3
侍女の先導で、ドリスは絨毯の敷かれた広い廊下を歩いていた。
窓側に等間隔に据えられている彫像は、竜、
窓から射し込む陽光は、南向きの部屋と比べると幾分か控えめだった。ドリスはユーフェミアを胸に抱え、一歩ずつ踏みしめるように廊下を進む。出がけに、猫を連れても良いかと尋ねたところ、侍女は「もちろんです」と答えた。主催の姫たちは無類の猫好きらしい。
「いい色を選びましたわね、ドリス。喧嘩を売るにはうってつけですわ」
侍女に聞こえないよう小声で囁いてくるユーフェミアに、ドリスは同じく小声で囁き返す。
「わ、わたしはそんなつもりは……。ただ、姫様にお似合いだと思っただけで……」
ドリスが選んだのは、目にもあざやかなバラ色のドレスだった。初夏に花開く真紅のバラを思わせる色は、この季節にはまだ早いが、ドリスは敢えてこの色を選んだ。
(姫様の透き通るような白いお肌には、赤がよく映えるわ。そう、まるで血の色のような……。あ、いけない、よだれが出そう)
吸血鬼の好みそうな白皙の肌と華奢な肢体は、どうしてもドリスの想像力をかきたててやまない。無事にユーフェミアの呪いが解けたあかつきには、パーシバルに吸血鬼の
(そのためにも、代役のお務めをがんばらなくちゃ)
「何か、ろくでもないことを考えている顔ですわね」
ユーフェミアがひそひそとつぶやいたところで、前を歩く侍女の足が止まった。
「こちらでございます」
瀟洒な飾り細工がほどこされた重厚な扉を前に、ドリスは息を飲んだ。
(ここが銀翼の間……)
侍女が扉の前に控える二人の女官へ声をかけると、女官たちは頭を垂れてゆっくりと扉を押し開けた。
扉の向こうから、むせ返るような花と化粧の香り、かぐわしい紅茶の香り、バターを焦がしたような焼き菓子の香りがただよってくる。小鳥のように笑いさざめく少女たちの声も聞こえてきた。
「ユーフェミア王女殿下のおなりです」
朗々たる口調で侍女が告げると、室内は水を打ったように静まり返った。
二十……三十人はいるだろうか、ドリスやユーフェミアと同じ年頃の少女たちがいっせいにこちらへ視線を向けた。
(う、わ……)
ドリスは驚いてその場に棒立ちになった。
何十もの視線に晒されたからではない。
大きな窓から白い陽光が燦々と降り注ぐ中、いくつかのテーブルに分かれてお茶菓子を囲む華やかな装いの令嬢たちは皆、同じ色――緑色のドレスに身を包んでいたのだ。
まるで、新緑の森の精霊が美しい姫君たちの姿をとったかのよう……という詩的な感想でも浮かんでいたらよかったのだろうが、ドリスの脳裏に浮かんだのは情緒もへったくれもない
(キャベツ畑……)
繊細な布地を丁寧に重ねてふんわりと広がるドレスのスカートは、さながら太陽に向かって大きく葉を広げるキャベツに見える。
「どこの村の収穫祭かしら」
ユーフェミアも似たような感想を抱いたらしく、小声でぼそりとつぶやいた。彼女が緑を避けた理由がわかったような気がした。
(いくら流行色でも、これはちょっと……)
令嬢たちが身にまとっているドレスは、大海原を思わせるエメラルド色、落ち着いたオリーブ色、明るく華やかなオパール色にジャスパー色、深みのある柊色と、同じ緑でもそれぞれ微妙に異なった色合いをしている。それが、よりいっそう本物のキャベツらしく見えてしまい、王宮のサロンというよりも、ランカスタ村の畑を連想させる。
よく見ると、数人に一人は膝に猫を乗せていた。猫好きなクラレットたちの影響だろうか。
ドリスをここまで連れてきた侍女は別室へ下がり、入口そばに控えていた女官が代わって部屋の奥へと導いた。キャベツ……もとい緑色のドレス姿の令嬢たちは、無言でドリスの――ユーフェミア王女の動向を見守っている。
案内されたのは、部屋の最奥にあるひときわ豪奢なテーブルだった。他のテーブルにはない、華やかな飾りつけのお菓子や年代物のティーセットが並べられていることから、最も身分の高い者のために設けられた席なのだとうかがえる。
「右がクラレット、左がマリアンナですわ」
飼い主に甘えるようなそぶりで首を伸ばした白猫のユーフェミアが、そっと教えてくれた。
ドリスから見て正面の席に据えられた、細かな紋様の刺繍が美しい長椅子には、二人の少女が悠然と腰かけていた。二人ともよく似た華やかな顔立ちで、
二人の間、長椅子の真ん中には、ほのかな光沢を帯びた真珠色のクッションが置かれ、銀灰色の猫が行儀よく座っていた。ユーフェミアよりも一回り大きい猫の首には、若草色のリボンが可愛らしく結ばれている。
「ごきげんよう、ユーフェミア様」
右側の少女――クラレットが、孔雀のような
「あら、ごきげんよう。誰かと思いましたわ」
妹のマリアンナが、お菓子を頬張りながら顔を上げた。その口調には、やはり王女への畏敬が感じられない。彼女の声に応えるように、銀灰色の猫が「むぎゃあ」と野太い声をあげた。
ドリスは片手で白い猫を抱え直し、もう片方の手でドレスをつまんで膝を折った。
「ごきげんよう、クラレット様、マリアンナ様。本日は、お招きありがとうございます」
バラ色のドレスの裾が風にそよぐ花びらのように舞い、豊かな金髪は胸元を彩る金の首飾りに勝るとも劣らないあざやかな光を放つ。
お喋りをやめてこちらの様子を見守っていた令嬢たちの何人かが、ほうっとため息を漏らした。すると、お菓子を手にしていたマリアンナが、彼女たちを鋭い視線で睨みつけた。令嬢たちは弾かれるように視線を逸らし、ものも言わずにお茶菓子に手をつけはじめた。
ドリスが不可思議な光景に心ひそかに驚いていると、クラレットから椅子をすすめられた。彼女たちのドレスは他の令嬢たちのものと比べて、きわだって華やかに見えた。生地の材質やフリルの多さもさることながら、胸元や袖口に使われている繊細なレースは一見しただけでもかなり高価なものだとわかる。
「てっきり、いらっしゃらないのかと思いましたわ、昨日の今日ですから。おかげんは、もうよろしいの?」
「ええ、おかげ様で。お気遣いありがとうございます」
緊張のあまり、背筋に冷や汗が伝うのを感じながら、ドリスは精一杯の笑みを浮かべて型どおりの言葉を返した。
クラレットの目が、ドリスの腕の中にいる白い猫へと向けられた。
「こちら、可愛らしい猫ですわね。抱かせていただいてもよろしいかしら?」
すると、白い猫はしらじらしいほどに愛想の良い鳴き声をあげた。ドリスはそれが了承の意味だと受け取り、クラレットに手渡した。腕の中でユーフェミアが舌を出しているとも知らずに、クラレットは白い猫の毛並みを愉しんでいる。
「この子、お名前は何とおっしゃるの?」
ドリスは一瞬、返答に困った。馬鹿正直に本当の名前を告げるわけにもいかないので、咄嗟に思いついた偽名を口にした。
「ネクロゴンドです」
「ふぎーっ!」
「嫌がっているみたいですわよ?」
純白の毛を逆立てる猫をなだめるように撫でながら、クラレットは首をかしげた。
(お気に召さなかったのかしら? 可愛いと思ったのに……)
そこで、今度はランカスタ村の屋敷に残してきた侍女の名前を告げた。シェスカという偽名は気に入ってもらえたようで、ユーフェミアは青い目を細めて「にい」と鳴いた。
「お姉様、わたしにも抱かせて」
ユーフェミアは、今度はマリアンナの手に渡された。
「かーわいいー!」
無邪気にはしゃぎながら白い猫を抱きしめる妹の姿を、クラレットは愛おしげに見守っている。侍女から聞いたとおり、二人とも本当に猫が好きでたまらないのだろう。
(お二人は姫様と仲があまりよろしくないと聞いていたけれど、そうでもないみたい)
クラレットはめずらしい種類の紅茶やお菓子をすすめるなどして気を配ってくれるし、マリアンナは自分の飼い猫について楽しい話を聞かせてくれる。他の令嬢たちも、姫君たちのなごやかな雰囲気につられてか、それぞれのテーブルでお喋りに花を咲かせていた。
半刻ほど経った頃、クラレットがふと思い出したかのように口を開いた。
「ところで、ユーフェミア様。素敵なバラ色のドレスをお召しでいらっしゃるのね」
彼女の声を合図に、場の空気が変わったように感じられた。そこかしこから、くすくすという笑い声が漏れ聞こえる。不思議に思ったドリスが横目で周囲の様子をうかがうと、令嬢たちは皆、興味津々な眼差しでこちらを見ていた。
ドリスの膝の上に戻ってきたユーフェミアが、ふんっと鼻を鳴らした。
「さすがは王女殿下でいらっしゃいますわ。わたくしたちにはとても真似ができませんもの、去年の流行色を選ぶだなんて!」
「本当、恥ずかしくてできませんわあ!」
クラレットとマリアンナが高らかに笑うと、他の令嬢たちも、どっと笑い声をあげた。
(…………え?)
これはもしかして、もしかしなくても、馬鹿にされているのだろうか。
たった今まで優しく接してくれていたクラレットもマリアンナも、それを楽しげに見守っていた他の少女たちも、一変して嘲るような目でドリスを――ユーフェミア王女を笑っている。
(わたしの選んだドレスがおかしかったのかしら? でも、姫様は良い色だって……)
ユーフェミアは、敢えて流行の緑色を選ばないようドリスに指示をした。
それはけっして、ここにいる姫君たちから嘲笑を買うためではないはずだ。
何十もの軽やかで可愛らしい笑い声が、壊れた管楽器が奏でる不協和音のようにドリスの鼓膜を叩いてくる。
(姫様……)
ドリスはどうしたら良いかわからず、助けを求めるようにユーフェミアを強く抱きしめた。
「ユーフェミア様は離宮にお住まいでいらっしゃるから、流行が届くのが一年ほど遅れるのではなくて?」
「まあ、マリアンナったら。そのような本当のことを言ったら失礼でしょう?」
「だってえ、お姉様」
おもしろおかしく笑い合うクラレットとマリアンナの間で、銀灰色の猫が相槌を打つように「にぎゃあ、にぎゃあ」と声をあげた。
その時だった。
「ふん、不細工な声ですこと。耳障りですから、つまみ出してくださらない? その猫」
砂糖菓子のように甘く、それでいて
この場にいる誰よりも高貴で自信にあふれた声は、連鎖のように笑い声をあげていた令嬢たちを一瞬で黙らせた。
しばしの間、銀翼の間は沈黙に包まれていたが、やがてクラレットが羽根扇を持ち替え、小首をかしげながら口を開いた。
「ユーフェミア様、今……何かおっしゃいまして?」
「え、あの……」
ドリスは言葉に詰まった。ここにいる姫君たちは皆、ユーフェミアをただの猫だと思っている。人語を介するどころか、ましてや王女本人だなんて誰も思いつくはずがない。全員の視線は当然、身代わりのドリスへ向けられる。
狼狽するドリスの腕の中で、ユーフェミアが首を伸ばした。
「ドリス、適当に口パクで合わせるのです」
「え?」
「笑顔ですわよ」
早口で囁くユーフェミアの指示どおり、ドリスは石膏のように固まっている頬の筋肉を総動員させて笑みを浮かべた。
「耳障りだと申したのですわ。品のない鳴き方はいったい、どなたに似たのでしょう? 飼い主のお顔が見てみたいですわ。……あら失礼、ここにいらっしゃいましたわね、しかも二人も。ふふふっ」
(えええええええっ!?)
ユーフェミアが喋るのに合わせて口を開閉させていたドリスだったが、白い猫の口から発せられる言葉の辛辣さに唖然とした。
相対する姫たちの表情はみるみるうちに歪められ、しまいにはクラレットが手にしていた羽根扇をへし折ってしまった。見れば、マリアンナの手の中で、薄桃色のマカロンが無残にもつぶれている。二人は、
(こ……怖い……っ!)
腰が抜けそうになりながらも、ドリスは腹話術の人形よろしく口パクを続ける。
「そうそう、海辺の離宮にも流行はきちんと届いておりますわよ。どうかご心配なく。今年の春は、新鮮なお野菜の色が流行の最先端だと聞きおよんでおりましたので、わたくしも恥ずかしながら便乗してみましたの。いかがかしら、このあざやかなトマト色。そのヘチマ色やアスパラガス色によく映えると思いませんこと?」
「なんですってえっ!」
クラレットが大声をあげて立ち上がった。その拍子に、彼女の前にあるティーカップが引っくり返ってしまう。そばに控えていた女官たちが、テーブルの上を手早く片づけはじめた。
「ユーフェミア様……、わたくしを侮辱なさるおつもり?」
ヘチマ……もとい、マラカイト色のドレスに身を包んだクラレットは、綺麗に化粧をほどこした顔を真っ赤にして、肩を震わせた。アスパラガス……ではなくペリドット色のドレスを着たマリアンナも遅れて立ち上がり、姉に追随して「そうよそうよ!」と声をあげる。
(ど、どうしよう……怒っていらっしゃる。本気で怒っていらっしゃるわ!)
焦るドリスにおかまいなしで、ユーフェミアの毒舌はさらに続く。
「侮辱ですって? 先にわたくしを侮辱したのはどなただったかしら!?」
それまでは軽いたわむれのようだったユーフェミアの口調が、がらりと変わった。威厳に満ちた堂々たる声で、相手を圧倒する。クラレットたちの表情が凍りついた。
「その無駄に飾りたてている中身のない頭で、よくお考えになることですわ。ご自分が、誰に対して喧嘩を売っているのかを」
「…………っ!」
クラレットは折れた羽根扇を床に叩きつけ、ドレスの裾をさばいて歩きだした。
「お姉様、待ってえ!」
マリアンナが慌てて銀灰色の猫を抱きかかえ、姉の背中を追う。
「おどきなさい!」
クラレットたちは、呆気にとられる令嬢たちにぶつかりながら、入口の大扉を目指す。
「ま、待ってください!」
ドリスは立ち上がり、震えそうになる声を張りあげた。
二人は足を止め、怪訝そうな顔つきで振り返る。
「なんですの?」
クラレットから相手を拒絶するような冷えきった声を向けられ、ドリスは足がすくんだ。大勢の令嬢や女官たちが固唾を飲んで見守る中、呼吸を整えてから一歩前へ踏み出す。
「お願いがあります」
「わたくしをさんざん侮辱しておいて、お願いですって?」
ドリスはうなずいた。腕の中で、ユーフェミアが「ドリス?」と小声で呼びかけてくる。
「セイカクブスを……見せていただけますか?」
「………………は?」
場の空気が凍りついた。
「でん……お兄様からうかがったのです。お二人が、とても稀少な『セイカクブス』というものをお持ちだと。どのようなものか、一目だけでもお見せいただきたくて」
数人の令嬢が、「ぷっ」と噴き出した。
「~~~~っ、不愉快ですわっ!」
「お姉様!」
クラレットとマリアンナは踵を返し、今度こそ銀翼の間から立ち去った。
残されたドリスは、茫然と立ちつくした。
(ああ……やっぱり、ご機嫌をそこねてしまわれたから見せてくださらないのね。残念)
新種の毒草を目にできる、またとない機会だったのに。
しょんぼりと肩を落とすドリスに、ユーフェミアが小声で囁きかけた。
「あなた、追い打ちをかける天才ですわね」
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