第3章 魔法仕掛けの塔

 ユーフェミア王女が、王弟ボーフォート公爵の姫たちを完膚なきまでに叩きのめした――という、聞いただけで胃が痛くなりそうな噂がセレストのもとへ届いたのは、夕方のことだった。

「何をやってるんだ、あいつは……」

 色濃い影が落ちる三階の執務室で書類に目を通していたセレストは、オーク材の机に肘をつき、額を手で覆った。

「喧嘩するほど仲がいいっていうよね」

 噂を運んできた張本人のパーシバルが、署名捺印済みの書類を検分しながら、のんびりとした口調で言った。

「世の中、お前みたいな人間ばかりだったら、戦争なんてひとつも起きないんだろうな」

「そうかな? もしも、世界じゅうの人がみんな僕だったら、大好物のチーズタルトをめぐって血で血を洗う争いが繰り広げられると思うけど」

 気心の知れた有能な側近は時々、真顔ですっとんきょうなことを言う。セレストは「それは一大事だ」と苦笑しながら、手元の書類に視線を戻した。

(まったく……)

 先に喧嘩を売ってきたのは十中八九、姉姫のクラレットだろう。妹姫のマリアンナは姉に追従しなければ何も行動を起こせない、ただの腰巾着だ。

 しかし、ユーフェミアに扮するドリスが従姉妹の挑発に乗ったとは考えにくい。鈍感で天然の引きこもり女は、喧嘩の売り方も買い方も知らないのだ。おおかた、本物のユーフェミアがドリスに何らかの行動を起こさせたのだろう。軽率にもほどがある。

「バレたらどうする気なんだ? あのバカ」

「何が?」

 押し殺したつぶやきを耳ざとく聞きつけたパーシバルが、訊き返してくる。

「あ、いや……ユフィの猫かぶりがバレたら、悪評が立つんじゃないかってな」

 というのはもちろん口からでまかせで、実際に懸念しているのはユーフェミアにかけられた呪いの件が明るみになることだ。古くからの言い伝えで、国の象徴である王族が呪われることは災いの前兆を意味している。国民の不安を煽る事態は避けたい。

 それに、ドリスには王宮で魔力を暴発させた過去がある。十年前は国王の厚情で罰せられずに済んだが、二度目となれば話は別だ。

 ユーフェミアとドリス、二人の身を守るためには内密に事を進める必要がある。

「うーん……それは困るね。ユフィのちょっとわがままで意地っ張りで気が強くて時々容赦がないところを知っているのは、僕だけの特権なのに」

 セレストの嘘八百を真に受けたパーシバルは、眉根を寄せた。

「ユフィに罵倒されたい人たちが続出したら一大事だよ。僕だってまだなのに」

「罵倒……されたいのか?」

「そりゃもう。あの鈴を転がしたような可愛らしい声で、『愚か者』とか『クズ』とか『虫ケラ』なんて言われてごらんよ。興奮しすぎて、きっと三日は眠れないよ!」

 手にした書類を握りしめながら、パーシバルは距離を詰めてくる。しかし、「愚か者」はともかく、あとの二つは兄のセレストでさえ聞いたことがない。

「いったい、ユフィのどこに惚れたんだ? まさか、口が悪いところなんて言わないだろうな?」

 わずかに身体を引きつつ問いかけると、パーシバルは涼しげな琥珀色の瞳を大きく見開いた。

「そんなの、全部に決まってるじゃないか。セレストだって、そうだろ?」

「え?」

「ドリスのこと、全部好きだろ?」

 思いがけない不意打ちに、セレストは言葉を失った。

「でも、ドリスはいまいち気づいてなさそうだよね。ちょっと鈍いところがあるからさ、きちんと言葉にして伝えないとわからないんじゃないかな?」

(お前が言うな)

 女心を爪の先ほどもわかっていない、超絶鈍感男に言われたくはない。

「そういえば、ドリスってどんな男の人が好きなんだろう?」

(お前だ、お前)

 声を大にして突っ込みたいのを、ぐっとこらえる。ユーフェミアとの婚約が調って幸せの絶頂にいるのに、わざわざ水を差すような真似はしたくない。もっとも、幸せの絶頂にいるのはパーシバルだけなのだが。

 猫になってしまったユーフェミアを元の姿に戻す手がかりについては、宮廷魔法師団がひそかに探っている。セレストは立場上、表立って動くことができないため、彼らの報告を待つよりほかない。たとえ自由に動けたとしても、そもそも魔法の素質を持ち合わせていない自分にできることなど、たかが知れている。

 数百人に一人の割合で生まれるクレシアの魔法使いは、王族を護るために存在する。護られる立場である王族は、今も昔も誰一人として魔力を秘めた者はいない。年代記の中には、魔法使いの女性を妻に迎えたという記録がいくつかあるが、もうけた子が魔法使いになったという記述はなかった。

 ユーフェミアやドリスのために何もしてやれないのが歯がゆく、もどかしい。

セレストは机上の書類を一枚つまみ上げ、小さく息を吐いた。

「そんなに思い詰めるくらいなら、お見舞いにでも行ってきたら?」

「見舞い? 誰のだ?」

 顔を上げると、パーシバルが重ねた書類の端をそろえながら、やれやれといった風情で肩をすくめていた。

「ドリスの具合が心配なんだろ? 一区切りつけて行っておいでよ。さすがに、王太子殿下を追い返したりはしないと思うよ」

 表向きは、ドリスは体調不良で伏せっている、ということになっている。

「そうしたら、僕も気兼ねなくユフィに会いに行けるしね」

 パーシバルは、ドリスが見たら気絶するような麗しい微笑みを浮かべ、さらりと自分の思惑を口にした。ダシにされたのだと察したセレストは、笑うしかなかった。

「少し待っててくれ。これだけ片づける」

 そう言って、セレストは手元の書類に羽根ペンを走らせた。

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