「わたくし、いったい……?」

 風に舞う花びらに包まれたユーフェミアは空色の目をぱちくりとさせ、華奢な手で自らの頬に触れた。その様子はまるで、花の精霊のいたずらに戸惑う天使のように愛らしい。

「僕、夢でも見てるのかな……?」

 棒立ちになったパーシバルは、口元に薄笑いを浮かべてつぶやいた。

「ユフィが好きすぎて、とうとう幻覚が見えるようになっちゃったのかな……?」

「あ、あの、パーシバル様。これは夢でも幻覚でもなくて……その」

 ドリスが言葉を探していると、耳の奥で泡の弾けるような音が響いた。魔法使いだけが察知できる、魔力の気配である。

「あーららら。ずいぶんとまあ、派手にとっ散らかしたもんだねえ」

 二十歳前後の女性とおぼしき、溌剌とした声が聞こえた。

 バルコニーへ続く窓の前、青紫色の夕空を背景に、細く長い人影が見えた。窓が開かれた形跡はなく、女性が空間転移魔法を使ってこの部屋へやってきたのだと、ドリスはすぐに察した。

「まあ、建物を壊されるよりは後始末が楽でいいけどさ」

 魔法使いはひとりごちながら、ぱちん! と指を鳴らした。すると、花園と化していた部屋が一瞬にして元の様相を取り戻した。同時に、たちこめていた花の香りもかき消えた。

 彼女が再び指を鳴らすと、今度は天井から吊るされたシャンデリアと壁面の燭台に煌々と明かりが灯された。夕闇に溶け込んでいた魔法使いの姿がくっきりと浮かび上がる。

 肩の上で切りそろえた夕焼け色の髪、瞳は明るい若葉色、小さな鼻の周りにはそばかすが点々と散っており、健康的な小麦色の肌は魔女というよりも畑を耕す村娘を連想させる。小さな顔に細い首、手足もすらりと長く、男性用の藍色の団服がよく似合う、中性的な美貌の女性だ。

 赤毛の魔法使いは片手を上げ、高らかに言った。

「ごきげんよう、諸君!」

「「「……………………」」」

 ドリスたちは、両手両脚が生えた巨大な怪魚でも見るような目つきで魔法使いを凝視した。

「おやぁ? ノリが悪いぞっ、若者たち!」

(変な人だわ)

 この場にセレストがいたら、「お前に言われたら相手が気の毒だ」と突っ込まれていただろう。

 赤毛の魔法使いは、からからと笑いながら大股でこちらへ歩み寄った。

「あなたは……」

 はっとしたように言ったのは、パーシバルだった。

「魔法師団副団長、メリンダ・ラッセル殿?」

「いかにも」

 メリンダと呼ばれた魔法使いは、大仰にうなずいた。

「城内で不審な魔力を察知したら瞬時に駆けつける。それが、我々魔法師団の役目だからね。セ●ムしてますか? えっ、どうして幹部がわざわざ飛んできたかって? もちろん、あたしが人一倍仕事熱心だからさ。間違っても、カード勝負で負けがこんで、今月の給金をまるごと団長に持っていかれそうなところを逃げてきたとか、そういうんじゃないよ。そこんとこ、誤解のないように」

 訊いてもいないのに、由緒ある宮廷魔法師団の幹部は、己の恥部をぺらぺらと喋りだした。

「まあ、呆れましたわ。国庫から出ているお給金で賭博だなんて!」

「ずいぶんとお若い方なのですね、副団長さんって」

 同じ音色をした二つの声が重なり、ユーフェミアとドリスは互いに顔を見合わせた。

「あら、若いのは見た目だけですわよ。魔法師団の幹部は、あなたのお父上の倍は年かさのはずですわ」

「ということは、はちじゅう……?」

 ドリスがちらりと視線を送ると、メリンダの笑顔が、微妙に引きつったように見えた。

「魔法で若作りをしているのですわ」

 ユーフェミアはドリスの耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。

「どうせなら、胴周りも魔法で補正なさったらよろしいと思いませんこと? あと、腰の下も丸みが足りませんわ。貧相ですわ」

「姫様とおそろいですね」

「わ、わたくしは成長期だからいいんですのよっ! 大体、あなただってそう変わらないじゃありませんのっ!?」

「それもそうですね」

 ぽん、と掌を打つドリスに、ユーフェミアは顔を真っ赤にして声をあげた。図星をつかれてうろたえるところは、兄のセレストとよく似ている。

「悪かったねー、絶壁の寸胴で」

 いつの間にかソファに腰かけていたメリンダは、切り分けられたタルトを手づかみで豪快に頬張りながら言った。

「ラッセル副団長。一つ、お尋ねしても?」

 パーシバルは困惑したような表情を浮かべながらも姿勢を正し、まるで従者のように恭しい物腰で問いかけた。

「どうぞ、二つでも三つでも好きなだけ。いい男は、そこにいるだけで目を楽しませてくれるからね。観賞料として答えてあげるよ」

 人好きのする笑みを浮かべ、メリンダはまた一口、タルトを齧った。

「では、お言葉に甘えて」

 パーシバルはそう前置いて、ドリスとユーフェミアに目を向けた。どこか遠くを見るような虚ろな眼差しで、息を吐き出すように言った。

「ユーフェミア王女が二人いるように見えるのですが、僕の気のせいでしょうか?」

「「あっ」」

 ドリスとユーフェミアの声が重なった。

「ああ、それね。君は知らなかったっけ?」

 メリンダはそう言うと、三度みたび指を鳴らした。ぽんっ! という軽快な音とともに白銀色の煙が上がり、ドリスの目線がほんのわずかに高くなった。

「ドリス!?」

 パーシバルが驚きの声をあげた。手品の種明かしをされた観客のように、大きく目を見開いて、食い入るようにこちらを見ている。

 ドリスは自分の髪に触れてみた。ふんわりと波打つ豊かな金色だった髪が、絹糸のようにまっすぐな黒髪へと変わっていた。黒ウサギを思わせる左右の結い髪がなんだか懐かしい。視線を落とすと、黒鳥の翼のような夜色のドレスが目に入った。心を優しく包んでくれる、安らぎの夜色だ。

 同時に、ユーフェミアの華奢な身体を包む夜着も、クリーム色の豪奢なドレスに変わった。それは、たった今までドリスがユーフェミアの代わりにまとっていた、夜会用の衣装だった。

「どうして、君が……?」

「ごめんなさい、パーシバル様。だますつもりでは……」

 ドリスは顔を伏せた。欺いたという罪悪感から、パーシバルと目を合わせることができない。

「パーシー様、ドリスを責めないでくださいな。これには、やむにやまれぬ事情がありますの」

 ユーフェミアがドリスの前に割って入り、上目遣いで訴えた。

「お願いですわ。どうか、このことはご内密に」

「ユフィ、君は今までどこにいたの?」

「わたくしは、ずっとここにおりました。このくらいの大きさで……ちょっと毛深い感じの」

 ユーフェミアは両手で円を描いた。子どもでも抱えられそうな、小ぶりのカボチャほどの大きさだ。

「じゃあ、さっきまで一緒にいたユフィは?」

「わ、わたしです……ごめんなさい!」

 ドリスは深く頭を下げた。

「わかりやすく説明すると、ドリス・ノルマンの魔力が暴発したのさ。魔力凍結の呪いについては、君も知ってるよね? それで、巻き込まれた姫様が猫の姿になっちまったもんだから、急遽、ドリスを代役に立てたってわけさ」

 タルトを頬張り、手つかずの紅茶を勝手にすすりながら、メリンダは軽い口調で説明した。

「さっきのお花畑もドリスの仕業だよ。もちろん無意識だけどね。おおかた、君の美貌に興奮しすぎたんだろうさ。あははっ」

 魔法師団副団長の冷静かつ的確な分析に、ドリスは耳まで赤くなった。顔を上げると、なぜかパーシバルも気まずそうな表情で頬を赤く染めていた。

「ドリス、ごめん。さっきのことは……忘れてくれるかな? その……いろいろと」

「いえっ、お気になさらず。わたしのほうこそ、ご迷惑をおかけしまして……」

 危うい色香を含んだ眼差しも、甘く痺れるような声も、薄い唇からこぼれる吐息の熱さも、簡単に忘れられるものではないのだけれど、一秒でも早く忘れなくてはと思った。お互いの平穏な日常のためにも。

(あれはすべて、姫様に向けられたものだもの。わたしなんかが覚えていても、また悲しくなるだけ……)

 ふと、ドリスの思考が止まった。

(また、って……どういうこと?)

 身に覚えのない感情が胸の奥で静かに騒ぐ。喉の奥にお菓子を詰まらせてしまったような不可解な息苦しさが、ドリスの呼吸をわずかに乱した。

 メリンダが言う。

「詳しいことは調べてみないとわからないけど、ドリスが今起こした暴発で、姫様にかけられた猫の呪いは相殺されたんじゃないかな」

「まあ、本当ですの?」

 ユーフェミアは重ねた両手を胸に当て、安堵の息をついた。

「姫様とドリスには、このまま魔法師団の塔へ来てほしいな。呪いの影響もろもろについて調べたいからね」

「ラッセル副団長。申しわけありませんが、今夜は彼女を夜会へ出席させたいのです」

 パーシバルはユーフェミアの肩を抱き寄せ、やわらかく微笑んだ。

「宮廷じゅうに流れている『毒舌王女』の噂を払拭させなくては、婚約者として安心できませんから」

「あら、どなたがそのようなことを? 失礼ですわね」

「さあ、誰だろう?」

 心外とばかりに目を見開くユーフェミアに、パーシバルはくすりと笑った。

「そうだね、公の場にはできる限り顔を出しておいたほうがいい」

 パーシバルの意向に、メリンダはうなずいた。無事に解放されたとはいえ、王女が呪われたと知れたら、王宮はおろか城下でも騒ぎが起こる恐れがある。

「明日の午前にあらためて迎えを寄越すよ。ドリスも、明日は同行してくれるね?」

「えっ?」

 呼ばれて、ドリスははっと顔を上げた。

「どうしたの、ドリス? 顔色が良くないよ」

「いいえ、大丈夫です……すみません」

 心配そうに声をかけてくるパーシバルを避けるように、ドリスは顔を逸らした。

(わたし、変だわ)

 頬や身体の火照りは収まったものの、胸の奥で鳴り響く鼓動はまだやまない。

 皿に盛られた色とりどりのお菓子を好きなように口にしていたメリンダが、ふと立ち上がった。風のように颯爽と大股で部屋の入口へ歩み寄り、両開きの扉を勢いよく手前に引いた。

「うわっ!」

 前のめりになってたたらを踏んだのは、上品な礼装に身を包んだ金髪の少年だった。

「立ち聞きなんて女々しいよ、坊主。入りな」

 メリンダは細い腰に両手を当て、顎をしゃくった。

(魔法師団の幹部の方って、もしかして王族よりもお偉いのかしら?)

 ドリスが目を丸くしてしまうほど、メリンダの王太子に対する物言いはぞんざいだった。

 女性にしては長身なメリンダに肩を押されるようにしてやってきたセレストは口元を歪ませ、睨むようにドリスへ目を向けた。

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