突然呼びかけられ、セレストは大いにむせた。
「あらまあ、大丈夫ですの?」
「……ユフィ!?」
動きやすそうな生成りのドレスに身を包んだユーフェミアが、セレストと同じ空色の瞳をきょとんと見開いている。護衛の姿がないところを見ると、ユーフェミアも部屋を抜け出してきたようだ。病弱だが身軽な妹は、小さい頃から木登りが得意だった。
「こんなところで何をしてるんだ?」
「お兄様こそ、何をなさっていますの?」
「散歩だ」
「奇遇ですわね。わたくしもお散歩ですわ」
こんな時間にか? と問い詰めたかったが、相手のことをどうこう言える立場ではないので、黙っていることにした。それに、この口達者な妹に舌戦で勝てる気がしない。
「せっかくですから、少し歩きませんか?」
ユーフェミアはセレストに腕を絡め、甘えるようにしなだれかかった。
「何かあったのか?」
「何かって、なんですの?」
ユーフェミアに腕を引かれるまま、バラ園の奥へと進んでいく。
「お前の気に障るような『何か』だ」
「数えきれませんわね」
ユーフェミアは眉一つ動かさず、斬って捨てるように言った。昨晩の夜会で、クラレットや取り巻きの令嬢たちに因縁でもつけられたのだろうか。女性の裏表ほど恐ろしいものはない。
「お兄様が心配なさっているようなことは、何もありませんわよ」
まるで心の中を見透かしたかのように、ユーフェミアは言った。
「昨夜は、パーシー様と一曲踊ってすぐに退場いたしましたわ」
ほんのわずか、ユーフェミアの声音が暗くなったように聞こえ、セレストは彼女の横顔を注視した。
ユーフェミアは寂しげな微笑みを浮かべ、独り言のようにつぶやいた。
「……困りますわよね。夜会一つ、まともに出席できないなんて」
「倒れたのか!?」
セレストの顔色が、さっと変わる。
生まれつき身体の弱いユーフェミアは、海辺の離宮で静養している。王宮で催される公式行事には体調の許す限り参列するが、年に数回程度だ。セレストは頻繁に離宮を訪問しているが、体調が思わしくなく面会を断られることもしばしばだった。
「軽い貧血を起こしただけですわ。早く休んだせいで、目が覚めてしまいましたの」
それでここに、と肩をすくめて笑うユーフェミアに、セレストは自分の上着を羽織らせた。ユーフェミアは小声で礼を述べ、はにかみながら上着の前をきゅっと握りしめた。
「あまりに身軽な体験をしたものですから、自分が病弱だということをすっかり忘れてしまっていましたわ」
ユーフェミアは昨日、一時的に猫の姿で過ごしていた。
ドリスが無意識に呪いをかけてしまったのだが、彼女が発動させた別の魔法に相殺されて、ユーフェミアは元の姿に戻ることができた。
呪いを解くきっかけとなった出来事は、セレストにとってはあまりおもしろくないので、できれば思い出したくない。
「猫になった気分はどうだった?」
再び歩きながら、セレストは問いかけた。
「元に戻った今だから言えますが、すこぶる快適でしたわ。毎食後に飲んでいたお薬も必要ありませんでしたし――必要もないのにわたくしの代わりに飲んでくださったドリスはお気の毒でしたけれど。それから、跳んだり走り回ったりしても、ちっとも苦しくありませんでしたの」
「そうか、よかったな。……いや、よくないか」
セレストが苦笑を浮かべると、ユーフェミアもつられたように笑った。鈴を転がしたような澄んだ笑い声が、薄闇に溶け込んでいく。
「お兄様は? ドリスとのデートはいかがでした?」
「デートじゃない、社会見学だ。引率者同伴のな」
「あの時、盗み聞きしていらしたのは、パーシー様にドリスの唇が奪われるのを心配なさっていたのでしょ?」
昨日の夕方の出来事を指摘され、セレストは自己嫌悪に陥った。
はじめからパーシバルに本当のことを打ち明けていれば、あんな事態を引き起こさずに済んだのだ。
けれど、パーシバルがユーフェミアに扮するドリスを口説いてくれたおかげで、本物のユーフェミアはめでたく元の姿に戻ることができた。めでたいのにめでたくない、なんだか複雑な心境だった。
「どうぞご心配なく。婚礼までの間は、ほっぺで済ませてくださっていますから」
ユーフェミアは口元に両手を添え、含み笑いを漏らした。
「されたのか!?」
「ええ、何度か」
「お前じゃない、ドリスだ」
「ドリスは無傷ですわよ」
「そうか……」
ほっと胸を撫で下ろしたセレストとは裏腹に、ユーフェミアは頬をふくらませていた。
「わたくしのことは心配してくださいませんの?」
「お前はパーシーと婚約してるんだから、キスしようが何しようがいいだろ」
「ずいぶんな言い草ですわね。昔は、わたくしをお嫁さんにするとおっしゃっていたくせに」
「いつの話だ」
セレストがドリスと出逢うよりも昔のことだ。
ユーフェミアは、苦笑を浮かべるセレストに背を向け、早足でバラ園の奥へと進んでいく。
「走るなよ、身体に障る」
「……ドリスがうらやましいですわ。お兄様の心を独り占めできて」
ユーフェミアのつぶやきはセレストの耳に届くことなく、朝靄に溶けて消えた。
ひとしきり歩くうちに、東の空はすっかり白んでいた。もう少し経てば、遠くの山際が金色の朝日に縁取られる。
「そろそろ戻ろう。部屋まで送る」
「今日はこのまま、おサボりしたい気分ですわ」
「それなら、サボるという設定で妄想してみたらいい。案外、楽しいぞ」
年がら年中部屋に引きこもって、数多の書物に触れているドリスのたくましい妄想力には敵わないが、時折、意識を王宮の外、あるいは国の外へ馳せてみることがある。
この王宮と海辺の離宮しか知らずに育ったユーフェミアの気がまぎれたらと思ったのだが、妹はなぜか憐れみの眼差しでセレストを見ていた。
「お兄様。真面目にご公務にいそしんでいると見せかけて、頭の中ではあんなことやこんなことをなさってますの? 妄想なんておっしゃらずに実行なさいませ。不健康ですわ、ムッツリですわ」
「……朝からツッコませないでくれ、面倒くさい」
セレストが片手で顔を覆いながら大きなため息をついた、その時だった。
ぽんっ! と、コルクの栓を引き抜くような音が響いた。同時に、白銀色の煙が巻き起こる。煙は綿菓子のようにもくもくと広がり、ユーフェミアを包み込んでいた。
「え……?」
ものの数秒で、白銀色の煙は朝霧と同化するようにかき消えた。
今の今までユーフェミアが立っていた場所に、彼女に羽織らせた若草色の上着が舞い落ちた。同系色の縫い取りがほどこされた上等な布地が、まるで生きているようにもぞもぞと動きだす。
上着の中からひょっこり現れたのは、見覚えのある純白の毛並みをした猫だった。
「お兄様……」
妹姫の姿の時よりもわずかに高く細い声は、震えていた。
二人……いや、一人と一匹は互いに顔を見合わせ、ごくりと喉を鳴らした。
一拍の間を置いて、
「「えええええええええっ!?」」
一人と一匹の絶叫が、明け方の空に響き渡った。
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