2
『呪いを発動させたきっかけがつかめれば、解呪の鍵が見つかると思ったのだが……』
王宮の回廊を歩くセレストは、ダレンの言葉を反芻してため息をついた。
(言えるわけがない……)
ドリスの魔力が暴走した原因はおそらく、パーシバルとユーフェミアの仲睦まじい姿にショックを受けたことだ。ドリスの両親はともかくとして、パーシバルの婚約者であり今回一番の被害者でもあるユーフェミアに、何と説明したら良いものか。
それに、ドリス本人が当時のことを何も覚えていないのも厄介だ。解呪の鍵どころか、さらにショックを受けて二次災害を招く恐れがある。
(解呪の鍵か……)
きっかけが失恋の痛手だと仮定するなら、単純に考えて方法は三つ。
一つ目は、失恋の傷が癒えるまで気長に待つ(ただし、何年かかるかわからない)。
二つ目は、新しい恋を見つける(右に同じ)。
そして三つ目は、現在の恋を成就させる(望みは限りなく薄い)。
「どれもこれも無理な気がしてきた……」
「殿下……じゃなかった、お兄様。どうなさったのですか?」
立ち止まって額を押さえるセレストの顔を、ドリスが心配そうに覗き込んでくる。幼馴染みの引きこもり女が妹の姿をしているというのは、なんとも奇妙な感覚だ。そして、本物の妹――白い猫は、ドリスの腕の中でセレストを気遣うように小首をかしげている。
「悪い、少し考えごとをしていた」
「それなら良いのですが。てっきり、お城のまぶしさに干からびかけていらっしゃるのかと、心配しました」
「どこかの藻草と一緒にするな」
「ああ、わかりますか? 今まさに干からびそうなので、手頃な日陰を探していたのですが……王宮はどこもかしこも無駄にまぶしくて困ります」
中庭に面した回廊には乳白色の列柱が等間隔に並んでおり、春の日射しを照り返して淡い真珠色にきらめいている。ドリスが気に入るような「日の当らない狭い空間」は、王宮全体でも数えるほどしか存在しない。
「気合いで乗り切れ」
「そうですわよ、住めば都というじゃありませんか。そのうち目が慣れますわ」
ドリスの腕の中で、ユーフェミアも小声で励ました。
「ど、努力します……」
ドリスはまるで霞のような、今にも消えそうな声で、うつむきながら決意を口にした。
「もう、猫背になっていますわよ。背筋はまっすぐ、床に対して垂直ですわ。顎も引いてくださいな」
「は、はい……」
ユーフェミアから指摘され、ドリスは背筋を伸ばした。引いた顎がわずかに震えている。
「あなたも貴族のはしくれなら、もう少しどうにかなりませんこと? 背筋は曲がっている、笑顔はぎこちない、話し方もどことなく暗いですし」
「すみません……。長年引きこもっていたので、いわゆるシャバの空気というものが苦手でして……」
ドリスの身の上についてセレストからいつも聞かされているユーフェミアは、それ以上何も言えなくなったのか、「なんとかなりますわ。がんばりましょう」と言って話をまとめた。
「ユフィ。今度、こいつを魔法師団の塔へ連れて行こう。あそこは外界から遮断されているから、見違えたように生き生きとするはずだ」
セレストは思いつきで口にしたのだが、想像以上にドリスの表情が明るくなった。
「まあ、そんな素敵な閉鎖空間が王宮にあるのですか? 行きたいです、今すぐに!」
「そんな暇はありませんわ。これからお父様……国王陛下にお目通りをして、それから賓客の方々に昨夜のお詫びをしなくては。あとは……」
不意に、ユーフェミアが口をつぐんだ。爪の先ほどの眉間に皺を寄せ、虚空を見上げている。
「どうかなさったのですか、姫様?」
一つ言葉を向ければ、十は返してくるユーフェミアが黙り込むのはめずらしい。セレストは念のため周囲を見渡したが、誰かが通りかかった気配はない。
「……午後に、
「銀翼?」
セレストの脳裏に、血縁関係にある二人の少女たちの顔が浮かんだ。
「主催は、あの二人か?」
「ええ。クラレットとマリアンナですわ」
予想していたとおりの名前に、セレストの口から「ご愁傷」という台詞がついて出たが、事情を知らないドリスは不思議そうに首をかしげている。
「どなたですか?」
「王弟の娘。俺たちの
ドリスは幼い頃に彼女たちと何度か顔を合わせているはずだが、この様子だと覚えていないようだ。
「何か問題があるのでしょうか?」
「大アリですわ」
地を這うようなユーフェミアの声に、彼女を抱きしめるドリスの肩が大きく跳ねた。
「ユフィとクラレットたちは、あまり仲が良くないんだ」
「仲がお悪いのに、お茶会に招待なさるのですか?」
ドリスがもっともな疑問を口にすると、ユーフェミアは目を細め、ふっとため息を漏らした。
「ドリス。あなた、人を死ぬほど憎いと思ったことはあって?」
「え? いいえ、特には……。仲違いをするほど、人との交流がありませんでしたので」
「では、初めての経験をさせてあげますわ。クレシア王国が誇る、最低最悪な性格ブスのツートップをご覧にいれますわよ」
そんなもの、国は誇らない。むしろ汚点だ。……と口にしかけた突っ込みを、セレストはぐっと飲み込んだ。青い宝玉を思わせるユーフェミアの瞳に、青白い炎が宿ったかのように見えたのだ。下手に刺激すれば、とばっちりを食らう。視線で殺される。
「殿下、セイカクブスとは何ですか? 新種の毒草か何かでしょうか?」
純白の毛を逆立てるユーフェミアの背を優しく撫でながら、ドリスは真顔で尋ねてきた。この平和な思考回路が心底うらやましい。
「まあ……ある意味、毒草かもな。口で説明するより、実際に見たほうがわかりやすい」
「それは楽しみです」
にまっ、と口元に微笑を浮かべる姿は、魔力を封じられてもなお魔法学の探究に余念がない魔法使いのそれだった。しかし、妹の顔で薄気味悪い笑みを浮かべるのは勘弁してほしい。
「こんなところにいたんだ」
不意に、穏やかな声が回廊に響いた。
すらりとした長身の青年が、やわらかな微笑を浮かべ、すべるような足取りでやってきた。
「パーシバル、さま……」
ユーフェミアの姿を見つけると、パーシバルは安心しきったようなため息をついた。中身がドリスだとは想像もついていない様子だ。
「ユフィ、もう出歩いて平気なの? 今朝お見舞いに行ったら、侍女から君がセレストと一緒に出かけたって聞いて、ずっと捜していたんだよ」
ユーフェミアが猫の姿になった瞬間を目撃した不運な侍女は、ダレンの魔法によって記憶を作り替えられている。
「ご、ごめんなさい、心配をおかけして。あの……ええと、もう大丈夫です」
「そう? なんだか顔色が悪いように見えるけど」
的確なパーシバルの言葉に、ドリスは視線をさまよわせる。彼女が困っているのを察したのか、ユーフェミアが「にゃー」といかにも猫らしい鳴き声をあげ、パーシバルの興味を自分へと向けさせた。
「可愛い猫だね。どうしたの、この子?」
パーシバルが指の腹で顎の下を撫でると、ユーフェミアは目を細め、ごろごろと喉を鳴らした。表情と仕草に芝居がかっていないところを見ると、どうやら本当に気持ちがいいようだ。
「ダレンが婚約祝いにくれたんだ」
適当にごまかそうと助け舟を出したつもりが、結果的に墓穴を掘る形となる。ノルマン伯爵の名前を出したことで、パーシバルはドリスの容体について尋ねてきた。
「セレストは何か聞いてない? 部屋へ行っても、誰にも取り次いでもらえないんだ。魔法師団の塔へも行ってみたけど、ノルマン伯は忙しいからって門前払いされるし……」
パーシバルにだけは本当のことを話すべきだろうか。セレストは、確認の意味をこめてドリスとユーフェミアを横目で見た。
(だめです殿下!)
(バラしたら、ただではおきませんわ!)
視線だけで、二人の心の声が痛いほどに伝わってきた。事の発端であるドリスは自分を責めるだろうし、プライドの高いユーフェミアは婚約者に知られたくないのだろう。
「ドリスは……いつものアレだ。ただ干からびて倒れただけだから、たいしたことはない。今は母君が付き添っている。しばらく引きこもれば、すぐ元気になるさ」
「やっぱり、僕のせいだね。嫌がるドリスを強引に王宮へ来させたりなんてしたから……」
その場しのぎの嘘でごまかしたセレストだったが、気落ちする親友の姿に良心が痛んだ。
「そんなこと……!」
ありません、と言いかけたのは、ユーフェミアの姿をしたドリスだった。ドリスは自らの意思で王宮へやってきたが、今の彼女は「ドリス」ではない。口をつぐんでうつむく姿が、パーシバルの目には婚約者が健気に自分を気遣ってくれたように見えたのだろう。
「ありがとう、ユフィ」
パーシバルは、まなじりを下げて微笑み、ドリスの肩に手を回して軽く抱き寄せた。
「病みあがりの君にまで気を遣わせて、ごめん」
「い、いいえ……あの、お気になさらず……」
ドリスはパーシバルの胸に頬を当てる形になって、茫然とした顔で答えた。放っておいたら、そのうち呼吸の仕方を忘れて倒れかねない。今にも卒倒しそうなドリスを案じる一方で、青くなったり赤くなったりする彼女の顔が可愛いと思った。見た目は妹だが。
ただ、ドリスにそんな表情をさせられるのはパーシバルだけなのだと思うと、少し腹が立つ。
(別に、うらやましいなんて思っちゃいないけど……)
胸の奥に渦巻く何かに苛立っていると、ドリスの腕に抱かれるユーフェミアと目が合った。
白い猫は小さく青い宝玉のような目を細め、「にい」と小さく鳴いた。
(嫉妬は見苦しいですわよ、お兄様)
……と言われているような気がした。
本当なら、真っ先にユーフェミアが嫉妬するべきなのに、当人(当猫?)は平然としている。
それもそのはず、ユーフェミアはパーシバルに対して恋愛感情を抱いていない。彼が自分以外の女性を抱きしめようがどうしようが、ユーフェミアにとっては取るに足らないことなのだ。
生まれつき身体が弱く、子供を産める見込みのないユーフェミアは、王室にとって何の役にも立たない、いわばお荷物のような存在だ。王族の女性は他国へ嫁いで国同士の橋渡し役となるのが務めだが、ユーフェミアにはその役目を果たす能力がない。
成人後は修道院へ出家することまで考えていたユーフェミアに縁談を持ちかけたのが、王室と縁戚関係にあるアンブラー公爵家だった。嫡男のパーシバルは、幼い頃からユーフェミアを本当の妹のように可愛がっていた。ドリスに接するのと同じように。ユーフェミアに対する兄妹(きょうだい)愛のようなものは、いつしか、恋心へと変わっていった。
国王が「公爵家の世継ぎを産むことは難しいだろう」と告げた時、パーシバルは真摯な眼差しで「家督は弟に譲ります」と答えた。公爵の位よりも愛する女性を選んだ彼の姿に、セレストは口にこそ出さなかったが胸を強く打たれた。
一方のユーフェミアはというと、「わたくしはお父様のご意向に従うのみですわ」と、実に淡泊な返答を述べた。嘘でもいいからもう少し喜べ、とセレストが心の中で苦言を呈したのが今から二カ月前――冬のある晩餐でのこと。
「あ、あの……パーシバル様……」
「あっ! ご、ごめん、苦しかった?」
いつの間にか両腕で強く抱きしめられ、ドリスが息苦しそうに身じろいだ。パーシバルは無意識だったのか、言われて初めて頬を染め、慌てて彼女を解放した。
「いいえ、平気です……」
ドリスは耳まで真っ赤に染めてうつむいた。
セレストは、妹の姿で赤面する彼女に本来の姿を重ねた。バラ色に染まる白皙の肌と、絹糸のようにつややかな黒髪、かすかに震える華奢な肩。あの頼りなげな声で「殿下……」と呼ばれたら、きっと冷静ではいられなくなる。
(……って、何を考えてるんだ俺は)
今は妄想にふけっていられるほど平和的な状況ではないのだ。……と己を戒めたところで、セレストは自分が妄想にふけっていたことを自覚し、思わず目眩を起こしそうになった。
(妄想はこいつの専売特許のはずだろ……)
長い付き合いのせいで、妄想癖が
「セレストもごめん。兄妹水入らずの邪魔をしちゃったね」
「気にしないでくれ。これから謁見の間へ向かうところだったから、ちょうどよかった」
セレストは、動揺を悟られないように必死で平静を装った。声は震えていなかったはずだが、察しの良い妹はドリスの腕の中で意味ありげに薄桃色の鼻と白銀色の髭を動かしていた。
王女に扮してから二刻も経たないうちに、ドリスは身も心もすっかり干からびていた。
謁見の間で国王と王妃に拝謁した後、午餐まで時間の許す限り、王宮に滞在している貴賓たちから見舞いの言葉を受けた。人前で終始猫を抱いているわけにもいかないので、猫のユーフェミアは女官に預け、ひたすら「恐れ入ります」「ありがとうございます」をオウムのように繰り返していた。
公務にいそしむ間じゅう、ドリスの脳裏を駆けめぐっていたのは、回廊でのパーシバルとのやりとりだった。
(姫様の代役ということは、パーシバル様の婚約者を演じるということだものね……)
抱きしめられるのも髪を撫でられるのも、二人にとってはごく当たり前の触れ合いなのだ。いちいち動揺していては代役など務まらない。
(でも、わたしには刺激が強いというか)
頬に当たった逞しい胸の感触や、肩に回された腕の力強さ、鼓膜を震わせる低音の声、何もかもが鮮明によみがえる。心臓に悪い。
「ドリス、顔が赤いですわよ。大丈夫ですの?」
「は、はい。ただの知恵熱ですからご心配なく……」
午餐を終え、王女の私室へ連れてこられると、全身が総毛立つほどに苦い薬を飲まされた。侍女が退室するまでは必死で笑顔を保ち、扉が閉じられると同時にソファに寝転がり水揚げされた魚のようにのたうち回った。
一方、ユーフェミアは窓辺でひなたぼっこを堪能している。
「午前のお仕事は、なんとか乗り切りましたわね」
「大丈夫でしたでしょうか? 皆さん、不審に思われたのでは……?」
ドリスは起き上がり、窓辺の猫に視線を向けた。舌の奥にまだ強烈な痺れが残っている。
「彫像が喋っているような不自然さでしたけれど、わたくしは病みあがりという『設定』ですし、多少のぎこちなさは許容範囲ですわ」
「そうですか。よかったです……」
ドリスは安堵の息をついた。
「ですが、銀翼の間では気を引き締めなくてはなりませんわ。わずかな隙も見せてはいけませんわよ」
「ええと……、従姉妹のクラレット姫様とマリアンナ姫様が催されるお茶会ですね」
ドリスが確認すると、ユーフェミアは慇懃にうなずいた。
「何を言われても、何を訊かれても、けっして怯んではなりません。笑顔を絶やさず、余裕すら見せつけるように。どちらが格上であるかを知らしめてやるのです」
「はあ……」
よくわかっていないドリスのために、ユーフェミアは順を追って説明してくれた。
「わたくしは、普段は
「存じています。お身体が弱くていらっしゃると」
「わたくしが長く王宮を離れているため、自然とあの二人が同じ年頃の姫たちの中心となってしまっているのです。さも、自分たちが王女であるかのような振る舞いまでして」
「では、このお茶会に、王女としての名誉がかかっているのですか?」
「話が早くて助かりますわ。あなたって、ぼーっとなさっている割に意外と賢いのね」
「それほどでも……」
ドリスが照れ笑いを浮かべていると、扉の向こうから足音が聞こえてきた。
「侍女が戻ってきますわ。これから身支度を整えて、銀翼の間へ向かいます。いいですか? ドレスの色は、けっして緑を選んではなりません」
「緑? 姫様は緑色がお嫌いなのですか?」
問い返すと、ユーフェミアは即座に否定した。
「この春の流行色だからですわ」
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