第120話 望ムベキ理性ト本能

 朦朧とする意識の中、暖かい光に包まれていた氷兎はなんとかして目を開けようとする。飛び込んでくる光が眩しく、しかし数秒もすれば目が慣れてきた。ベッドから体を起こして周りを見回す。白いカーテンで区切られたこの場所は医務室だった。とりあえず外に出ようと思ったところで、右手が動かないことに気づく。見れば、菜沙が腕を掴んだままベッドの端に頭を乗せて眠っているようだ。どうやら現実に帰ってこれたらしい。先程までの身が凍りつくような恐怖感は拭いされないが、それでも帰ってこれた。その事実は心に安寧をもたらし、深いため息をつく。


「……菜沙」


「ん……ひー、くん?」


 名前を呼ぶと、菜沙は眠たそうな目のまま起き上がった。そして氷兎を見るなり、またひーくんと名前を呼んで抱きついてくる。首に手を回して、離さないとばかりにキツく締め付けてられた。首筋に菜沙の涙が垂れていく。氷兎は彼女を優しく抱き返しながら、その温もりに身を委ねた。


「氷兎ッ、起きたのか!?」


 カーテンが勢いよく開かれ、そこからは見知った顔が現れる。翔平に西条、桜華と藪雨に玲彩まで。無事に起きた氷兎の姿を見て、翔平は感極まって涙を浮かべ始める。


「良かった……お前、そのまま起きないんじゃないかって……」


「……何があったんですか」


「簡潔にいえば、神話生物騒動だ。話すには少々内容が濃いがな」


 西条が手短に何が起きたのかを説明していく。玲彩は今回何も力を貸すことはできなかったが、流石に知り合いがこんな状況になっていては様子を見にこざるを得ない。聞けば聞くほど、とんでもない状況だったということに皆苦々しく顔を歪めていた。


「氷兎君は、大丈夫? どこか痛かったりしない?」


「痛くは……ないけど」


「せんぱいったら、心配かけ過ぎですよ! 身の回りのお世話とか大変だったんですからね!」


「お前は飯たかりに来ただけだろう」


「掃除と洗濯したのは私ですーっ!」


 西条と藪雨がいつものように軽い口喧嘩を始める。そんな光景を見て、やっと帰ってこれたのだと実感できた。未だに離れようとしない菜沙の頭を撫でながら、西条に聞かされた情報を頭の中で整理していく。ニャルラトテップ。自分の中にその化身と呼ばれるモノがいること。それは人の負の心を基に産まれてきた存在であること。その行動原理、理屈の通じなさ、嫌でもわかってしまう。あの夢のような場所で相対した、あの煙の塊のような……いや、それよりも前。海中で目にした多数の触手を持つアレこそが、化身なのだと。


「君は、助けられてから随分と眠っていたよ。時々うなされたり、涙を流したり……何があったんだい?」


 玲彩の言葉に、氷兎はなんて返すべきか迷う。正直に全て話してしまうべきなのだろうか。けれども……怖い。それを話してしまえば、自分が純粋な人間ではないかもしれないと思われてしまう。排他すべき、神話生物と同じようなものだと。でも……心の中にしまっておけるようなものじゃない。不安と恐怖。それらが氷兎の心を確かに侵し、ジワジワと火で炙るように壊していく。


 呼吸が少しずつ浅くなっていく。話してしまえば、楽になれるのか。後戻りできなくなるだけじゃないのか。そんな悩みのせいで、言葉が出ない。なかなか話し出さない氷兎を、皆怪訝に見始めた。何があったのか知りたい。皆そう思っていた。


「……嫌な、モノを見ていました」


 氷兎の精神は歪んでいる。表立って見えないだけで、しかし確実に。周りの空気、状況、それらを汲み取ってしまう彼は、心の中にある不安を止まることなく零していく。あの惨劇を。あの残虐性を。あの痛みを。それらを話し終え、やがて自分自身についても話し始めた。最後に問われたこと。己は何者なのか。人か、神話生物か。そのどちらでもない、半端者なのか。


「ひーくんは、ひーくんでしょ」


 すぐ耳元で、菜沙の声が響く。彼女は身体を少し離すと、氷兎と向かい合わせになり、目を合わせる。揺らぎない彼女の瞳から、思わず氷兎は逸らしてしまいたくなった。けれども彼女はそれを許さない。


「ひーくんが変わってしまっても、私にとってのひーくんは変わらないよ」


「……菜沙」


 あぁ、違う。違う。そうではないのだ。彼女の言葉に嬉しく思いながらも、叫んでしまいたくなる衝動を抑える。この恐怖や不安は、そんな生易しいものではない。拭いされるものではない。自分が自分でなくなる恐怖など、当事者以外にどう理解できるというのだ。周りに当たり散らしはしないが、氷兎の顔は苦痛に歪む。


 あの時の、恐怖。虐められる中、菜沙に手をさし伸ばしても、彼女はその場から立ち去った。仮にそれが、彼女の心だったとしたら、その言葉は……。


 両手を握りしめ、歯を食いしばる。それでも、氷兎の身体は震え始めてしまった。彼の理性も、本能も、それを拒絶しようとしている。


「……ごめん。ちょっと先輩と西条さんに話したいことがあるんだ。加藤さん、申し訳ないですけど……菜沙を、頼みます」


「ひーくん……?」


「……わかったよ。ほら、私たちがいたんじゃ話しづらい内容なんだろう。皆外に出るぞ」


 玲彩が菜沙の手を引いて医務室の外へと向かっていく。それについて行くように、桜華と藪雨も外へ向かう。菜沙の非難するような目が、氷兎の心を強く痛めつけていった。けれども、彼女に話せる内容じゃない。


 残された二人は仕切るカーテンをしめると、近くにあった椅子に座って話を聞く体勢に入った。ニャルラトテップという存在が、どれほど恐ろしいものであるのか。彼らは知っている。そしてその化身の危険性も、話した内容だけでおおよそ理解はしていた。


「……アイツは、殺せません。多分、どう足掻いたとしても無理です。誰でもない故に、誰でもある。ナイのにアル。そんな矛盾だらけの化け物です。見た能力は、至って単純な……自業自得という名にふさわしいもの。傷を与えたら、その分返ってくる。そして奴自身はその他大勢の人類でもある。だから……死なない。個人でありながら全人類でもあるアレを、人間は殺すことができない」


「聞けば聞くほど、厄介な相手だ」


「そんなのが氷兎の中にいるってのが……なんとか、ならねぇもんなのかな」


 両腕で身体を抱きしめるようにして震えを抑える。翔平も西条も彼の身に起きていることを憂いているが、氷兎はなんで俺が、とは思っていない。いや、そんなことを考えられる余裕がない。思考の大半は恐怖で埋め尽くされる。それは、己の境遇を嘆くのではなく……ただ、あのバケモノが恐ろしくて仕方がない。誰も勝てない。誰も殺せない。


「……先輩、俺のお願いを……聞いてくれませんか」


 声が震える。身体の震えは既に歯止めが利かない。怖い。怖くて、怖くて、仕方がない。自分の存在が他者を害する。自分の身勝手で、取り返しのつかないことになる。周りの望む、正解を。それを、選ばなくてはならない。


「どうか、俺を……殺してください」


 それが、世界中の誰もが望む正解のはずだから。口にしてしまえば、涙が溢れて零れていく。みっともなく、服の袖で拭い去りながら、殺して欲しいと懇願する。


 頼まれた翔平は、頷けるわけがなかった。立ち上がり、氷兎の近くに寄って考え直せと伝える。


「お前……なに馬鹿なこと言ってんだよ! できるわけねぇし、死なせるわけねぇだろ!」


「馬鹿なことを言ってるのはあなただ!! あなたは、何も知らないでしょう!! あの恐ろしさを、産まれでてしまえば誰にも止めることはできない、あのバケモノを!! これが、正しいんですよ!! アレは絶対にッ……この世に、出てきちゃいけないんですよッ!!」


 堪えることのできない氷兎は、泣き叫び、怒鳴り散らす。これが正しい。こうしなきゃいけない。怖いから。自分の心が負けてしまえば、全人類にとっての天敵が産まれてしまうから。そんなものを抱えて生きるなんて……無理だから。だから殺して欲しいと懇願する。今のうちに、産まれてこないうちに、己ごと消し去ってくれと。


「……生誕を祝福されぬバケモノか。確かに、正しいのだろうな。全を助けるために一を犠牲にする。関係のない者からすれば、さっさとそうしろと言わんばかりだろう」


 椅子に座ったまま、成り行きを見ていた西条が話し始める。眼鏡の向こう側から睨みつける眼光は鋭く、その言葉は氷兎の言動を否定しない。まさか、殺すつもりなのか。翔平は西条に詰め寄ろうとするが、彼は言葉を続けることによって制した。


「だが、それは正しいだけだ。お前の意思はどうなんだ、唯野」


「そんなもの、さっきから何度も……!!」


「それは本当に、お前の意思なのか?」


 西条も立ち上がって、ベッドのすぐ側まで近寄ってくる。彼は唯野 氷兎という人物の歪みについて気づいていた。周りに対して己を変化させる、己を騙し通す才能。基本的に彼は周りの状況を把握し、その状況下における正しさというものを模索し、周りの人物含めた全てを掌握して結果に導こうとする。だからこそ、西条は尋ねるのだ。それは氷兎の本心ではなく、正解という答えを述べているだけではないのか、と。


「周りに合わせるばかりで、本来の己を見失う。誰でもないが故に、誰でもあるニャルラトテップからすれば、格好の獲物だろうな。その精神性が似通っているのだ。周囲の望む答えを、正解を選ぶ。その人物にとって、正しいと思われる言葉をなげかける。ならば、今のお前が考えているのは全人類にとっての正解か。なんともまぁ、馬鹿馬鹿しい」


 それが正しいはずだから。そうするべきだから。その悉くを、西条は否定する。


「己を騙すな。正解の道に逃げようとするな。苦しみから目を背けるな。自分と向き合えない輩が……全人類と向き合おうなんぞ、馬鹿げた話だと思わんのかッ!!」


 一喝。覇気すらも感じられる彼の言葉に、氷兎は身を凍らせる。震えが止まり、溢れていた涙もまた止まる。それでも……怖いから。これは、本能だ。本能もまた恐怖しているのだ。まして理性なんてものは、死ぬべきだと断言している。それが正しく、それ以外は間違っている。彼はいつだって、本能ではなく理性を選ぶ。だからこそ、また彼は口を開き、俯いて弱音を吐くのだ。


「俺、は……死ぬ、べきで……」


「愚か者がッ!! 何度言わせれば気が済むのだ貴様は!!」


 西条の手が氷兎の前髪を掴んで無理やり顔を上げさせる。揺れる瞳。恐怖で青白くなった貌。震えている身体。それはとても過酷な道だ。常人が耐えられるものではないのかもしれない。それでも、彼は問いかける。


「貴様のッ、意思はッ、どうなんだッ!!」


 髪を掴む手のせいで、氷兎は顔を逸らせない。西条の真っ直ぐな瞳に射抜かれ、心の中で言葉を反芻させる。己の意思。自分自身の意思。本能も理性も、同じく恐怖に怯えている。


「俺、は……俺は……っ」


 理性は拒む。その生誕を。その存在に怯え、消し去るべきだと願っている。そのために、この身を犠牲にしようと。


 本能は拒む。理性と同じく、恐怖し、怯えている。ただ、そこに差異があるとするならば……。


「……いです……」


 バケモノを見て、人間は怯える。理性はバケモノの危険性を考え、その存在に怯える。だが本能は。もっと単純で、動物としての根本にあるその機構が怯えるのは……。


「死にたくっ、ないです……」


 訪れる、死への恐怖。生きる以上避けられないもの。誰しもが抱え持つ、簡単な答え。死にたくない。ただ、それだけ。


「……それでいい」


 静かに、そう答えた。彼の髪の毛から手を離して、先程よりも量を増して流れ落ちる涙を見ながら、彼にしては珍しくそっと微笑んだ。


「どうしようもなくなったら、その時は俺が殺してやる。だから、それまで……足掻け。醜く、生にしがみつけ。お前が、自分が人間であると主張できるようにな」


 それは西条に課された使命でもある。果たしたくはないが、その場面になったらしなくてはならない。氷兎のためにも。


 西条の言葉に、とうとう声すら堪えきれなくなる。あぁ……あぁっ……と泣き声を上げる。そんな彼に寄り添って、翔平は手を握る。それくらいしかできないから。


「……抱えきれなくなるまで、一人で背負い込むなよ。俺が一緒に、背負ってやるから。頼りないかもしれないけどさ」


「お前が背負ったところで、重荷に潰れるのが関の山だろうに」


 西条が翔平を鼻で笑う。そしてカーテンを開いていけば、医務室の扉からそっと覗き込んでくる心配そうな面々が見えた。それらを見せるようにしながら、彼は言った。


「一人や二人では無理でも、ここには少なくとも五人はいる。お前の結んできた縁だ。人間らしくありたいと願うのなら、頼れ。一人で全てをこなすのは無理なのだ。人という字のように、結んだ縁が切れないよう……生き続けろ」


 西条の言葉に、いつかイグに言われた言葉を思い出す。


『どうか、人の心を捨てぬように。汝の力は周りに影響を及ぼす。人との関わりを絶つな。そして……例え絶望に苛まれようとも、諦めずどうするべきなのかを考えるのだ』


 その言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。氷兎は溢れ出る涙を強引に拭いながら、不器用に笑おうとする。まだ大丈夫。まだ、平気。握られた手を強く握り返しながら、ありがとう、とお礼を返す。結ばれた手も、西条によって荒々しく頭を撫でられたその手も、確かに暖かかった。





To be continued……

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