第2章 猫かぶりの白猫

 射し込んでくる光のまぶしさに、ドリスは一度開いた目を細めて身じろいだ。

「ああ、ドリス……!」

「お母様……?」

 涙目で顔を覗き込んでいるのは、ダイアナだった。銀色に近い金髪が乱れ、まるで木漏れ日のような光の粒をこぼしている。

「よかった……!」

 しきりに髪や頬を撫でまわされ、ドリスは目を瞬かせる。

「あの……わたし、いったい……?」

「気分はどう? どこか痛むところはない? お腹はすいていない?」

 気分は悪くない。しいて言うなら、身体が少し重苦しい程度だ。どこも痛くないし、お腹もそれなりにすいている。昨夜は何も食べていなかったから……。

(昨夜?)

 ここでようやく、ドリスは夜着姿の身体を包み込むなめらかな肌触りの布団が、ノルマン邸にある自室のものでないことに気づいた。その証拠に、いつもなら小言まじりにドリスを起こしにかかる、愛嬌たっぷりの侍女の姿がない。

 曇りのない透明な窓ガラスからは、けぶるような白金色の陽光が射し込み、明るい色使いの調度品と花模様の絨毯をあざやかに照らし出している。

「舞踏会の広間で倒れたのよ。半日も眠っていたの」

「え……?」

 ドリスは身を起こそうとしたが、心配顔の母に押しとどめられた。

「何か悪い病気でなければいいのだけれど。何せ、王女殿下もお倒れになったものだから、昨夜は宮廷じゅうが大騒ぎだったのよ」

「姫様が? だ、大丈夫なのですか? わたし、お見舞いに……」

「そんな顔色でお見舞いにうかがっても、かえって姫様に心配をおかけするだけでしょう?」

 母の言い分はもっともだった。ドリスは、やわらかな羽根布団を鼻先まで引き上げた。

(やっぱり、王宮の舞踏会は、わたしにはまぶしすぎたのね……。ああ、早くランカスタ村に……お屋敷に帰りたい。地下室に閉じこもりたい……)

 たった一日離れただけなのに、無性に我が家が恋しい。

(帰る前に一度、姫様にお会いしたいわ……。病弱でいらっしゃるから、きっと舞踏会の熱気にあてられて倒れてしまわれたのね。お可哀想に、せっかくの婚約披露が中断されて……)

 舞踏会の光景を思い返していたドリスの思考が、不意に途切れた。

 昨夜は広間の隅で縮こまっていて、そこへセレストがやってきて、ダンスに誘われて……。

(その後は?)

 セレストと踊った後の記憶が、ごっそりと抜け落ちている。何も思い出せない。

 言いようのない胸騒ぎを覚え、虚空に視線をさまよわせていると、突然、寝室の扉がノックもなしに開かれた。

「お父様……」

 目を丸くして身を起こすドリスの肩に、ダイアナがストールをさっと羽織らせた。

「どうなさいましたの、あなた? ……まあ、殿下まで」

 淑女の寝室に押し入るなんて、と言いたげなダイアナの非難じみた視線にかまわず、藍色の団服姿のダレンと略装姿のセレストがつかつかと歩み寄る。どうしたことか、二人とも険しい表情を浮かべていた。

「あら?」

 ドリスは、ダレンが胸に抱きかかえている物体に目をみはった。父の腕の中でもぞもぞと動く純白の毛のかたまりは、夜空にぽっかりと浮かぶ満月のような存在感があった。

 それは猫だった。新雪を思わせる白く美しい毛並み、明るい青色の瞳、ぴょこんと尖った三角形の耳、羽箒のようにふさふさとした尻尾。

「まあ、可愛い猫さん」

 つんと上向いた薄桃色の鼻と、ぴんと伸びた白銀色の髭も、小生意気で可愛らしい。

「でも、個人的には黒猫さんのほうが断然好みなのですが……」

 ドリスが小声でつぶやくと、

「あなたの好みなど、知ったことではありませんわ」

 やたらとよく通る、高く澄んだ声が返ってきた。

「………………え?」

 気のせいだろうか。今、猫が喋ったような……。

「猫が、喋った……?」

 ダイアナも目をぱちくりとさせて猫を凝視した。どうやら、ドリスの勘違いではないらしい。

「お父様、まさか……!」

 ドリスは、はっと口元を押さえてダレンを見上げた。ダレンとセレストは、そろって苦い顔をしている。

「ドリス、実はな……」

「腹話術を習得されたのですか?」

「「……………………」」

 ダレンとセレストは、あさっての方向に顔を向けて、こめかみを揉んだり眉間に手を当てたりしている。

(眼精疲労かしら? それとも老眼の兆し? お父様はともかく、殿下はまだお若いのに……)

「この状況で腹話術なわけがないでしょう! あなたの頭はからっぽですの? それとも、虫でも湧いていらっしゃるのかしら?」

 真面目に考え込むドリスの心の声を読んだかのようなタイミングで、白く可愛らしい猫の小さな口から、思いもかけない辛辣な言葉が飛び出した。

「まったく、呆れてものも言えませんわね」

 ハープの音色のように繊細な響きを持つ声は、聞き覚えのある音色をしていた。

 白い猫は軽い身のこなしでダレンの腕から抜け出し、淡い銀色の光沢を放つ羽根布団へと降り立った。シルクの布地が小さく波を打つ。

「笑えない小芝居をなさる暇があったら、さっさとわたくしを元の姿に戻しなさい、ドリス・ノルマン!」

 磨き抜かれたサファイアのように透き通った青い瞳が、まっすぐにドリスを見据える。表情はわかりにくいが、口調から察するに、猫は激怒している様子だった。

 それより、この猫は今、ドリスの名前を呼ばなかったか。

「わたしに、猫さんのお知り合いはいないはずですが……」

「ああもうっ、埒があきませんわ! お兄様ったら、こんなボケ女のどこがいいのかしら?」

「うわあああああっ、黙れユフィ!!」

(……お兄様? ユフィ?)

 疑問を投げかけるようにセレストを見ると、彼はなぜか顔を真っ赤に染めていた。視線を泳がせ、蜂蜜色の髪を乱暴に掻きながら、ぶっきらぼうに言った。

「……妹だ」

「へ?」

 間の抜けた声をあげると、白い猫が前脚でドリスの胸を叩いた。

「その耳をかっぽじって、よくお聞きなさい! わたくしは、クレシア王国第一王女、ユーフェミア・リネット・ベイリオルですわ!!」

「……ひ、姫様?」

 この猫が?

「王女殿下は昨晩、広間にて、お前と同時に倒れられた。侍女の話によると、ずっと昏睡状態だったのだが、明け方に突然このお姿に変わられたらしい」

「変わられたって……、猫さんに……ですか?」

 ダレンは眉間に皺を寄せ、一拍置いて言葉を続けた。

「この現象は呪いによるものだ」

「呪い……?」

「王女殿下は何者かに呪いをかけられたのだ。我々魔法師団が、魔力の出所を探ったところ……ドリス、お前にたどり着いた」

「わ、わたしが!?」

 ユーフェミアを呪った、というのか?

「そ、そんなこと……あるはずがないです。わたしが、姫様を呪う理由なんてありませんし……。第一、わたしは魔法が使えません……」

 突然、見ず知らずの猫を連れてこられて、実はこの猫は王女様で、お前が呪いをかけたんだと言われても、信じられるはずがない。

「たしかにお前は魔法が使えない。自分の意思では、な」

「あなた!?」

 ダイアナが甲高い声をあげてドリスの身体を抱き寄せた。

「お父様……」

 ダレンは抑揚のない声で、けれどつらそうな表情を浮かべて、ドリスに言葉を向けた。

「お前は昨晩、魔力凍結の呪いを発動させ、ユーフェミア王女殿下に猫の呪いをかけた。お前の感情の変化が引き金になっているはずだが……何か心当たりは?」

「ありません! 何も……っ」

 何かの間違いに違いない。胸の前で組んだ両手が、かたかたと震えだした。

「わたし、昨夜のことは何も覚えていないのです……。殿下がダンスのお相手をしてくださって……そこから先の記憶がまったく」

 すると、ユーフェミアは視線をセレストへ移し、冷ややかな声で尋ねた。

「お兄様……まさか、彼女に何か不埒な行為をなさったのですか?」

「するか!」

「それもそうですわね。馬鹿正直で口下手で器用貧乏なお兄様に、そんな真似ができるはずありませんものね。できていたら、とっくに妃の二人や三人……」

「お前な……」

 顔をしかめるセレストを尻目に、ユーフェミアはドリスへ向き直った。

「きっかけが何であれ、わたくしをこんな姿にしたのはあなたなのです、ドリス。呪いというのは、術者にしか解くことができないのが定石なのでしょう?」

「呪いの種類や精度にもよりますが……、簡易的なものでしたら他者でも解呪できるはずです」

 ドリスは、一縷の望みにすがるようにダレンへ視線を送った。

「解呪は試みた」

「それは、つまり……あの」

 ドリスが視線で「駄目だったのですか?」と問うと、ダレンは首を縦に振った。

「わ、わたし、どうしたら……」

「泣きたいのはわたくしのほうですわ」

 目尻に涙をにじませるドリスの心に、ユーフェミアの言葉が楔のように突き刺さった。

 呪いによって魔力が暴発したのは、十年前の一度きり。あの時の記憶はおぼろげだが、それでも今のように記憶が抜け落ちているということはなかった。

(昨夜……いったい、何があったの?)

 必死で思い出そうとするが、記憶の引き出しはからっぽだ。青白い顔に苦悶の表情を浮かべるドリスをなだめるように、ダレンが「もういい」と言った。

「呪いを発動させたきっかけが掴めれば、解呪の鍵が見つかると思ったのだが……」

「きっかけ……?」

「たとえば……王太子殿下が、お前に心の傷を負わせるような狼藉を働いたとする」

「おい、ダレン!」

「たとえばの話です、殿下。落ち着いてください」

 声をあげるセレストを真顔で制し、ダレンは続けた。

「王太子殿下に負わされた心の傷が原因で魔力が暴走し、不運にも王女殿下に呪いがかかってしまったとする。その場合、王太子殿下に相応の報復をすることで、お前の心の傷は癒え、王女殿下の呪いも解ける――理論上はな」

「なるほど、大本を断つのですね」

「ふむ……とってもわかりやすいですわ」

 ドリスとユーフェミアは、ダレンの講釈に深くうなずいた。ダイアナもどこか納得した様子で、セレストだけが目元をひきつらせている。

「あんた……、俺に何か恨みでもあるのか?」

「滅相もない」

 にっこりと微笑むダレンの目は笑っていない。ドリスと同じ藍色の瞳が、日の射さない真冬の湖水のように凍てついている。

「それで、わたくしはこれからどうしたらよろしいのかしら? このまま一生、猫として暮らすなんてまっぴらですわよ」

 小さいながらも気品ただよう白い猫は、尻尾を優雅に揺らしながら尊大な口調で言った。

「我々が必ず、解呪の手がかりを探り当ててみせます」

 猫が相手でも慇懃な姿勢を崩さず、ダレンは続けて言う。

「この件に関しては、なるべく大事おおごとにしないほうが良いでしょう。ここにいる我々と、一部の魔法使いだけの秘密ということでよろしいですね? 侍女には催眠魔法をかけておきましたので、王女殿下が猫になられたことは綺麗さっぱり忘れているはずです」

「ご配慮、感謝いたしますわ、ダレン様。ですが、その手がかりとやらが見つかるまで、お父様や城の者たちにどうやって隠し通すおつもりですの? いくらわたくしが病弱とはいえ、何日も姿を見せないのは不自然ですわ」

 ユーフェミアの言い分はもっともだ。ドリス同様、王女の身を案じている貴族は王宮に大勢いるはずだ。

「王女殿下の代役を立てます」

「代役ですか……」

「ドリス。なぜ俺を見る?」

「が、がんばってください、殿下。背丈とか肩幅とか、少々無理がある気もいたしますが、姫様とおそろいの可愛らしさがあれば、なんとかなります!」

 目つきは悪いが、少女のような美貌を持つセレストなら、見事に妹姫の代わりを演じることができるはずだ。ドリスは両方の拳を握りしめ、声援を送った。

「バカかお前は! 俺が王宮から消えたら、そっちのほうが大騒ぎになるだろ。ていうか、可愛いってなんだ、可愛いって!?」

「で、殿下に対する客観的な見解ですが」

 何か失礼なことを言ってしまったのだろうか。なんだか、いつにも増してセレストの機嫌が悪いように見える。ドリスは思わず、目の前にいた猫のユーフェミアをぎゅっと抱いた。

「ドリス。殿方に『可愛い』は禁句ですわ。たとえ、揺るぎない事実だとしても」

「ユフィ……!」

 何か言いたそうに奥歯を軋ませるセレストに、ユーフェミアは薄桃色の鼻を動かしながら、どこか楽しそうな口調でつぶやいた。

「難儀ですわねえ、お兄様」

 何が難儀なのだろう? ドリスは、きょとんと目を丸くして、腕の中の白い猫を覗き込んだ。

「頭が痛くなってきた……」

 セレストは片手で額を押さえながら絞り出すように声を漏らし、数拍置いてこう言った。

「代役はお前だ」

「え?」

 セレストの言葉を合図に、ダレンが指を鳴らした。

 次の瞬間、ドリスの視界は白銀色の煙に覆われた。濃い霧にも似た煙の中で、虹色の砂を撒いたように細かな光が色とりどりにきらめく。

(な、何……これ?)

 やがて煙が晴れると、ベッドの上にいたはずのドリスは、床に両足をつけて立っていた。

 胸に抱いていたはずのユーフェミアは、数歩離れたベッドの上にちょこんと鎮座している。

「お父様、これはいったい……?」

 一歩踏み出したドリスは、身体を包む布地の重さにぎょっとした。

 淡い紫色をした薄手の布地が幾層にも重ねられ、円を描くようにして足元へと広がっている。身にまとっていた白い夜着と珊瑚色のストールが、豪奢なドレスに変わったのだ。

 ダレンが再び指を鳴らすと、今度はドリスの目の前に、蔓草模様の銀細工に縁取られた姿見が出現した。

「……………………!」

 鏡に映し出された姿に、ドリスは今度こそ言葉を失った。

 窓から射し込む陽光を照り返す長い金髪、見る者の心を吸い寄せるような空色の瞳、白く透き通った肌、薄紅色の頬、バラのつぼみのような愛らしい唇。

 鏡の中で驚きの表情を浮かべているのは、まぎれもなく、ユーフェミア王女その人だった。

 ドリスがわずかに後ずさると、鏡に映るユーフェミアも同じぶんだけ遠ざかる。ドリスが右手で口元を覆うと、鏡の中のユーフェミアも同じ動作をとった。

「あ、あのっ、これはどういう……?」

 おろおろと、その場に立ちつくすドリスに、セレストが端的に言った。

「お前にはこれから、ユフィの代役を務めてもらう」

「ええええええっ!?」

 ドリスが大声をあげると、セレストは感心したように目をみはった。

「声まで似せてあるのか。さすがだな」

「当然です」

 セレストの賛辞に、ダレンが得意げに応える。

「ふむ、外見は文句なしですわね。問題は中身ですわ」

 ユーフェミアが、ひらりとベッドから飛び降りる。

「言葉遣い、立ち居振る舞い、その他すべて完璧にわたくしを演じてもらいますわよ。少しでもボロを出してごらんなさい。一生お嫁に行けないくらい、顔を引っかき傷だらけにしてやりますわ!」

「そ、そんな……」

「情けない顔をなさらないで! わたくしは、そんな辛気臭い顔などいたしません!!」

 眉尻を下げるドリスに、さっそく『本物』からの駄目出しが飛んでくる。

「大丈夫、わたくしがついています。王女の何たるかを、みっちりと仕込んで差し上げますわ」

 ユーフェミアは、ゆったりとした足取りでドリスの前へやってきて、両目を細めた。

「姫様……」

 不思議な心地がした。身が凍りつくほどの不安に押しつぶされそうだったのが、ユーフェミアの「大丈夫」というたった一言で、力が湧いてくるような気分になる。彼女が誰よりも不安でつらいはずなのに、しゃんと顔を上げてまっすぐに前を見ている。

(なんて、心のお強い方なのかしら……)

 王女の凛とした姿に心を打たれたドリスは、ユーフェミアの前に膝をついた。

「ありがとうございます、姫様。わたし……やれるだけのことはやってみます」

「その意気ですわ」

 ようやく前向きな言葉を口にしたドリスに、ユーフェミアは満足げにうなずいた。

「ところで姫様。実は、先ほどから少々気になっていることが……」

「なんですの?」

 元の姿の時よりやや高くなった声で、白い猫が問い返す。

「あの……、昨日初めてお会いした時と比べて少し……いえ、かなり雰囲気が違うように感じられるのですが……気のせいでしょうか?」

 昨日、初めて言葉を交わしたユーフェミアは、ユリの花のようにたおやかで、物静かな雰囲気を醸し出していた。今ここにいる猫のユーフェミアは、言葉にしづらいのだが、率直に言ってしまえばかなりの毒舌である。

「気にするな。普段は猫をかぶっているだけだ」

 ドリスの疑問に、セレストが淡々と答えた。

「ああ、それで猫のお姿に……」

「違うと思う」

 ぽんと両手を打つドリスのつぶやきを、セレストは小声で否定した。

 かくして、ドリスの身代わり王女生活が幕を開けたのだった。

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