4
宮殿の西翼にある塔は外界から隔絶されており、城の地下を這う通路と苔むした階段でつながっている。
「魔法師団の塔」というのは俗称で、「宮廷魔法師団詰所兼、魔法学研究所」が正式な名称である。
人一人がやっと通れるくらいの狭い通路を、ドリスは足を滑らせないように慎重に進んでいた。前を歩くメリンダは、鈍くさいドリスに合わせて歩調をゆるめてくれている。頭上では、メリンダが魔法で作りだした光の玉があたりを照らす。
そして、ドリスの後ろには、
「殿下、夜会に出席なさらなくてもよろしいのですか?」
なぜかセレストがいた。
「気にするな」
「気になりますよ……」
ユーフェミアの侍女を言いくるめて部屋の前で堂々と立ち聞きをしていたセレストは、どういうわけかメリンダに「魔法師団の塔を見学したい」と願い出た。
色と光にあふれるきらびやかな王宮の中で数少ない、外界から隔絶された場所。王族を守護する魔法使いたちが集い、研鑽を重ねるための空間。あこがれの世界を垣間見られるのはドリスにとって願ってもないことだけれど、どうにも落ち着かない。
「魔法師団の塔が見たいって言ってただろ」
「それはそうですが、別に今でなくてもいいのでは……?」
「鈍いねえ、君は」
ひたひたと石造りの湿った通路を進みながら、メリンダは呆れたように言った。
「殿下は、君の体調を気遣ってるんでしょーが。人ごみ、苦手なんでしょ?」
ドリスは立ち止まり、振り返った。黒の礼装に身を包んだセレストは、怒ったようにも拗ねたようにも見える表情で、薄桃色の唇を尖らせて言った。
「お前がまた広間で倒れたら、他の客人たちに失礼だからな」
「もっと優しい言葉かけてやりなよ。ちゃんと言わないと通じないよ」
メリンダの突っ込みは、ドリスの耳には届いていなかった。
「いつも、お手をわずらわせてばかりで……申しわけありません」
「そんな辛気臭い顔をするな。こっちまで気が滅入る」
ドリスはどんな顔をしたら良いのかわからず、柳の枝のようにうなだれた。
「あのさ、ドリス。殿下は、君に笑ってほしいって言ってるんだよ。好きな子にはいつも笑っていてほしいわけ」
「おい、余計なことを言うな!」
「ええー? だって、見ててじれったいもん。殿下は口下手だし、ドリスは鈍いし。こんなペースじゃ、見てるほうはイライラするんだよ」
「余計なお世話だ!」
ただでさえよく通るセレストの声が、石造りの狭い通路に反響した。メリンダは両手で耳を塞いで「うるさいなあ」と顔をしかめた。
騒々しい言い合いをするセレストとメリンダの間で、ドリスは一人、思案にふけっていた。
「笑う……?」
明るく微笑んでみせれば、セレストは喜んでくれるのだろうか。
ドリスは試しに、頬に力を入れて口角を上げてみた。それから、目をぐっと開いてみる。鏡がないのでうまく笑えているかわからないけれど、普段の陰気な表情よりはマシなはずだ。
「大体、あんたは俺の何を知ってるっていうんだよ?」
「見ればわかるさ。上っ面は完璧なくせに、肝心なところで何もできないヘタレじゃないか」
「このババア、言わせておけば……!」
「そういうところ、国王陛下にそっくりだよ。あと、次『ババア』って言ったら蹴るからね」
「あの……殿下」
ドリスが顔を伏せたまま呼びかけると、セレストは「どうした?」と訊き返した。
(笑顔、笑顔……)
ドリスは心の中で何度も念じながら、思い切って顔を上げた。
……にたり。
そんな効果音がつけられそうな、子どもが見たら泣いて逃げだすほどの恐ろしい形相だった……とドリスが知るのは、ずっと先の話である。
ほの明るい光に照らされて浮かぶドリスの笑顔(らしき物)に、セレストが大声をあげなかったのは彼なりの精一杯の優しさなのだと知るのも、ずっとずっと先のこと。
「……お前は、お前のままでいればいい」
まるで時間が止まっているかのよう――というのが、魔法師団の塔に足を踏み入れての第一印象だった。
外の世界はとうに日が落ち、宮殿では夜会が催されている時分だが、塔の中はまるで昼間のように明るい。それでいて、真夜中のように静謐な空気が満ちている。
今夜は、宮廷魔法使いのほとんどが王宮の警護で出払っているせいもあるらしい。普段はもっと騒がしいのだと、メリンダが説明してくれた。不思議なことに燭台やシャンデリアなどの光源がまったく見当たらず、蝋や油の匂いも感じられない。
時折すれ違う若い魔法使いたちは、夜会に出席しているはずの王太子の姿を目にすると、不思議そうに目を瞬かせながらも姿勢を正して礼を取った。
魔法師団の塔は五階まであり、上の二階層は仮眠室らしい。ドリスたちは地階から三階まで見せてもらうことになった。書庫のある地階から昇って、一階は間仕切りされた会議場、二階は分野ごとにわかれた魔法研究室が並び、三階へ昇ると歴代の魔法師団幹部の肖像画が飾られた大部屋があった。
「ここは『悠久の間』っていってね、歴代の幹部たちを称え、国のさらなる発展を願う部屋だよ。……といっても、普段は雑談したり、おやつを食べるくらいにしか使ってないんだけど」
通された大部屋は無人で、整然と並べられたオーク材の机の上に、遊戯用のカードが散らばっていた。開かれたカードの山を囲むように、数枚のカードが乱雑に伏せられている。よく見れば、一対一の勝負の途中で一方がゲームを放棄したかのようだ。
「あれ、団長ってば、どこに行ったんだろ? さっきまでここにいたのに」
「あんたが勝負を投げたから、怒って出て行ったんじゃないのか?」
「あっ、そうか」
「ていうか、部下を働かせて幹部がカード賭博って、何やってるんだよ。仕事しろよ」
セレストは机上のカードを拾い上げ、ひらひらと振ってみせた。
「待機組もいろいろと仕事を抱えているのだよ。たまの息抜きくらい、許してくれたまえ」
「許しを乞う物言いじゃないだろ」
「まあまあ」
メリンダはおどけたような笑顔で、両手を胸の前で振りながら弾むような足取りで肖像画の一つに歩み寄った。金細工の大きな額縁に両手を添え、かこんっ、と直角に傾ける。
すると、地鳴りのような音が響き、ドリスとセレストの背後に赤茶けた鉄の扉が現れた。
「絵に描いたようなベタな仕掛けだな」
「仕掛け自体はベタだけど、魔力のない普通の人には開けられないようにできているのさっ」
メリンダは鼻歌まじりにこちらへ歩み寄り、部屋の扉より二回りほど小さな鉄の扉を手前に引いた。人の悲鳴のような、錆びた鉄の擦れる音が響く。
開かれた扉の向こうに見えるのは、足を踏み入れる者を飲み込んでしまいそうな、闇色の穴ぐらだった。
「副団長さん、こちらのお部屋は? もしかして、黒ミサや悪魔召喚のための祭壇ですか?」
「んー、当たらずとも遠からず、かな」
目を輝かせて尋ねるドリスに、メリンダは肩をすくめて微笑を浮かべる。彼女が身をかがめて扉をくぐると、先の見えない闇の中に彼女の長身が溶け込むように消えた。
「二人とも、おいで」
中から聞こえるメリンダの声に導かれるように、ドリスとセレストも後に続く。ほんの一瞬、氷のような冷気に肌を撫でられ、漆黒の闇に視界を覆われた。
冷たく暗い闇を抜けると、青磁を思わせる明るい青色が目に飛び込んできた。
塔の構造上、ただの小部屋だと思っていた空間は、元いた部屋よりもずっと広かった。床には青を基調としたタイルがモザイク画を描くように敷き詰められ、円筒状の壁面はすべて書棚で覆われている。香を焚きしめたような甘い匂いがただよう空間の中央には、清らかな水を張った水盤が
天井はドーム状になっており、二人の美しい黒髪の魔女が向かい合う絵が描かれている。彼女たちは剣を交える騎士のように、黄金の杖を交差させていた。まるで、異国の聖堂のようだ。
「あの天井画は、かつては親友同士だった二人の魔女の決裂を描いたものだよ」
メリンダはドーム天井を指差した。天井画の魔女は、一方が燃えさかる炎のような真紅のローブを、もう一方が深淵の闇を思わせる漆黒のローブをまとっている。
「ここは、『沈黙と裏切りの間』。およそ二百年前に起きた出来事をきっかけに造られた。その出来事の断片がいくつか民話になってるから、彼女たちのことは君たちも知ってるはずだよ。特に、ドリス」
「え?」
ドリスが振り仰ぐと、メリンダは天井を見上げたまま、一言ずつ区切るように言った。
「黒いローブの魔女は、沈黙の魔女リプリィ」
どくん、とドリスの心臓が跳ねた。
『やっと見つけた』
脳裏によみがえるのは、幼いながらに艶を帯びた、不思議な響きを持った、女の子の声。
鬱蒼と茂る森の中、紫色の瞳をきらめかせていた黒髪の女の子――沈黙の魔女リプリィ。
「この人が、リプリィ……?」
ドリスは天井画を見上げ、たしかめるように瞬きを繰り返した。天井に描かれた魔女は、二十歳前後の美しい女性だ。ドリスの記憶にいるリプリィとは姿が違う。
「赤いローブの魔女は、裏切りの魔女サレム。彼女のことは、『黒鳥姫』って呼んだほうがわかりやすいかな」
息を飲むドリスの隣で、セレストが問い返す。
「おとぎ話の黒鳥姫のことか? 吸血伯爵が出てくる……」
「そう、悪い魔女に呪いをかけられた娘と吸血鬼の悲恋。あの話はほぼ実話で、黒鳥姫――サレムに呪いをかけたのがリプリィなんだよ」
「二つ名の『裏切り』というのは?」
「リプリィもサレムも、元は宮廷魔法使いだったんだ。あたしの大先輩だよ。あの時代は吸血鬼も実在していて、二人は吸血鬼狩りの任務にあたっていた。ところが、サレムが吸血鬼の男に一目惚れしちゃって、魔法師団から出奔したのさ」
民話では「悪い魔女」と伝えられているリプリィが、昔は宮廷に仕える魔法使いだったなんて、想像がつかない。
「身勝手な行動に怒ったリプリィは、サレムに呪いをかけた。恋が成就しないように、彼女の姿を黒鳥に変えた。そのうえ、自分の想いを相手に伝えたら命を落とす呪いを重ねがけした」
「呪いの重ねがけは、術者に相当な負担がかかるはずでは……?」
複数の呪いを重ねてかけることは、術者の命に関わる場合もあるため、禁呪とされている。
「うん、リプリィは呪いの代償を受けたよ。魔力を著しく削られ、弱体化した。法を犯したせいで魔法師団からも除籍され、今は追われる身だ。……彼女は、自分のすべてをひきかえにしてでも、サレムを取り戻したかったんだろうね」
天井画のリプリィは、おそらく怒りの感情を描いたものなのだろう。けれど、ドリスの目には彼女が泣いているように映った。自分から離れていく親友に向けて、戻ってきてほしいと叫んでいるように見えた。
「結局、サレムは戻らないまま命を落とした。その後は、誰もが知ってる『沈黙の魔女』のお話のとおりさ。リプリィは、人の魂を食らって生きながらえている」
話を締めくくったメリンダは、若葉色の目を細めて明るい口調で言った。
「あ、君たちをここに連れてきたことは内緒ね。彼女たちの話って、超機密事項だからさ」
「おいおい」
知らない間に機密漏洩の片棒を担いでしまったのかと、セレストが顔をしかめた。
「大丈夫大丈夫、黙ってればバレないから」
「そういう問題じゃないだろ」
「副団長さん」
甘い香の匂いに酔いそうになりながら、ドリスはかすれた声で呼びかけた。
「メリンダでいいよ」
「メリンダさん、あの……」
なかなか切り出せずに、胸の前で両手の指を絡めていると、メリンダは腰をかがめて「ん?」とドリスの顔を覗き込んできた。
「リプリィにかけられた呪い……魔力凍結の呪いは、解ける見込みがあるのでしょうか?」
屋敷の奥に引きこもってさえいれば、他人と顔を合わせることなく過ごしていれば、誰にも迷惑をかけることなく平穏に暮らしていけると信じていた。
けれど今回、ドリスは自分の知らないうちに魔力を暴発させ、何の関係もないユーフェミアに呪いをかけてしまった。王女にかかった猫の呪いは無事に解けたけれど、いつまた同じようなことが起きないとも限らない。
「……難しい、って言ったら、どうする?」
探るようなメリンダの問いかけに、ドリスは両の拳をぎゅっと握りしめた。
「不可能では、ないのですね……?」
一筋の希望が見えたことに、喜びを隠せない。自然と顔がほころんでゆく。
ほんの数日前までは、こんな言葉は出なかっただろう。屋敷の隅の暗がりで、自分だけの世界に閉じこもっていただろう。
ドリスの胸の中で、少しずつ何かが変わりはじめていた。
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