第121話 影と過去
深い水の底に落ちていくような、そんな嫌な圧迫感と浮遊感を感じながら、夢から飛び起きることが最近増えた気がする。季節はもう涼しくなってきているのに、寝汗も酷く、動悸まで早くなっていた。
起きてすぐに洗面台に向かって、鏡に映る自分の姿を見る。暗い瞳、目元の隈、覇気のない顔。嫌になってすぐに目を閉じる。すると瞼の裏に……細く赤い輪郭で
「っ……!!」
咄嗟に目を開けて、驚愕と怯えに染まった鏡の中の自分を見る。大丈夫、瞼の血管が何か別のものに見えただけだ。そう思いつつ、口の中を水でゆすぐ。そして顔も水で洗い流し……びしょ濡れのまま、また鏡を見あげる。
(……影、が)
鏡の中にいる自分の身体に、黒く細い手の影のようなものがまとわりついている。慌てて自分の身体を見てみれば、自分の体から伸びる影が不自然に動いて身体をよじ登ってきていた。
(なんだよ、これ……)
声を上げて先輩を呼ぼうとしても、声が出ない。伸びていく影はやがて首元にまで達して、締め付けるように両手で巻き付く。
息が苦しい。漏れ出る声が耳に響き、自然と目が閉じていきそうになる。そして目に入った鏡の中の自分は……真っ黒な人影に変わり果て、口だけが真紅の血のように鮮明な三日月を描いていた。
「っ、げほっ、げほっ……」
急に苦しくなくなって、息ができるようになった。何度も何度も呼吸を繰り返しながら、壁に背中をつけつつ鏡から離れていく。こんな場所に留まりたくない。脱衣場の扉を開けようとしたところで、身体の違和感に気づく。
首を絞めていたのは、影でもなんでもなく……自分の手だった。
「………」
足元に視線を落とす。足から伸びていく影は、ハッキリと自分の輪郭を描いていながらも……時折愉快そうに揺れ動くのだった。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
ノーデンスという神話生物に連れ去られてから、いや……自分の中にいるあのバケモノを認識してから、周りに見えるものが何もかも恐ろしいモノに見えてしまう。鏡に映る姿は、以前夢の中で見たあの不定形の触手のような姿に見えたり。起きた時には自分の影が目の前にあって、その口元が
あまりにも憔悴仕切っていた時は、部屋に置いてあった鏡を叩き割ってしまったし……精神的なものなのか、それともあのバケモノによる弊害なのか。
鏡の置かれていない部屋で、いつものように珈琲を啜るのがどれだけ幸せなことか。部屋の中にいるのは先輩だけ。それでも、近くに先輩がいてくれるのだから、これ以上怖がることはないだろう。少なくとも、今は。
「……先輩、少し聞きたいんですけど」
「ん、どうした?」
マグカップを時折かたむけながら、先輩はスマホゲームに勤しんでいる。それでも話しかければ、目だけを向けてくれた。いつもと変わりないその姿に、つい安心を覚えてしまう。
「……自分の影が鬱陶しいって、思ったことないですか」
「影って……言われてもなぁ」
「いつもいつも付き纏って、離れない。どう足掻いても逃げることはできない。暗闇にいると……膨れ上がるのが、なんとなく嫌だって思うんです」
「影……影かぁ……」
先輩はまた珈琲を啜り、俺も同じように珈琲を飲む。しばらくしてから考えが纏まったのか、先輩は天井のLEDライトによって作り出される自分の影を動かしながら話を続けてきた。
「確かに、離れてくれないよな。生まれた時から、形を持ってしまった時からコイツはずっとついてくる。離れることなんてない。でも俺は……鬱陶しいとも、嫌だとも思ったことはないよ」
「……そう、ですか」
「あぁ。影はずっと足の裏にくっついてる。時に手に、時に身体に。寝そべったら自分の全身にくっつく。それってよく考えたらさ……自分を支えてくれてるって思えないか?」
「支え、ですか?」
正直そんなふうには思えない。目を離せば首を絞めてくるような影だ。逃げられるのなら逃げたいと思う。
今だって、椅子に座る自分から伸びていく影は……俺の目には、辛うじて人の姿を保っているようにしか見えない。
「生まれた時からずーっと一緒にいる存在なわけじゃん。歩く時だって、ジャンプして着地する時だって、コイツは俺の足を支えてくれてる。つまり……自分という存在の過去だって言えるものじゃないか?」
「コイツが過去、ですか。とてもそうは思えませんけど」
「誰も見てないことでも、影はずっと見てくれてる。過去の出来事も、過去の罪も。だから今こうして、俺はここに立っていられるんじゃないかって思えるよ。影を見る度、自分の罪を思い出せ……ってね」
苦々しく笑う先輩の言葉は、どうしても腑に落ちない。怖いものは怖いのだから。どこに行くにも付き纏って、生まれた時からの自分を知っているのだとしたら……この影が、いつか自分に取って代わることだってあるじゃないか。そんなの、恐怖でしかない。
「……氷兎には何に見えてるのかはわからないけど、俺からすればコイツは生まれた時からいる、無口なもうひとりの自分だ。恥ずかしいことでもなんでも、コイツは知ってるんだよ」
どこか恥ずかしそうにしながら、珈琲を飲んで苦々しく顔を歪める。物思いにふけるように、先輩はどこを見つめるでもなく部屋の遠くの壁の方を見ながら話し始めた。
「俺は昔、女の子を叩いたことがある」
「……先輩が?」
「あぁ。つっても、そんなに酷くじゃない。いや、あの時は大人に、女の子は受ける痛さが違うだのどうのと言われたが……それでも、俺が叩いたことには変わりない。お互いまだ中学生で、初めてできた恋人同士。何もかもが未知で、楽しくて、そして……若かった。我慢とか、嫉妬とか、そういったもんをやり過ごすことが上手くできなかったんだ」
その光景は、今の先輩からは考えられない。彼女がいたということに驚きはしないけれど。なにしろ、顔はそれなりにいいのだから。
とはいえ、お互い中学生で初めての恋人。我慢できないというのも、何となく分かるかもしれない。高校生くらい、それよりも後になって、物事をちゃんと考えられるようになる。後のことを考えられるようになってようやく、ちゃんとした付き合いというのができるのかもしれない。
「……手を上げるような奴には見えないって?」
「えぇ、まぁ……」
「そう見えてんのなら、きっと良いんだろうな。俺はちゃんと、少しは成長できてるんだろ」
身体をぐっと伸ばして、椅子を後ろ向きに若干傾けていく。バランスを保ちながら後頭部で手を組んで、天井を見上げながらどこか懐かしそうに顔を緩めた。
「俺たちは結局、現実っていう舞台の上で、自分らしさを演じる役者に過ぎない。そんな言葉を、どっかで聞いたんだ」
「役者ですか」
「そう。優しい人間の方が演じやすい。傲慢な人間の方が生きやすい。そうやって演じてるんだよ。演じやすい自分を、な。だから俺は……せめて人には優しくあろうと、その時に決めたんだ。優しい自分を、俺は演じ続けていた。その結果が、今お前の前にいる俺だよ」
「自分を演じる……なんとなく、わかるような気もします」
人を騙すのも、自分を騙すのも、演技に近いものだ。役になりきるのは生きるのに必須な技能なのかもしれない。
生きやすい自分を演じる。それこそが自分らしさだと、先輩は言う。元の先輩がどんな性格をしていたのかはわからない。けれど、きっと大差ないように思える。
「……周りの人にも、親にも、随分と迷惑をかけちまった。その時の恥だとか、苦い想いだとか、今でも鮮明に思い出せる。例え記憶の片隅に置いてきちまっても、俺は影を見る度に思い出す。泣いて悔やむ自分を、ずっと見つめ続けてくれたんだからな」
「影は自分の過去を知っていて、いつも支えてくれる土台。先輩がそう捉えられるのは、やっぱり良い人生を歩んできたからじゃないですかね」
「歩んでるよ、今もな。100パーセント良いかって言われたら首傾げるけど」
にひひっと笑ってから、照れを隠すように珈琲をすする。そんな先輩の笑う姿を見て、羨ましいと思えてしまう。この人は、普通の人だ。俺や西条さんなんかとは違って、普通に生きて、普通に生活して、普通の人間が背負うような苦楽を経験してきた人だ。
それが羨ましい。そしてここまで優しくなれるように生きてこられた、この人の努力を……きっと評価できる人は少ないんだろうけれど。
「二度と同じ過ちは繰り返さない。そんな戒めも、この影は覚えていてくれる。だから俺は怖くないよ。影は土台で、恐れるべきものじゃない」
「……それでも、まだ、俺は……」
いつかこの影は、自分という形をなくしてしまう。そう思えて仕方がない。そうなった時に俺の過去は消えてしまうのか。土台の役目はなくなり、影は俺を蝕み、やがて成り代わってしまうのか。
足の先から伸びていく影は、未だに揺れ動いているように見える。
「怖いならさ、俺の影を踏めよ」
「えっ……?」
突然言われたその言葉に、意味を理解できず聞き返した。先輩は格好つけてるつもりなのか、ニヒルに笑いながら足でトントンッと地面を踏みつける。
「お前一人支えるくらい、俺の土台はしっかりしてるつもりだぜ? だからさ……いつだって近くにいろよ」
「……先輩の発言がホモホモしい」
「真面目に話してんのに、お前って奴は……」
「冗談ですよ……ありがとうございます、先輩」
おうっ、と先輩は言い返してくる。お互い笑いながら、自分の過去の話をすることにした。先輩の中学時代は、今とあまり変わっていない。やっぱり生まれつき、この人はきっと優しい人だったんだろう。
(……影は恐れるものじゃなく、自分を支えてくれるもの。自分の過去。生き続ける限り、逃れることはできない。この影は紛れもなく……俺自身であり、俺の中にいるアイツでもある、のかな)
もう一度、自分の影を見下ろす。明かりは天井にあるものだけしかないのに、揺れ動くように見えるのは不気味でしかない。
そんな影を、踏みつける。ジリジリと擦るように、自分の足に擦り付ける。
(向き合わなきゃいけない。それが例え怖くても……もう、過去のことなんだ。あったことからは逃げられない。お前は恐ろしいけど……でも、そう簡単にこの身体を明け渡す気はない)
ニヤリと
座っていた先輩が身を乗り出して、俺のしでかした狂行に目を見開く。
「お、おい氷兎、なにしてんだ……?」
「いや……喉乾いてるんじゃないかと思いましてね」
「誰が?」
「もうひとりの自分ですよ」
珈琲で濡れた床を拭くために、雑巾を取るべく椅子から立ち上がる。まるで地面に縫い付けられたように、もう影はひとりでに揺れ動くことはなかった。
To be continued……
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