第1章 悪魔の娘

 大陸の西端に、クレシアという名の小さな王国がある。

 ここは、その小国の北部にある田舎、ランカスタ村。

 三方を山に囲まれ、一方が海に面しているこの村には、数々の不思議な言い伝えがある。

「北の山には、若い娘の生き血をすする吸血鬼が棲んでいる」

「東の山には、人の魂を食らう悪い魔女が棲んでいる」

「西の海には、美しい歌声で旅人を誘う水の魔女ローレライが棲んでいる」

 昔の人々はそれらの三方を避け、唯一安全な南の山を切り開いて道を敷いた。

 それから数百年の時を経た現在、村人たちは南からやってくる旅人へ、言い伝えと呼ぶには新しすぎる、ある「噂」を吹き込んでは彼らを驚かすのだった。


「丘の上にある領主様のお屋敷には、悪魔の娘が棲んでいる」


 小高い丘の上に、赤煉瓦を組んで造られた屋敷が建っている。

 村と三方の山を治める貴族――ノルマン伯爵の邸宅である。

 ノルマン家は古くから続く魔法使いの家系で、代々の当主は宮廷に仕えるのが習わしとされている。

 伯爵と夫人の間には、十六歳になる一人娘がいる。名前はドリス。

 幼い頃に魔法修行のために王宮へ上がったのだが、ある事件をきっかけに村へ戻り、それ以来、村人たちの前に一度も姿を見せていない。

 ドリス嬢の身を案じる人々の噂話には尾ひれがつき、今では「夜ごとに屋敷の中を徘徊し、悪魔たちと宴に興じている」という根も葉もないでたらめとなって、村の外まで広まっている。

 ところが、その噂を偶然耳にしたドリス嬢本人は、あっさりと受け入れてしまった。

「あながち嘘でもないし……いいんじゃないのかしら?」

 呆れ返る侍女ににっこりと微笑みかけ、彼女はこうも言った。

「悪魔さんたちの宴……、一度でいいからお呼ばれしてみたいわ。楽しそう」



 三月の終わり、水辺の渡り鳥が故郷である北国への帰り支度を始める季節。

 村のそこかしこで鶏の鳴き声が響き、雪の残る牧草地を金色の朝焼けが照らし出す時分。

 小高い丘の上に建つノルマン伯爵邸のとある一室で、一人の少女がひそやかに喜びの声をあげていた。

「傑作だわ……!」

 夜の闇を切り取ったような漆黒の布地を手に、ドリスは寝不足の目をうるませた。

 ワイン色のクロスがかけられたテーブルの上には、夜通し灯されたままの燭台と、黒いビロード張りの裁縫箱。指貫をはめた手の中で、シルクサテンのつややかな布地を彩る銀糸の刺繍が冴えた月のように輝いている。

 黒いカーテンの隙間から射し込む朝日は、目覚めをうながす白でも金色でもなく、赤や紫の色ガラスを通した極彩色。床は白と黒のチェス盤模様、壁紙はバラの透かし模様が入ったチャコールグレイ。壁の上部には黒とワイン色を重ねたベルベットの垂れ幕が掛けられている。

 朝の訪れを拒むかのような闇の中、蝋燭の炎が薄笑いを浮かべるドリスの顔をぼんやりと浮かび上がらせる。一般的に「薄気味悪い」「不気味」と形容される表情を浮かべていることに、本人はまったく気づいていない。しかも、闇に溶け込みそうな漆黒のドレスに身を包んでいるせいで、首から上が宙に浮いているかのような様子であることにも気づいていない。

「まるで、夜空を流れる天の川ミルキーウエイのようね。我ながら素晴らしい出来だわ」

 満足げなため息をつきながら小首をかしげると、左右に結い上げた長い黒髪がさらりと肩からこぼれた。

 部屋の扉が控えめにノックされ、一人の年若い侍女が入室した。扉の前で一礼し、水面を歩く鳥のような足取りでドリスのそばへ歩み寄る。

「おはようございます、ドリスお嬢様。……うわっ、きもちわるっ!」

 栗色の髪をきっちりとまとめ、利発そうな顔立ちをした小柄な侍女は、ドリスがうっとりと眺めている「作品」を目にした途端、顔を歪めて後ずさった。

「おはよう、シェスカ。見て、ドレスの刺繍ができあがったの。素敵でしょう?」

 ドリスはシフォンフリルをたっぷりあしらった真っ黒なドレスを広げ、侍女のシェスカに微笑みかけた。

「一応お聞きしますけど、それは……ええと……」

「蜘蛛よ」

「ぎゃあああっ! 聞かなきゃよかったああああああっ!!」

 シェスカは両耳を塞ぎ、床にうずくまった。

 ドリスが誇らしげに広げる夜色のドレスの裾には、月明かりを紡いだように美しく繊細な銀糸で……掌ほどの大きさをした巨大蜘蛛が描かれ、横一列にずらりと並んでいた。しかも、身体の形や胴体の縞模様、八本の長い脚、吐き出す糸までもが緻密に再現されている。ごく一般的な少女ならば、思わず目をそらしてしまう絵面えづらである。

「仕立屋さんにお願いするつもりだったのだけど、また断られてしまったのよ。それで、自分でリメイクすることにしたの。ふふっ、なかなかのものでしょう?」

「リアルすぎて気持ち悪いですっ! そりゃあ仕立屋さんだって匙を投げますとも。もう少し、こう……牧歌的というか、平和で可愛らしい感じにアレンジできなかったんですか?」

「可愛いと思うけど……。特に、この脚の関節とか」

 ドリスは、のんびりとした口調で言いながら、自ら手がけた蜘蛛の刺繍を指先でなぞる。彼女の美的感覚は「一般的な少女」から、やや……もとい、かなりズレていた。

「お嬢様、前回のドレスはどんな図柄でしたっけ?」

「たしか、蛇だったかしら」

「その前は?」

「骸骨ね」

「……っ、その前は?」

「墓場よ」

 ここ数カ月の作品を思い返し、ドリスは小首をかしげてにこやかに答えた。

「お嬢様。『個性的』と『悪趣味』は、まったくの別物ですからね?」

「?」

「いえ、なんでもありません……。お嬢様は、お嬢様のままでいてください」

 きょとんと目を丸くするドリスに、シェスカはなぜかこめかみを押さえてよろめいた。

(シェスカったら、働きすぎて疲れているのかしら? そうだわ、あとで滋養に効くお薬を煎じてあげましょう。いい大蛇の尾が手に入ったのよね。あと蠍も。きっと元気が出るわ)

「お気遣いなく。わたしは元気です」

 ドリスより二つ年下の侍女は、主の思考を読み取ったかのように端的に言った。

(どうしてわかったのかしら?)

 不思議そうに首をひねるドリスをよそに、シェスカは窓際へ歩み寄り、真っ黒なカーテンを左右に開いた。まぶしいはずの朝の光は、窓にはめ込まれた色ガラスを透過して、赤、紫、藍、緑、橙といった、にぎやかでありながら明度の低い色彩で降り注ぐ。

「ああ、なんて気持ちのいい朝なのかしら」

 ドリスは立ち上がり、胸の前で両手を組んで色ガラスの嵌った窓を見上げた。

 窓に描かれているのは、真紅のバラが咲き乱れる夜の花園にたたずむ金髪の青年。漆黒の装束に身を包み、鴉や蝙蝠、蛇を従えている。

「見て。吸血伯爵様も、美しい朝の訪れをお喜びになっているわ」

「無表情ですけど。ていうか、吸血鬼って太陽の光に弱いんじゃ?」

 金の窓枠に縁取られたガラス絵から降り注ぐ極彩色の光の下、シェスカは淡々と言うが、ドリスの耳には入っていない。まぶしそうに目を細め、ゆるんだ口元からは「ふふ……っ」というかすかな笑い声が漏れている。

「お嬢様、顔が怖いです」

 ランカスタ村に伝わる民話の一つに、『吸血伯爵と黒鳥姫こくちょうひめ』という物語がある。

 北の山奥の古城に住む見目麗しい吸血鬼の青年と、月夜の晩だけ美しい娘の姿に変わる黒鳥が恋に落ちるが、互いを想う心が己の身を滅ぼしてしまう……という筋書きである。

 青年――吸血伯爵は想いを受け入れてほしい一心で人の血を吸うことをやめるが、日ごとに弱ってしまう。一方の黒鳥姫はその身に受けた呪いのせいで、想いを告げた途端に光となって消えてしまうため、彼の愛に応えることができない。

 二人の心が交わるのは、互いに相手を失った時。

「美しい殿方が苦しみ悶える姿って、想像するだけでぞくぞくしちゃう……」

 ドリスの心をゆさぶるのは、悲しくも美しい愛のかたちではなく、血を断(た)って衰弱した末に、愛する人を失って泣き崩れながら力尽きる吸血伯爵の破滅的な生き様だった。

(わたしもいつか黒鳥姫のように、哀愁ただよう美しい殿方を翻弄してみたい……なんて)

 危険な妄想に藍色の目を輝かせるドリスの視界に、鮮烈な白い光が飛び込んできた。

 シェスカが窓を開け放ったのだ。それまで青い闇に溶けていた、壁面を覆う書棚や個性的なデザインの調度品、一風変わった置物――動物の骨や爬虫類の標本などが本来の色を取り戻す。

「んーっ、いい風。たまには空気を入れ換えないとお部屋が湿っぽくなっちゃいますよ。……あれ? お嬢様?」

「ま、まぶしい……溶けちゃう……」

 ドリスは窓から最も離れた光の届かない場所で膝を抱え、青い顔でガタガタと震えていた。

「お願い、シェスカ、窓を閉めて……」

 ドリスは暗く静かな場所を好む。湿度が高く、狭ければなおのこと良い。反対に、明るい場所やきらびやかなもの、派手な衣服や装飾品は、目がちかちかするので苦手だった。

「あのう……追い討ちをかけるようで心苦しいんですが、今日は大切なお客様がいらっしゃいますので……」

「えっ!?」

 ドリスの顔から血の気が引いた。

「旦那様と奥様から、お嬢様にきちんとした格好をさせるよう……おおせつかっています」

 きちんとした格好、というのは、今着ている喪服のような黒いドレスではなく、年頃の娘らしい明るく華やかな装いを指す。

「むっ、無理よ……! お母様が仕立ててくださるドレスはどれも、目がちかちかするんだもの。仮縫いの時なんて、生地をあてがうだけで胸がざわざわして、動悸息切れ目眩が……」

「目が慣れれば大丈夫ですよ」

 シェスカは笑顔であっさりと言った。

「で、でも……わたしは、できそこないの魔女よ。わたしなんかが人前に出たら、お父様やお母様に恥ずかしい思いをさせてしまうわ」

 クレシア王国において、騎士と並んで国と王族を護る役目を担っているのが魔法使いである。

 ノルマン伯爵家は古くから続く魔法使いの家系で、当主である父は宮廷魔法使いとして王宮へ出仕している。一人娘のドリスもまた、生まれながらに強い魔力を秘めており、一時いっときは王宮で魔法を学んでいた。

 そんなある日、ドリスは王宮に突然現れたある魔女からおかしな呪いをかけられた。

 魔力凍結、と呼ばれるその呪いは、幼いドリスを二つの制約でもって縛りつけた。

 一つ、自らの意思で魔法を使うことができない。

 一つ、感情がたかぶると持てる魔力のすべてが一度に放出される。

 体内で封じられた魔力は行き場を失い、解放される時はまるで熱したガラス瓶が破裂するかのように、周囲に甚大な被害をおよぼすのだ。

 ドリスは、わずか六歳で魔法使いとしての将来を断たれたうえに、いつ爆発するとも知れない「歩く爆弾」と化してしまった。たまたま通りかかった魔女の気まぐれによって。

 その後、父や他の宮廷魔法使いたちが方々へ手を尽くし、ドリスにかけられた呪いの解除を試みた。しかし、呪いのしくみはおろか、ほころびすら見つけることができなかった。

 以来、ドリスは母ともに王宮を離れ、ランカスタ村の生家で暮らしている。

 魔力を暴走させないよう、心穏やかに。

 人目に触れないよう、静かにひっそりと。

 王宮を離れてからはなるべく他人と関わらないよう、屋敷の中へ引きこもり、滅多に外へ出なくなった。そのせいか、村人たちは口々に「ノルマン伯爵のお嬢様は悪い魔女に魂を食われた」と噂しはじめた。噂はさらに誇張され、今では「悪魔の娘」という、めでたくない渾名までつけられている。ドリス本人は、その渾名を気に入っているのだが。

「わたしは何を言われても気にしないけれど、お客様に怖い思いをさせるのは忍びないわ。というわけで、わたしは本日、欠席ということで……」

「その点についてはご心配なく。今日いらっしゃる方は、お嬢様にご用がおありですから」

「あら……、どなたかしら?」

 ドリスを訪ねてくる客人といったら、異国の珍品貴重品を提供してくれる行商人くらいしか思いつかない。三十代半ばの男性商人は、魔法薬の研究に役立つめずらしい動植物や、異国の魔法具を取り扱っているだけあって、ドリスと気が合うのだ。

 けれど、やってくるのが彼だとしたら、正装で出迎える必要はないはずだ。黒ずくめの普段着で買い物をしても、誰からも咎められた記憶がない。

 内心で首をかしげていると、ドリスにとって死刑宣告にも等しい言葉が突きつけられた。

「王太子殿下です」

「!?」

 次の瞬間、ドリスは壁に立てかけてある黒い棺の中へ転がるように飛び込んだ。しっかりと蓋を閉じ、まるで今にも天から剣の雨が降ってくるかのような怯えた声で告げる。

「シェスカ。わたしは今日、命の次に……いいえ、命よりも大事な黒ミサに行かなくてはならないの。そうね……三日は留守にすると思うわ。だから……」

「ノルマン家に奉公して三年になりますけど、わたしは一度たりともお嬢様が外出なさるのを見たことがありません。いつも、屋敷ここの地下室を改装した祭壇で『一人黒ミサ』をなさっていますよねえ?」

「うく……っ。じゃ、じゃあ殿下には、ドリスは仮死状態になりましたとか何とか、適当にお伝えしておいてちょうだい」

「適当って……お嬢様っ!」

 棺の外で「バカも休み休み言ってください、このバカ!」と地団駄を踏みながら叫ぶシェスカの甲高い声を無視して、ドリスはぎゅっと目をつむった。

(ごめんね、シェスカ。小言ならあとでいくらでも聞くから、今日だけは見逃して……!)

 ドリスの祈りが届いたのか、急にシェスカの声がやんだ。外の様子は見えないが、周囲の空気はしんと静まり返っている。

 ふと、耳の奥で泡の弾けるような音が響いた。近くで誰かが魔法を使ったのだ。魔力を封じられた状態とはいえ、魔女のはしくれ。魔法の気配を察知することくらいはできる。

(お父様が王宮から戻られたのかしら?)

 棺の蓋に顔を寄せて耳を澄ませるが、誰かがやってくる様子はない。しかし、シェスカの気配まで感じられないのは妙だ。

「シェスカ、どうかしたの……?」

 ドリスが目を開け、棺の蓋をおそるおそる押し開けた時だった。

「誰が仮死状態だって?」

「ひっ……!」

 一瞬、呼吸が止まった。

 咄嗟に棺の蓋を閉めようとするも、強い力に押さえつけられてびくともしない。

 目の前にいたのは小柄な侍女ではなく、ドリスより頭一つ分ほど上背のある少年だった。

「相変わらず景気の悪い面構えだな、ドリス」

 襟足まである蜂蜜色の髪は目に痛いほどまぶしく、長い睫毛に縁取られた大きな空色の瞳は不機嫌そうに眇められている。少女のような可憐さと、獣のような獰猛さをあわせ持つ少年は、見る者を射抜くような鋭い眼差しでドリスの顔を覗き込んでいた。 

「で……でん……っ」

「お前も偉くなったものだな。この俺を無視か」

 蛇に睨まれた蛙のごとく硬直するドリスをいたぶるように、相手の視線が容赦なく突き刺さる。額から汗が噴き出したかと思うと、今度は身体が氷のように冷えていった。

「ほら、出てこい」

 手袋に包まれた大きな手がぬっと伸ばされ、ドリスの腕をつかんだ。

「ひぃやあああああああああああああっ!!」

 頭に血が昇ったドリスは渾身の力で金髪の少年を突き飛ばし、転がるように棺の中から逃げだした。

「はひゃっ!」

 そして何もないところでつまずき、顔面から派手に転んだ。

「うぐぅ……」

「きゃあっ、お嬢様っ!」

 どこか遠くでシェスカが叫んでいるような気がする。だが、今はそれどころではない。

(逃げなくちゃ……)

 したたかに打ちつけた額と鼻っ柱の痛みをこらえ、ずるずると床を這うドリスの前に、すっと手が差し出された。

「大丈夫?」

「は……」

 頭上から降ってきたテノールに、ドリスは重い頭をもたげた。

 ふわり、と爽やかな風が乱れた黒髪を撫でる。

 雪解けの大地が運んでくる早春の匂いと調和する、日だまりのような笑顔がそこにあった。

 肌を刺すように照りつける強い日差しとは違う、不思議な心地良さが胸の奥をくすぐる。

「パーシバル様……」

「こんにちは、ドリス」

 薄茶色の髪と琥珀色の瞳が美しい長身の青年は、床に片膝をついてにっこりと微笑んだ。色素の薄いやわらかな髪が陽光を弾くので、まるで光のベールをまとっているかのように見える。

「立てるかい?」

「は、はひ……」

 間抜けな返事をしながら、ドリスは白い手袋に包まれた手をおずおずと取り、ぎこちない動作で立ち上がった。

「ご、ごきげんよう、パーシバル様……」

 顔を伏せ、裾の乱れた黒いドレスをつまんで、これまたぎこちない動作でお辞儀をした。

「こっ、このような格好で……失礼いたしました。あのっ、パーシバル様がお見えになるとは露知らず……それも、こんなにお早い時間に」

 ドリスは、お辞儀の姿勢のまま固まっていた。青かった顔が瞬く間に赤くなり、頭の奥がぐるぐると回りだす。

(どうしよう。シェスカの言うとおり、きちんと着替えておけばよかった……)

 今になって猛省しても、後の祭りである。

「本当は午後の予定だったんだけど、ノルマン伯が朝早くご自宅に戻られると聞いたから、僕らも便乗させてもらったんだ。ごめんね、驚かせて」

 先ほど感じた魔力の気配はやはり、父のものだったらしい。

 本来、王都から北部のランカスタ村までは馬車で五日ほどかかるのだが、熟練の魔法使いは一瞬で移動することができる。空間転移と呼ばれる魔法は、紙を折るように空間をねじ曲げ、密接した頂点と頂点を結ぶ……と、昔読んだ魔法書に記されていた。

「よく似合っているよ」

「え?」

 ドリスは弾かれるように顔を上げた。まぶしいとか溶けるとか、後ろ向きな考えは吹き飛び、青年――パーシバルの端正な笑顔に見惚れてしまう。紅茶の中でほどける角砂糖のような甘さが、胸の奥に広がっていく。

「そのドレス、可愛いね。夜空を翔ける銀色の天馬ペガサス……かな? ドリスにぴったりだ」

 今着ている夜色のドレスを彩る刺繍の図柄は、「一つ目蝙蝠と大蛇の仁義なき戦い」なのだけれど。

どんな角度から見たら天馬に見えるのか謎だが、自信作を褒めてもらえると嬉しい。

両親からも召使いたちからもなぜか不評な作品を、唯一褒めてくれるのがパーシバルだった。布地に針を刺す時はいつも、彼の笑顔を思い浮かべていた。

(がんばってよかった……嬉しい)

「あ、あの……大丈夫ですか? 王太子殿下」

 背後から聞こえたシェスカの声で、ドリスははっと我に返った。カタカタカタ……と錆びたゼンマイのようなぎくしゃくした動きで振り返る。

 膝の汚れを払いながら緩慢な動作で立ち上がる、あどけない顔立ちをした金髪の少年。その足元には、象牙色のしゃれこうべ、ずんぐりとした木彫りの人形、三日月形をした異国の刀剣などが散乱している。どれも、ドリスの大切なコレクションだ。

 朝焼けを溶かしたような濃い蜂蜜色の髪を無造作にかきあげる少年の青い眼光に、ドリスは無意識に「ひっ!」と声をあげた。

「セレスト、何やってるの?」

「どこかのバカに吹っ飛ばされた」

 のほほんとしたパーシバルの問いに、金髪の少年――クレシア王太子、セレスト・メルヴィン・ベイリオルは、ぶっきらぼうに答えた。

「ご、ごきげんようございます……王太子殿下」

 ドリスは、針のように鋭く氷河のように冷たい視線を全身に受け、緊張のあまりとんちんかんな挨拶を述べながらも、なけなしの勇気を振り絞って一歩前へ進み出た。

 そして、再びコケた。

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