十年前――通りすがりの魔女の呪いを受けたばかりの頃、ドリスは一度だけ激情に身をまかせて魔力をほとばしらせたことがある。

 もっと早くに王宮を離れていたら……。思い出すたび悔恨に苛まれ、心が軋む。

 制御のきかない膨大な魔力は、ドリスの小さな身体から奔流のようにあふれ、目に見えない刃となり、庭園の樹木や草花を切り裂き、すぐそばにいた大切な友達まで傷つけた。

「ごめんなさい、セレストさま……ごめんなさい」

「なくな……バカ。おまえは、わるく……ない……」

「セレストさま!!」

 幸い、セレストの傷は浅かった。

 けれど、額から血を流して苦痛に顔を歪める姿は、今でも脳裏から離れない。

 まるで、癒えることのない火傷のように、ドリスの心に焼きついている。



「ドリス、朝食は? 僕らは食べてきたからいいけれど」

「どうかおかまいなく……食欲がないので」

 カップに注がれた紅茶をぼんやりと眺めながら、ドリスは湯気よりもはかなげな声で答えた。顔色は、蒼白を通り越して真っ白になっていた。

(溶けちゃう……ううん、干からびちゃう……)

 賓客をもてなすための応接間は、いたるところに白や黄色のみずみずしい花が飾られ、窓から白金色の陽光が射し込んでいる。暗色系で統一されたドリスの部屋とは対照的に、花模様を散らした薄桃色の壁紙と、白を基調とした調度品が室内を明るく彩っている。ドリスの母ダイアナの趣味である。

 ドリスが身だしなみを整えがてら侍女たちに着付けられたのは、春らしい若草色のドレスだった。歩くたびにひらひらと蝶のように舞うフリル、腰を飾る大きなリボン、胸元で輝くのは小粒のエメラルドを連ねた金の首飾り。何もかもがまぶしく、目に痛い。ついでに頭も痛い。こめかみに指先を添えると、やわらかな花びらが触れた。左右に結い上げていた黒髪は下ろされ、淡い黄色の花飾りが挿されている。

(このキャベツ色のドレスと同化して、わたしもキャベツになってしまいたい……。そうすれば太陽の光だって怖くないもの。むしろすくすくと育つもの……)

 残雪の下に眠る土壌へと意識を飛ばそうとしているドリスの左隣で、金髪碧眼のたおやかな貴婦人が、向かいのソファに並んで座る貴公子たちに微笑みかけた。

「お二人とも、しばらく見ないうちにますます凛々しくおなりですわね」

「先月お目にかかったばかりですよ、ダイアナ様」

 笑顔で訂正を入れたのはパーシバル。セレストは、口数こそ少ないものの、青く澄んだ瞳に穏やかな笑みを浮かべて相槌を打っている。先ほどまでの険しい顔つきが嘘のようだ。

「あら。この年頃の殿方は皆、日々成長なさっていますのよ。お二人のファンとしては、一日たりとも見逃せませんわ」

 ダイアナは、ころころと笑って言った。無邪気で可憐な仕草と、クリーム色のドレスに包まれた華奢な体つきは、とても三十代半ばには見えない。

 王太子セレストは十八歳、幼馴染みで側近のパーシバルは一つ上の十九歳。子どもの頃から侍従たちの目を盗んでは、二人そろって(宮廷魔法使いの誰かを道連れにして)ノルマン家に出入りしていた。伯爵夫妻にとって、セレストもパーシバルも息子のように近しい存在だった。

 しかし、ドリスにとっては厄介というか精神的負担が大きいというか、できることなら一生顔を合わせたくない相手である。セレストに限り。

 顔を合わせたくない……というより、合わせる顔がないのだ。

 セレストに怪我を負わせたのをきっかけに、ドリスは彼を避けるようになった。すると、よそよそしい態度がセレストの癇に障ったのか、彼は嫌がらせとも思える頻度でノルマン家を訪れた。対するドリスは、セレストの目をかいくぐろうとあの手この手で逃げ隠れるのだが、どこまで逃げても追われるし、どこに隠れても必ず探しあてられる。そして、いたぶられる。

 十年におよぶ鬼ごっこと隠れんぼが、ねじれにねじれた結果、「蛇に睨まれる蛙」の図式ができあがった。言うまでもなく前者がセレストで、後者がドリスである。

(わたしはキャベツ、わたしは植物。太陽はおいしいごはん……)

 心を落ち着かせるためにぶつぶつと唱えていると、テーブルを挟んだ向かい側のパーシバルと目が合った。にこっ、と微笑みかけられ、ドリスは頬をわずかに染めてうつむいた。

「それで、ドリスに用件というのは?」

 ドリスの右隣で話を切り出したのは、父ダレン。四十歳手前の、宮廷魔法師団ではまだ若手とされる魔法使いは、肩の下まである黒髪を後ろで結び、藍色の団服に身を包んでいる。上着の立ち襟で輝く金色の徽章は宮廷魔法使いの証であり、己の身を守る魔法具でもある。

「殿下がわざわざ事前に使者を寄越し、私と妻まで同席させるくらいですからね。それなりに重要なお話なのでしょう?」

 普段は何の報せもなしにズカズカ上がり込んでくるくせに、今日に限ってどういう風の吹き回しだ? ……という無遠慮な問いを言外に含ませ、ダレンはセレストを睨むように見た。

「ドリスを王宮に招きたい」

「…………え?」

 ドリスは目を瞬かせ、顔を上げた。その拍子にセレストと目が合い、慌てて視線をそらす。

「来月、王宮で開かれる舞踏会にドリスを招待したいのです」

 言葉少ななセレストの隣でパーシバルが補足をし、懐から一通の封筒を取り出した。青い封蝋に刻まれたライラックの花はクレシア王家の紋章だ。舞踏会の招待状らしい。

「本気ですか?」

 ダレンは眉をひそめ、ちらりとドリスへ視線を送った。ドリスも横目で父の視線を受けとめ、心の中で「ご冗談を」とつぶやいた。

 呪いのせいとはいえ、ドリスはかつて王宮の器物を損壊させたうえ、王太子に怪我を負わせた、いわば罪人だ。ドリスが何の罰も受けず、ダレンが魔法師団から除籍されなかったのは、国王の厚情によるものだと、王宮を離れて数年経ってから聞かされた。

「父上……国王陛下の許しはいただいている」

 ダレンはしばしの間考え込み、ドリスに答えを求めた。

「ドリス。王宮では、多かれ少なかれ好奇の目に晒されるだろう。中には、お前を嫌悪する者もいる。親としては、嫌な思いをさせたくない。だが、お前がもし行きたいのなら……」

「気が乗りません……」

 ドリスは小声で即答した。

「お前な」

 苦虫を噛みつぶしたような顔でセレストがぼやき、パーシバルは小さく苦笑した。

「だ、だだだって、王宮はただでさえぎらぎらしていて騒がしくて心臓に悪いのに、そのうえ舞踏会だなんて……」

 それでなくとも、この十年間、自宅の敷地から一歩も出たことがないというのに……よりにもよって、王宮で舞踏会?

 南国の鳥のように派手なドレスに身を包み、拘束具のような金銀宝石で飾りたて、無駄にまばゆい明かりの下で延々と踊り続けるかと思うと、身体じゅうの血が抜けそうになる。くるりと一回転したら最後、そのまま気を失うに決まっている。

(無理!)

ドリスは身震いし、自分の身体を守るように抱きしめた。

「一曲踊ったくらいじゃ倒れないし、溶けないし、干からびもしないぞ」

 セレストが呆れたように言った。

「わたしは一曲踊る前に干からびるのです……そっとしておいてください」

「お前は藻草か」

「ああ、いいですね……。藻草は舞踏会に行かなくてもいじめられませんね……」

「俺がいついじめた?」

 セレストは狐色の焼き菓子を手にしながら、むっとした口調で問い返した。

「どうしても嫌なら無理にとは言わないけれど、僕はドリスに来てほしいな」

「え」

 今にも切れそうに張りつめていた緊張の糸が、パーシバルのやわらかな笑顔と言葉によって、ふっとほぐれていくのを感じた。ドリスは、肩の力を抜いてパーシバルに目を向ける。

「ドリスに紹介したい人がいるんだ」

「紹介……?」

 ぼんやりと繰り返すドリスに、パーシバルはにっこりとうなずいた。

「俺の妹だ」

 短く答えたのはセレストだった。

「ユーフェミア王女ですか」

 確認するように口にしたダレンの隣で、ドリスは頭の中にクレシア王家の系図を描いた。

 現国王と王妃の間には、二人の子供がいる。一人は王太子セレスト。もう一人は、ドリスと同い年の姫――ユーフェミア王女。ユーフェミアは生まれつき身体が弱く、海辺の離宮で暮らしている。幼い頃にほんの数カ月、王宮に滞在していただけのドリスは、ユーフェミアとの面識はまったくない。ちなみに、セレストたちとパーシバルは祖父同士が兄弟なので、再従兄弟はとこにあたる。

(でも、どうして殿下の妹君をパーシバル様が紹介なさるのかしら?)

 ドリスの疑問は、ほどなくして解消された。

「なるほど。今度の舞踏会で、婚約のお披露目をなさるのですね」

(え?)

 ドリスは父を振り仰いだ。ダレンは、合点がいったという様子で目元をなごませている。

「まあ! 婚約?」

「ご報告が遅れてすみません。ダイアナ様も、舞踏会にぜひいらしてください」

「もちろんですわ。おめでとうございます」

 反対側へ首を向ければ、ダイアナが頬を紅潮させて手を叩いていた。

「ご婚約……されたのですか?」

 知れず、ドリスの声はこわばっていた。自分の些細な変化を察したのがセレストだけということに、ドリスは気づいていない。

 目の前でうなずくパーシバルの笑顔が、だんだんと遠のいていくように見える。何か喋っているようだが、言葉が聞き取れない。

「……………………」

「ドリス?」

 呼びかけてくる声が誰のものかわからないまま――ドリスは目を開けたまま気を失った。



 どこからかただよう甘い香りにいざなわれるように、ドリスは目を覚ました。

 天蓋から降りる黒いレースが目に入り、ほっと息をつく。静かな夜を思わせる黒は心を落ち着かせてくれる。鼻孔をくすぐる甘い香りは、シェスカが花を活けてくれたのだろう。

 のろのろとベッドから起き上がると、キャベツ色……ではなく若草色のドレスを着たままだったことに気づく。せっかく母が仕立ててくれたのに、皺だらけにしてしまった。

(……わたし、パーシバル様のことが好きだったんだなあ)

 彼の婚約話を聞いて気を失うということは、そういうことなのだろう。

 でも、悲しいとか苦しいといった感情はなく、心は凪いだ水面みなものように落ち着いていた。

(これは、いわゆる初恋というものなのかしら。そして、自覚した途端に失恋……。なんだか、普通すぎておもしろくないわね……)

 むしろ客観的に、自分の恋の顛末を分析していた。

(わたしみたいな根暗で珍奇な変人でも、恋とか……するんだ)

 それは、ドリスにとって新たな発見だった。母が趣味で集めている恋愛小説を何冊か読んで、それなりに予備知識はあるものの、自分とは異なる世界の物語だと決めつけていた。

 恋する乙女とは、花のような愛らしい容姿に、誰からも好かれる明るい性格、殿方が手を差し伸べずにはいられない健気さを持ち合わせている、ごくごく限られた少数民族のようなもの。自分みたいに、痩せっぽちで青白くて根暗で悪趣味で、呪いのおまけがついた変人になど、恋をする資格も機会もないのだと思い込んでいた。

 物語の主人公は失恋すると、身を引き裂かれそうな思いに苛まれ、悲嘆に暮れるものだと本にはあったが、実際にはそこまで悲しくないのだということもわかった。

(わたしが本気で号泣したら、きっと屋敷の中がめちゃくちゃになってしまうわね)

 自我の抑制がきかないほどに感情がたかぶると、ドリスの内側で眠る魔力が暴発する。

「……お嬢様、お目覚めですか?」

 寝室の扉がそっと開き、小声で呼びかけられた。シェスカだ。

 ベッドから降りようとレースをめくったドリスは、驚いて声をあげそうになった。

「お静かに」

 小走りに駆け寄ってきたシェスカに囁かれ、ドリスは無言でうなずいた。

 闇を凝らせたような暗い室内に、色ガラスを透過した陽光が射し込んでいる。そろそろ昼時かと思われる時分、ドリスの寝室にけっしているはずのない人物がいたのだ。

 ベッドのかたわらに一人がけのソファが置かれ、そこで健やかな寝息をたてる金髪の少年。

「どうして殿下が……?」

「王太子殿下がここまで運んでくださったんです。お嬢様が倒れたのは、ご自分のせいだと気に病まれて……」

「どうして?」

「『藻草を直射日光に晒しておくんじゃなかった』と、悔いておられました」

 どうやら、ドリスが気絶したのは、明るいところに長時間放置して干からびたのが原因と思われているらしい。まるで、手のかかる植物そのものだ。

「パーシバル様は?」

「旦那様とご一緒に王宮へ戻られました。お嬢様によろしくと、おっしゃっていました」

「そう……」

 ドリスはベッドから降りると、身をかがめてセレストの寝顔をじっと見た。膝に毛布をかけられ、両腕を組んだ姿勢ですやすやと眠っている。

 きらめく金糸の髪、バラ色の頬、整った鼻梁、薄く開かれた桃色の唇。

 彼の顔をこんなに間近でじっくりと見るのは、何年ぶりだろう。

 いつもは目が合うだけで身体がすくんでしまうのに、今は不思議と心が落ち着く。

「おばかさんですね」

(わたしのような、『悪魔の娘』にかまっている暇なんてないはずなのに)

 今日だって、きっと息をつく間もないほどに忙しいはずだ。パーシバルを先に王宮へ戻らせたのは、公務の日程を調整するためだろう。

 セレストが忙しい合間を縫って、頻繁にノルマン邸を訪れるのは、呪われた身であるドリスに同情しているのだ。そんな彼の優しさが嬉しくもあり、苦しくもある。

「……セレスト様」

 肌理きめの細かそうな頬に手を伸ばし、指先が触れる寸前で手を引っ込める。

「わたし、舞踏会へ参ります」

 ドリスは眠るセレストへ囁きかけるように、そっと言葉を紡いだ。

「パーシバル様にお祝いの言葉を……伝えそこねてしまいましたから」



 ドリスと侍女が退室した後の寝室には、静寂と甘い花の香りが残された。

 目を開けたセレストは片手で顔を覆い、大きく息を吐いた。

 起きていると知ったら彼女が逃げてしまう気がして、眠ったふりを続けた。吐息とともに近づいてくるはかなげな気配に、身じろぎしそうになるのを必死でこらえた。

「どっちがバカだ……」

 ドリスがパーシバルに好意を抱いていることは、昔から知っていた。彼女本人は気づいていないだろうが、青白くこわばった顔がほのかに色づき、目尻が嬉しそうに下がるのだ。つぶらな藍色の瞳には星が瞬き、晴れた夜の空を映したかのようにきらめく。自分にはけっして見せてくれない可憐な笑顔に、セレストはいつも不可解な息苦しさを覚えていた。

 ほんの子どもじみた嫌がらせのつもりだった。パーシバルが身を固めると知ったら、あの根暗な引きこもり女がどんな表情をするのか見たかった。……気絶したのは想定外だったが。

「あの調子じゃ、当日は魂が抜けるんじゃないか……?」

 そもそもあいつ、踊れるのか?

 そんな心配をするうちに、ドリスの声と匂いが脳裏によみがえった。

『セレスト様』

自分の名前を呼ぶ細く澄んだ声は、胸の内で小粒の宝石を連ねた腕輪のように細かな光を放つ。セレストは毛布を引き寄せ、赤く染まる顔を覆った。

 甘い香りに溶け込むような囁き声はしばらくの間、耳の奥から離れてくれなかった。



 若葉が輝き、ヒースの花が咲きほころぶ四月半ば。

 ノルマン伯爵家令嬢ドリスは、十年ぶりとなる王宮へ足を踏み入れる。

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