王女の私室では、ユーフェミアに扮するドリスが侍女たちの手を借りて夜会用の装いに着替えたところだった。

「一人になりたい」と言って侍女を下がらせ、飴色の西日が静かに射し込む室内で、生気が抜けたような表情でうなだれている。

「やめてくださらない? わたくしの姿で、そのような間抜けな顔をなさるのは」

 クッションの上にちょこんと座る猫のユーフェミアが、呆れたように言った。

 銀翼の間でのお茶会は、クラレットたちの途中退場をきっかけにお開きとなった。ドリスが部屋を辞する際に、「ユーフェミア姫様、なんて凛々しいお方……」「あのクラレット様を言い負かすなんて、惚れてしまいそうですわ」などといった囁き声が聞こえてきた。

 それは良いのだ。ユーフェミア王女の武勇伝、大いに結構である。

 問題はその後だ。行きと同じく侍女の先導で私室へ戻る道すがら、ドリスはユーフェミアから残念な事実を聞かされた。

 セイカクブス――性格ブスとは、ドリスが思い描いていた新種の植物などではなく、心の醜い人を指す俗語なのだという。

 ドリスのひそやかな興奮はもろくも打ち砕かれた。勝手な思い違いをして、勝手に興奮して、勝手にがっかりしただけなのだが、切ないものは切ない。クラレットたちに不快な思いをさせてしまったことよりも、新種の毒草が存在しないという事実に落胆していた。

「いいかげん、しゃんとなさって。せっかくのお衣装が泣いていますわよ」

「わたしも泣きたいです……」

 春のまろやかな月明かりを思わせるクリーム色のドレスは、窓から射す夕日を受けて淡い紅茶色に染まっている。

「そんなに毒草がお好きなんですの?」

 ユーフェミアの問いに、ドリスはのっそりと身を起こして小さくうなずいた。

「わたしは落ちこぼれの魔女ですから、魔法が使えない代わりに研究の面で国のお役に立ちたくて……。趣味と実益を兼ねて魔法薬や護符アミュレットを独自に開発していまして、職業病といいますか、めずらしいものを見聞きすると、つい頭の研究スイッチが入ってしまうのです……」

 身内の間ではとことん不評な蜘蛛くも蝙蝠こうもりを描いた刺繍も、護符の一種なのだ。

 すると、ユーフェミアは意外そうに目をみはった。

「気を悪くなさったらごめんなさい。引きこもりと聞いていましたが、意外とアクティブですのね」

「適度に暗くて湿度の高いところでしたら、活発に動けます」

 対して、まぶしくにぎやかな場所では、ドリスの行動力はいちじるしく鈍る。

「まるで、キノコみたいですわね」

「王太子殿下は、藻草とおっしゃいます」

「まあ……、兄がとんだ失礼を」

 ユーフェミアは、小さな頭を深く垂れた。「あのボケナス兄」というつぶやきが聞こえたのは、気のせいだろうか。

「お気になさらないでください、姫様。わたしは気に入っていますから。キノコも可愛いので気に入りました。わたしの『渾名名鑑』に加えさせていただきますね」

「なんですの、それは?」

「わたしが呪われた六歳の頃から、王宮の方々やランカスタ村の人たちがつけてくださった、渾名の歴史です」

 悪魔の娘、吸血鬼の花嫁、モグラ女、深海魚、化石、人食い姫、影絵、苔、ナメクジ……などなど、魔力凍結の呪いを受けたドリスには数々の異名がある。気に入ったものを帳面に書きとめており、その数は四十以上にのぼる。

「姫様が名づけてくださった『キノコ』で、四十四個目になります」

「あ、あなた、バカじゃありませんの!?」

 突然、ユーフェミアが大きな声をあげたので、ドリスは驚いて目を丸くした。

「そんな……悪魔だの吸血鬼だの、ただの悪口ですわよ! なのに、どうしてあなたは、そんなにへらへらしていられますの!?」

 へらへらしていたのだろうか。ドリスは頬に手を添えて首をかしげた。

「では、姫様はわたしのことを貶めるために『キノコみたいだ』とおっしゃったのですか?」

「ち、違いますわっ! わたくしは、そんなつもりでは……」

 ユーフェミアの青い宝玉のような双眸が見開かれ、アーモンドの形をした焦茶色の瞳孔がわずかに大きくなった。

「他の方々も同じです。皆、親しみをこめて呼んでくださっているのです」

 ドリスは淡く微笑んだ。ヒースやライラックの花が咲きほころぶような、ユーフェミアの可憐な笑顔を想像しながら。

「……何も言わず冷たい視線だけ向けられるよりも、よほど心が軽くなります」

 人の目は時に、発する言葉よりも饒舌になる。冷たく刺のある視線が茨のように絡みつき、身動きを封じられてしまう。王宮にいた頃も、ランカスタ村へ戻ってからも、人々がドリスを見る目は冷たかった。

 歴代の侍女たちは、ドリスの機嫌をそこねたら呪いの巻き添えを食うのではと怯え、一月ひとつきと持たずに皆、屋敷を逃げだした。最も長続きしているのは、ドリスのそばに仕えてから三年になる十四歳のシェスカである。呪いのことなど気にも留めず、思ったことをはっきりと口にする気風の良さに、ドリスは何度も救われた。

「わたくし、なんだか猛烈に腹が立ってきましたわ」

「姫様?」

「あなたを侮辱する者たちにですわ! わたくしがそばにいれば……わたくしが健康で、離宮ではなくこの王宮にいれば……、あなたにつらい思いなどさせませんでしたわ!」

 ユーフェミアは、まるで自分のことのようにいきりたっている。

「そもそも、あなたに呪いをかけた魔女が元凶ではありませんか! いったい、どこのどいつですの!? その者さえ絞めあげれば、あなたの呪いは解けるのではなくて? 居場所を教えてくださいな。わたくしが行って、ギッタギタに叩きのめして差し上げますわ!」

 フーッ! と純白の毛を逆立て、ユーフェミアは金切り声で叫んだ。

「居場所は……わかるといえばわかりますし、わからないといえばわかりません」

「要領を得ませんわね。どういうことですの?」

「姫様は、『沈黙の魔女』という名に聞き覚えはおありですか?」

「沈黙の魔女……リプリィのことですの? あれは架空の人物でしょう?」

 ランカスタ村から発祥し、国じゅうの子どもたちが知っている寝物語の一つに、リプリィという名の魔女が登場する。


『月も風もない、暗く静かな夜に、沈黙の魔女リプリィがやってくる。

 リプリィは小さな女の子。中身は三百歳のおばあさん。

 新月の夜はベッドから出てはならないよ。リプリィに食べられる。

 新月の夜は黒猫にご用心。リプリィの使い魔だ』


「子どもを寝かしつけるためのおとぎ話だとされていますが、リプリィは実在するのです」

「その……リプリィが、あなたに呪いをかけたというのですか?」

 ドリスがうなずくと、ユーフェミアは信じられないといった様子で喉を鳴らした。

「リプリィは人間の魂を抜き取って己の生命力に換え、抜け殻となった身体を収集していると聞きました」

 人間をもの言わぬ人形へ変えてしまうことから、「沈黙の魔女」という二つ名がつけられた。

「ちなみに、リプリィの好みは金髪碧眼の見目麗しい人間で、年齢性別不問です」

「……そこで、わたくしをじっと見ないでくださる?」

 ドリスのまっすぐな視線に、ユーフェミアは身じろいだ。現在の姿は白い猫だが、本来の姿は金髪碧眼の可憐な姫君なのだ。沈黙の魔女リプリィでなくとも、人形にして部屋に飾りたいと思ってしまう。ドリスは頬をほのかに染め、胸の前で両手を組んで言った。

「姫様は、ど真ん中だと思います」

「ちっとも嬉しくありませんわっ!」

 ユーフェミアは全身の毛を逆立て、ふさふさした尻尾をぴんと伸ばして威嚇した。小さな前脚の先から真珠色の鋭い爪が覗く。さらに何か言い募ろうとしていたユーフェミアだったが、不意に尻尾をぱたりと下ろし、青い目をきらめかせた。

「それにしても、妙ですわね」

「え?」

「リプリィの好みが金髪碧眼だとしたら、失礼な話ですがあなたは対象外でしょう? いわゆる『ど真ん中』のセレストお兄様に目もくれず、あなたに嫌がらせのような呪いをかけたのには、何か理由があるのではなくて?」

 ドリスの髪は闇を凝らせたような漆黒、瞳は夜明け前の空のような藍色。顔立ちは、お世辞にも美人とはいえず、リプリィの好みとは正反対の容姿をしている。

「理由ですか……」

「そう、たとえば……あなたの強い魔力がリプリィにとって脅威だったとか。もしかしたら、年端もいかない子どものうちに魔力を封じておこうと考えたのかもしれませんわ!」

「そんな回りくどいことをするくらいなら、サクッと殺してしまったほうが早いと思いますが」

 ドリスは、まるで子豚をベーコンにでもするような口ぶりで言った。ユーフェミアは、狭い眉間に皺を寄せつつ言葉を続けた。

「殺せない理由があるのかもしれませんわよ。あなたの命を奪ったら神罰が下るとか」

「まるで、三文芝居のあらすじみたいですね……ぷぷっ」

「わたくしは大真面目ですわっ!」

 一昔前の冒険小説を思わせる筋書きにドリスが笑うと、ユーフェミアは再び毛を逆立てた。

「話を戻しましょうか。沈黙の魔女リプリィは、ランカスタ村の東の、山奥のどこかにある古城で暮らしています」

「どこかって、どこですの?」

「わかりません。リプリィは、魔法で古城周辺の空間をねじ曲げています。外部からの侵入者を近づけないように」

「……魔法師団もお手上げというわけですのね」

 ドリスは諦めの色を織り交ぜた苦笑を浮かべながら、うなずいた。

 その時、入口の扉が叩かれた。入室した侍女が一礼して用件を告げる。

「姫様、パーシバル・アンブラー様がお見えです。お通ししてもよろしいでしょうか?」

 ドリスがそっと目配せをすると、ユーフェミアは無言でうなずいた。

「どうぞ、お通ししてください」

 侍女と入れ替わりに姿を見せたパーシバルは、ユーフェミアの姿をしたドリスと目を合わせるなりほっとしたように顔をほころばせた。

「やあ、ユフィ。元気そうで何よりだよ。今朝と比べてだいぶ顔色が良くなったね」

「そ、そうですか? きっと、夕日のせいですわ……」

 ドリスは立ち上がり、口ごもりながらパーシバルに椅子をすすめた。お茶菓子の載ったワゴンを押して侍女がやってくると、パーシバルは「ありがとう、あとは僕が」と退室をうながした。ドリスは慣れない手つきで紅茶を注ぎ、お菓子が盛られた皿をテーブルに並べた。

「聞いたよ。昼間のお茶会、おもしろいことになったそうだね」

 向かいに座るパーシバルは、涼やかな琥珀色の目を細めて囁いた。いたずらっぽい眼差しがやけに妖艶に見えてしまい、ドリスの心臓が大きく跳ねた。

「僕も見たかったな。クラレットたちを言い負かすユフィの勇姿」

「お、おやめください……恥ずかしいです」

 ドリスは頬を染めてうつむいた。焼き菓子の香ばしい匂いが鼻先をくすぐるが、緊張のあまり食欲が湧かない。

「でもね、ユフィ。僕のいないところで喧嘩なんてしてほしくないな」

「ごめんなさい……、はしたないことをして」

 本物のユーフェミアもきっと同じことを言うだろうと思い、ドリスは素直に詫びた。

「怒っているんじゃないよ。ユフィのそういう姿は、僕にだけ見せてほしいんだ」

 ドリスは顔を上げた。飴色の夕日を吸い込んで深い赤銅色に染まるパーシバルの瞳に、鼓動が跳ねた。心を絡め取るような視線を向けられ、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。

「隣に行ってもいい?」

「ふえっ!?」

 ドリスが間抜けな声をあげる間に、ユーフェミアはソファからひょいと飛び降り、パーシバルに向かって「にゃおん」と可愛らしい鳴き声をあげた。

「譲ってくれるの? ありがとう」

(ひっ、ひひひひひ姫様! そのようなお気遣いなど不要です……!)

 ドリスの心の叫びなど知るはずもなく、パーシバルは羽毛のように軽やかな動きで腰を上げ、あっという間に隣へ移動してきた。

(姫様……。わたしに、パーシバル様と仲睦まじく過ごせとおっしゃるのですか? ……っていうかパーシバル様、近いです。それ以上近寄られたら、脳味噌がホウセンカのようにパーン! と破裂してしまいます。お願いです、離れてください!)

 ドリスにとってパーシバルは、顔を見るだけで心が安らぐ、心の清涼剤のような存在だ。

 そのはずだった。

 今のパーシバルは、ドリスがよく知る彼とはまるで別人のような……。うまく言えないが、少々危険な香りがひそんでいるような気がする。

「ユフィ」

 背筋を指先で撫で上げられるような低く甘い声に、ドリスはわずかに肩をすくませた。

 吐息がかかるほどの距離でもないのに、耳元で囁かれているような錯覚をおぼえる。これはきっと、今朝がたユーフェミアの代わりに抱きしめられたせいだ。両手の指が熱く痺れ、頭の奥がぐらつくような浮遊感に耐えながら、ドリスはきゅっと唇を引き結んでうつむいた。

「そのままでいいから聞いてほしい」

 パーシバルの声に反応してか、瞼も頬も、膝から爪先にかけてまでも、まるで全身が心臓になったかのように、じわじわと火照っていく。

「僕は、同情で君に結婚を申し込んだわけじゃないよ」

 やや低くなった声で紡がれた言葉の意味がわからず、ドリスは顔を伏せたままぽかんとした。

「あの時、君から『同情でしたら結構です』って言われて、正直ショックだった」

(もしかして……わたし、聞いてはいけない話を聞いてしまっているんじゃ……?)

 詳しいことはわからないが、彼の言葉から察するに、ユーフェミアは他人から同情を買うような境遇にあり、それを理由にパーシバルの好意を突き放したということになる。

(お二人の間に、いったい何があったというの?)

 ドリスは、向かいのソファにいるユーフェミアがどんな表情をしているのか気になり、そっと顔を上げた。

 しかし、視界に入ったのは純白の毛並みをした猫ではなく、薄茶色の髪と琥珀色の瞳が美しい青年だった。いつからそうしていたのか、顔をじっと覗き込んでくるパーシバルの眼差しに、ドリスの心臓は痛いほどに高鳴った。

「あ、あの……っ」

「何度言えば、信じてもらえるのかな?」

 切れ長の目は甘えるように細められ、健康的に焼けた肌は夕日を受けて紅茶色に染まり、形の良い唇の間からは真珠色の歯列が覗く。ほんの少し身じろいだだけで唇が触れ合ってしまいそうな距離に、ドリスは目眩を起こしかけた。

(姫様……無理です。もう無理です! そ、そうだわ、こんな時こそ腹話術をもう一度!)

 ドリスのすがるような心の叫びもむなしく、ユーフェミアは目を輝かせてこちらを眺めるばかりだった。

(姫様ぁぁぁぁ……!)

「ユフィ」

 鼻先に吐息がかかる距離で、パーシバルは蜂蜜のように甘ったるい声でドリスに囁きかけた。

「好きだよ」

 ぶつん、と楽器の弦が切れるような音が頭の中で響いた。

 そんなことあるはずないのに、まるで自分が愛の告白を受けたかのような錯覚に陥った。

 心も身体も、何も考えられないほどに熱くなり、目の前がバラ色に染まる。

 ――文字どおり、ドリスの眼前にお花畑が広がった。

 ぽぽぽぽぽぽんっ! という軽快な音とともに、バラ、ユリ、スミレ、ライラック、アイリスなど、色とりどりの多種多様の花が一瞬にして咲き乱れ、広い床を埋めつくした。

「え……っ!?」

 突然現れたお花畑に驚くパーシバルの頭には、白く可憐なマーガレットの花が咲いている。

(まさか、これって……わたしのせい!?)

 ドリスにかけられた呪いは、感情が極限に達すると体内の魔力が暴発するというしくみだ。図々しくも有頂天になったことで、部屋じゅうに花を咲かせてしまったのだろうか。

 ドリスは、さっと青ざめ、両手で頬を覆った。

(これは……ものすごく、まずい状況よね……?)

「ユフィ、大丈夫?」

 パーシバルは婚約者を護るように抱き寄せ、険しい表情で周囲に目を配っている。

(そうだわ、姫様はどこに……?)

 花に埋もれてしまったのか、ユーフェミアの姿が見当たらない。ドリスは、パーシバルの腕をすり抜け、立ち上がった。

 日が落ちたのか、室内の色彩がわずかに青みがかったものに変わった。赤いバラは黒に近いガーネット色に、白いマーガレットは淡い青紫色に。

 突如、向かいのソファを覆うように咲き乱れる花々が、空気の破裂するような音をたてて四方へと勢いよく飛び散った。

 濃い霧のような白銀色の煙、虹色のガラス粒のような細かな光。

 見覚えのある光景に、ドリスは息を飲んだ。

 巻き起こる風に吹かれた色とりどりの花弁がくるくると舞い、白銀色の煙が晴れてゆく。

 花で造られたかのようなソファの上にいたのは、白い毛並みの猫ではなかった。

 シルクの夜着を身にまとい、蜂蜜色の髪を垂らした青い瞳の美しい少女だった。

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