どこまでも続く青い空、羽毛のようにたゆたう白い雲、遠くには深緑色の針葉樹林。白い石畳が敷かれた並木道の両側には、巧みに刈り込まれた低木と、太陽の光を照り返す色とりどりの花壇で構成された庭園が広がっている。

 並木道を進む馬車が目指す先は、青い屋根の尖塔が美しい白亜の宮殿。

「……やっぱり帰っていいですか。あまりのまぶしさに目眩が」

 馬車の小窓から外を覗いたドリスは、今にも失神しそうな顔色で両親を見た。

「ねえ、あなた。わたくし、なんだか緊張してきましたわ。失礼な振る舞いをして、皆様に笑われたらどうしましょう」

「何を言う。皆が笑うとしたら、お前の可憐な笑顔に心を奪われているからだ。私の顔を見てごらん。怒っているように見えるか?」

「いいえ、あなた。とても楽しそうですわ」

 隣り合って座る万年新婚気分の両親は、一人娘の話をまったく聞いていなかった。

 ドリスは今一度、小窓をそっと開け、四角く切り取られた緑の庭園を覗き見た。

(なんだか嘘みたい。わたしが『外』にいるなんて……)

 頬を撫でる風が、ランカスタ村の風より暖かい。雪深い山里にあるランカスタ村から遥か南西に位置する王都ルナージェは、気候が温暖で、冬でも滅多に雪が降らない。

 緑の匂いを含んだ優しい風に口元がほころんだのも束の間、ドリスは再び陰鬱な表情を浮かべ、小窓をそっと閉めた。

(馬車から降りた途端に気絶したらどうしよう。ドレスの裾を踏んづけて転んだらどうしよう。転んだ拍子に、たまたま近くにいるお年を召した方を巻き込んで、たまたまその方がヅラだったりしたらどうしよう……一生かけても償いきれないわ)

 一概に有り得ないとも言いきれない場面を想像し、ドリスは両手で頬を覆った。

(いっそ、お城の中へ『飛んで』いけたら、少しは気が楽だったかもしれないのに……)

 ドリスはしょんぼりと肩を落としながら、この日のために新しく仕立てた空色のドレスに指を滑らせた。波打つフリルの間で、花を描くようにして縫いつけた真珠の飾りがまろやかな光を放っている。長い黒髪は下ろして真珠の髪飾りを挿し、病的に白い頬は少しでも顔色がよく見えるようにとべにをはたかれた。

「ひさしぶりの王宮ですもの。城門をくぐって、前庭をじっくりと眺めたいわ」というダイアナの希望により、ダレンの魔法で馬車ごと王宮近くの街道へ転移し、小高い丘を登り、つい先ほど城門をくぐったところである。

(やっぱり留守番していたほうがよかったかしら。ああ、どうしてこんなにお天気がいいの? 嵐だったら、もっと楽しい気分になれるのに)

 そこで、ドリスは嵐が吹き荒れる王宮を想像してみた。

(垂れこめる黒雲、横殴りの雨、アメジスト色の稲光……いいわね、それだけでぞくぞくしちゃう。薄暗い広間に流れる音楽は、夜風が唸るような短調にアレンジされた円舞曲ワルツ。楽器は古びたオルガン。紳士淑女は皆、黒の礼装。女性は、殿方に素顔を見られないようにベールで顔を隠すの。たとえ名前を尋ねられても、妖艶な微笑みでかわすのよ。そして、互いに名前も素性も知らないままステップを踏む……。曲が終わるとパートナーは闇に紛れて消えてしまうの。まるで一瞬の夢幻ゆめまぼろし……ああっ、素敵!)

 普通の人なら卒倒しそうな妄想に身悶え、思わず拳を握りしめたドリスだったが、すぐ我に返って物憂げにため息をついた。

(やめましょう。むなしくなるだけだわ)

 そうこうしているうちに馬車は宮殿の前に到着した。先に馬車から降りたダレンの手を借りて地面に降り立ったドリスは、荘厳華麗な城のたたずまいに圧倒され、息を飲んだ。怖いと思うと同時に懐かしさもおぼえる。とても不思議な感覚だった。

 太陽の光を照り返してきらきらと輝く大理石の階段を踏みはずさないよう(もしくは、目がくらんで倒れないよう)、慎重に昇るドリスの耳に、ひそひそと囁きを交わす声が聞こえた。

「おや、ノルマン伯爵だ」

「すると、あの令嬢は、『例』の?」

「王太子殿下を…………したという?」

「王宮から追放されたはずでは?」

 突き刺さるような視線と、嫌悪感をあらわにした囁き声に、ドリスは身を硬くした。

(わかっていたことじゃない。お城の方たちから歓迎されないことくらい)

 それでも行くと自分で決めたのだ。ドリスは心配そうに振り返る両親に精一杯の笑顔を向け、毅然と顔を上げた。

(想像するのよ、ドリス。ここは……そう、闇に包まれた山奥の古城――吸血伯爵城。あの方たちは皆、血を吸いつくされた哀れな屍。ほら、向こうに飾ってある豪華でまぶしいお花だって、人の血を吸って赤く咲き誇っているのだと思えば……ちっとも怖くなんてないわ!)

 広く長い廊下を進みながら、頭の中できらびやかな宮殿を闇の古城へと塗り替えていく。

「怖くない怖くない……」

「お前のその顔が怖い」

 不意に聞き覚えのある声がしたので立ち止まると、礼装姿のセレストが立っていた。

 丈の長い漆黒の上着には金色の飾り紐があしらわれ、白い立ち襟のシャツの胸元には彼の瞳と同じ空色の宝石が輝いている。ドリスより頭一つ分高い身長は、その年頃の男子にしてはやや小柄だが、清廉で上品な色使いの衣装が、鍛えられた体躯をよりしなやかに見せていた。

「ごきげんよう。そして、ごきげんよう」

 すぐさま回れ右しようとするドリスの腕を、セレストは素早く捕まえた。

「今逃げたら、不敬罪で地下牢に放り込むぞ」

「まあ、地下牢?」

「喜ぶな!」

 いつになく目を輝かせるドリスに、セレストはげんなりと肩を落とした。

「ごきげんよう、王太子殿下。本日はお招きありがとうございます」

 ダイアナが貴婦人らしい優美な笑みを浮かべ、会釈をする。

「ようこそ。道中……大した道のりではなかったと思うが、部屋を用意したのでくつろいでくれ。舞踏会が始まるまで、まだかなり時間があるから」

 セレストは、肩をすくめていたずらっぽく微笑むと、ドリスに向き直った。

「ドリス」

「は、はい……」

「いちいち怯えるな。その…………似合ってるぞ……」

 最後のほうは聞き取りにくかったが、どうやら衣装を褒めてくれたらしい。セレストの白磁のような肌がほんのりと朱に染まっている。

「あ、ありがとうございます……」

 ドリスはうつむき、ぼそぼそと礼を述べた。なぜか胸の奥が温かくて、少しくすぐったい。

「この空色のドレスは、お母様が光り輝く海に棲む人魚姫を参考にデザインしてくださったのですが、わたしとしては……美しい歌声で旅人を海の底へと引きずり込む水の魔女ローレライのイメージでして」

「母君の努力が水の泡だな」

「人魚姫だけに?」

「別に掛けたわけじゃない」

 きょとんと目を丸くして問い返すと、セレストはどこか疲れたような顔をしていた。彼といい、屋敷に残してきた侍女のシェスカといい、皆働きすぎなのではと心配になる。

 案内されたのは、三階にある南向きの一室だった。広々とした室内には豪奢な調度品が並び、毛足の長い上等な絨毯が敷かれている。蔓草模様をあしらった高い天井からは涙型のガラスを連ねたシャンデリアが吊り下げられており、まるで光の粒が降ってくるようだ。

「殿下、わたしは日陰がいいです……。地下室とか屋根裏とか物置とか」

「では、ごゆっくり。後ほど、パーシーと妹を挨拶に寄越します」

 ドリスの訴えをさらりと無視したセレストは、ダイアナへ言葉をかけ、ダレンとともに退室した。父は宮廷に仕える身だ。今日も忙しいのだろう。

 舞踏会が始まるのは日没後。それまで、このまぶしくて華やかな空間で過ごせというのか。

(拷問だわ……!)

 心の中で打ちひしがれていると、紺色のお仕着せ姿の若い女官がやってきて、テーブルにお茶菓子が用意された。香り高い紅茶、色とりどりのマカロン、木の実のタルト、スミレの砂糖漬け。可愛らしい見た目と洗練された味わいのお菓子は、ドリスの緊張を少なからずほぐしてくれた。

(自己暗示よ、ドリス。ここを地下室だと思い込めばいいのよ。こんなに可愛らしくておいしいお菓子たちに罪はないもの。ここが、光の射さない冷えきった地下室だと思えば……ますます甘くておいしく感じられるわ)

「おいしいわねえ。お天気も素晴らしいし、中庭の木陰でいただけたら、もっとおいしいでしょうね」

 似たような微笑みを浮かべながら正反対の感想を抱く母と娘が、宮廷のお菓子に舌鼓を打っていると、部屋の扉が叩かれた。

「ようこそ、ダイアナ様、ドリス」

 やってきたのはパーシバルだった。漆黒の装いでまとめたセレストとは対照的に、パーシバルは高潔を思わせる白い礼装に身を包んでいた。金糸で縁取られた純白の上着、内側のシャツは白銀色。襟元を飾る小粒のダイヤモンドが、控えめながらも芯のある光を放っている。

「ごきげんよう、パーシバル様」

 母に倣ってドリスも立ち上がり前へ進み出ると、ドレスをつまんでお辞儀をした。

 婚約の報告をするためにノルマン邸を訪れたパーシバルの前で気絶して以来、初めての対面である。思えばみっともない姿を見せてしまったものだと、ドリスは今さらながら恥ずかしさに顔を赤らめた。

「あら?」

 ダイアナが小首をかしげた。開いたままの扉から、薄桃色のフリルが見え隠れしている。

「紹介します」

 パーシバルが振り返ると、薄桃色の華やかなドレスに身を包んだ少女が姿を見せた。

 腰までゆるやかに流れる濃い蜂蜜色の髪、空の色を映したような明るい青色の瞳、透き通るような白い肌、すっと整った鼻梁、花びらのように小さく可憐な唇。

(殿下……?)

 思わず見間違えそうになるほど、少女はセレストとよく似ていた。違うところといったら、彼女がドリスよりも少し背が低く、触れただけで折れてしまうのではないかと思うくらい華奢なところだろうか。

 少女はパーシバルに手を取られ、しずしずとこちらへ歩み寄った。

 紹介されなくとも、ドリスにはこの少女が誰なのかすぐにわかった。

「ユーフェミア王女殿下。僕の花嫁になる人です」

「お初にお目にかかります、ユーフェミア・リネット・ベイリオルと申します。本日は、遠いところをようこそおいでくださいました」

 繊細なフリルを重ねて大輪の花のように広がるドレスをつまみ、ユーフェミアは王族らしい洗練された所作で会釈をした。高く細い声は、まるで天使がハープを爪弾くかのように美しい。

「皆様のお話は、兄とパーシー様から常々うかがっておりました。お会いできて光栄ですわ、ダイアナ様、ドリス様」

 はにかむようなユーフェミアの微笑みは、ほころびかけたつぼみのように初々しい。

(なんてお可愛らしい方……)

 面差しは兄のセレストと似ているが、浮かべる表情や醸し出す雰囲気はまったく違う。セレストが抜き身の剣だとしたら、ユーフェミアはやわらかで繊細な砂糖菓子だ。

(頭からガブリと食べてしまいたいほどの可愛らしさ……。今の世に吸血鬼が実在していたら、真っ先に狙われること間違いなしだわ。あの透き通るようなお肌に牙が立てられたら、流れる血の色がどんなに美しく映えることか……!)

 もしも自分が吸血鬼だったら、どの角度から首筋に噛みつこうか……。想像するだけで、思わず口の端からよだれが垂れそうになる。

「パーシバル様、ユーフェミア姫様、このたびはご婚約おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 ダイアナが膝を折って祝いの言葉を述べる。我に返ったドリスは慌てて母に倣った。

「ご、ご婚約おめでとうございます」

「ありがとう」

 パーシバルが嬉しそうに目を細めて笑った。失恋した今でも、彼の笑顔はドリスにとって心の栄養剤のようなもの。胸の奥がきゅっとなるのは当然のことなのだけれど……。

(あら?)

 不意に、ドリスは奇妙な違和感を覚えた。

 胸とお腹の間……鳩尾のあたりにかすかな痛みが走ったのだ。

(お菓子を食べすぎてしまったかしら……?)

 しかし、胸焼けのような重苦しさとは少し違う、疼くような痛みだった。

「ドリス、今日は来てくれてありがとう。……がんばったね」

「い、いえ……」

 最後の部分は小声で囁くように言われ、ドリスは頬を赤らめてうつむいた。胸の奥に潜む痛みはいつの間にか消え、先ほど食べたマカロンのような甘さが広がっていくのを感じる。

「今夜は楽しんでね」

「はい」

 ドリスは笑顔で応えた。

 この場にいる誰も――ドリス本人さえも、彼女の些細な変調に気づかないまま、舞踏会の幕が上がる。



 幼馴染みの引きこもり女は案の定、青ざめた顔で大広間の壁に張りついていた。

(壁の花っていうか押し花だな、あれは)

 セレストは、花に群がる蝶のように近寄ってくるきらびやかな姫君たちに愛想笑いを返しながら、化粧と酒の匂いがたちこめる人波を縫って、彫像のように無表情で突っ立っているドリスのもとへ歩いていった。

「おい」

「……話しかけないでください。わたしは絵画です」

「こんな不細工な絵を飾った覚えはないぞ」

「では、ぜひ物置へ運んでください。もう、まぶしくてまぶしくて、身も心も干からびそうなのです。このままではわたし、干し肉になってしまいます」

 死んだ魚のように虚ろな目をしているくせに、よく喋る。

「せっかく母君が仕立ててくださったドレスを無駄にする気か?」

「……ぐう」

 今度は寝たふりと来た。しかも目を開けたまま。

 母君といえば、ダイアナは三十路前後の男たちに次々とダンスを申し込まれ、片っ端から相手をしている。魔法師団に所属する夫ダレンが、近衛騎士団と組んで王宮の警護にあたっているせいで、一緒に踊れないのが不満なのだろう。

 高壇に設けられた王族用の席では、今夜の主役であるパーシバルとユーフェミアへ祝辞を述べるために、貴族たちが列をなしている。

「来い」

「ど、どちらへ?」

 レースの手袋に包まれた華奢な手を強引に取り、セレストは大股でフロアへ向かった。

「決まってるだろ、踊るんだよ」

「い、嫌です。殿下とご一緒したら……注目が」

「もう、じゅうぶん目立ってる」

「え?」

 ドリスは気づいていないようだが、さっきから若い貴族たちの視線が彼女へと注がれている。魔力凍結の呪いについて知る者も、そうでない者も、物憂げな表情でたたずむ可憐な姫君に興味がある様子だ。

「わたし、何か珍奇な行動をとってしまったのでしょうか? 緊張をやわらげるために『嵐の夜の死霊舞踏会』を想像していたのですが、もしかしたら声に出ていましたか?」

「めでたい場で、縁起でもない妄想をするな」

 黙って立っていればスズランのように清楚で愛らしいのに、口を開けば何もかもが台無しだ。

「あの、殿下……?」

「少し黙れ」

 斬り捨てるように言うと、セレストはドリスの細い腰を引き寄せた。楽団の奏でる円舞曲(ワルツ)に合わせてステップを踏む。

「あ、足を踏んでも怒らないでくださいね?」

「踏まれる前に避けてやる」

 ぶっきらぼうな口調で切り返すと、緊張でこわばるドリスの顔にかすかな笑みが浮かんだ。

「あの……、先日はありがとうございました」

「何の話だ?」

「気絶したわたしを寝室まで運んでくださって……」

「ああ、白目をむいて倒れる姿が見るに堪えなかったからな」

 セレストは隣のペアにぶつからないよう、足を引いてターンした。ドリスの空色の衣装が風をはらんで花のようにふくらみ、長い黒髪を彩る真珠の飾りが虹色の光を散らす。

 思いのほか軽やかなドリスのステップに、セレストは目をみはった。

「驚いたな。まともに踊れるとは思っていなかった」

「この半月、母がみっちりと稽古をつけてくれましたから。付け焼刃でお恥ずかしいですが」

 何もないところで転ぶという特技を持つドリスにしては、大躍進だろう。

「……悪かったな」

「え?」

「その……無理に王宮まで来させたりして」

「お気になさらないでください。おいしいお菓子もいただけましたし、想像力をかきたてられる可愛らしい姫様ともお近づきになれましたから」

 ユーフェミアのことだろうか。こいつは、他人ひとの妹で何を妄想しているんだか。一度、頭をかち割って中身を覗いてみたいものだ。

 やがて曲が終わると、高壇の王族席に動きが見られた。白の礼装姿のパーシバルが、薄桃色のドレスに身を包んだユーフェミアの手を取り立ち上がった。フロアを埋めつくす人波が綺麗に割れ、盛大な拍手とともに二人を迎え入れた。

 パーシバルのリードで二人が四方へ順にお辞儀をすると、次の曲が始まった。のびやかでスローテンポな円舞曲ワルツは、病弱なユーフェミアへの配慮だろう。

 優雅に舞う二人の姿に、周囲からため息が漏れる。

「まあ、初々しいお二人ですこと」

「本当に、可愛らしいですわね」

「王女殿下は滅多に公の場へおいでにならないので心配でしたけれど、健やかそうで何よりですわ」

 踊るよりも見るほうに専念する貴婦人たちが、囁きを交わす。

 何も滞りなく順調に準備が進めば、二人の婚礼は来年の春、遅くとも夏には執り行われる予定だ。

 その頃までに、セレストも生涯の伴侶となる妃を決めると、両親と約束している。

 心に決めた女性はいるが、王室の面々や重臣たちは彼女を妃として認めてくれないだろう。

 国が望む王太子妃は、クレシアよりも力のある他国の姫君。

 セレストが望んでいる女性は、地方伯の呪われた娘だ。

(身分や呪いがどうこう以前に、本人に拒まれるだろうけどな)

 彼女のことだ。王宮で暮らしてくれなんて言った日には、泡を噴いて気絶しかねない。それ以前に、この鈍感な引きこもり女は、セレストの気持ちなど爪の先ほども察していないだろう。

 明るい空色のドレスに身を包んだ、海の妖精のようなたたずまいのドリスは、目を大きく見開いて、フロアの中央で優雅に踊るパーシバルとユーフェミアへ熱い視線を送っている。

 息をすることも忘れて二人のダンスに見入るドリスの頬に、何か光るものが見えた気がした。

 それが涙だと気づいた時、異変は起きた。

 どこからか女性の悲鳴があがった。楽の音が途切れ、広間にざわめきが起こる。

 人々の意識はフロアの中央へ向けられていた。

「ユフィ!?」

 騒然となる人々の中心で、パーシバルがユーフェミアを抱きかかえるようにして支えていた。ユーフェミアの瞼は閉じられ、糸の切れた操り人形のようにぐったりとしている。

「侍医を呼べ!」

「ただちにお部屋へお運びしろ!」

 重臣たちが慌ただしく侍従や女官たちへ指示を出す。セレストも妹のもとへ駆け寄ろうとしたその時、肩に何かが触れた。

 振り返ると、目の前でつややかな黒髪が扇のように広がった。

「ドリス!?」

 膝から崩れ落ちるように倒れるドリスの身体を、セレストは咄嗟に受けとめた。

 ユーフェミアと同じく、ドリスも意識を失っていた。

 涙に濡れた白い頬は、氷のように冷えきっていた。

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