第92話 見つめる先



「あぁー、疲れたぁ……」


 ボフンッと音を立てて君はベッドに倒れ込んだ。だらしなく力を抜ききって、短いスカートのまま足をバタバタと意味もなく動かしている。スカートが少しずつめくれていき、君の傷一つない綺麗な足の面積が増えていく。このままこうして立ったまま君を見下ろしていたら……見えてしまいそうだ。流石にそれは僕の良心が痛むので、忠告しておく。


「……あのさ、何度も言うけど僕のベッドでそうやってじたばたするの、どうなの? それと、スカートのまま足動かすと見えそうだからやめなよ」


「えぇー、別に私何も気にすることないなぁ……。ここまで来たら、もう私の部屋もコウ君の部屋も、何も変わりないよね?」


 僕の呆れた声に君は聞く耳も持たない。土曜日だからゆっくりしようと思ったらこれだ。午前練を終わらせて、家に帰らずに僕の家に来るとか、君は一体何を考えているんだろう。


 ……汗、かいてるはずなのに。なんだってそんな無遠慮に僕のベッドで寝ているんだ。恥じらいも何も無いのか、君は。


「……来るならせめて、一言くらい連絡を入れて欲しいな」


「だって、コウ君いつも暇でしょ? 家から出ないし」


 ……恥じらいを感じる必要もないってことか。僕は君に男として認識されていないってことなんだ。


 そう考えると、胸の奥がじくりと痛む。なるべく何も考えないように、僕は彼女の姿が見えない位置で壁に背をもたれかけたまま座り込んだ。


「……君の好きな人が、これを知ったらどう思うことやら」


「うっ……で、でもまだ告白できてないし……。それに、コウ君の部屋ってクーラー効いてて涼しいし……」


「その前に、女の子としてどうなの?」


「私は別に、コウ君ならなんとも思わないし、気楽にいられるから」


 ……なんとも、思わない。君の口から告げられたその言葉が鋭いナイフになって、僕の胸に突き刺さる。じくりと傷んでいた胸の奥は、やがて激痛に似たものに変わり果てた。


 流れ出ていく血のように、ぐずぐずとした痛みが残留し続ける。さっきからうるさいくらい脈が暴れだしていて、その度頭の中が嫌なくらい揺れ動く。


 そんな僕のことなんて、君は見ない。未だに足をバタバタと動かして、ベッドにうつ伏せのままだ。スカートから伸びているスラリとした足の根元から……スカートとは別な黒い生地が見えた。


「っ………」


 ……頭の中で、声が反芻する。襲え。襲え。何度も何度も、僕に命令してくる。襲ってしまえよ。お前がどれだけ好いているのか、証明しろよと。


 右手に力が入っていく。目線の先にあるのは、君の身体。生唾を飲み込み、すっと立ち上がる。


 脈が早い。うるさい。何もかもが煩わしかった。でも声は止まない。あの柔らかそうな唇を奪え。手を抑えつけろ。綺麗な首に噛み付け。何もかも、自分の思うがまま……その劣情をぶつけてしまえ。


「………」


 すっと立ち上がって、ゆっくりとベッドに近づいていく。間近で見た彼女の足は、細いが確かに肉がある。それに噛み付いたらどんな反応をするのだろうか。


 ベッドからだらしなく垂れ下がっている君の左手を掴んで離さなかったら、君は照れるだろうか。


 目の前にある君の身体を、誰のものにもしたくない。だからこそ今、僕が全て奪ってしまいたい。君の全てを……。


 誰も僕を止める人はいない。親も今は家にいない。君の唇を塞いでしまえば……。


「……明日香ッ」


 左手首を掴み、強引に君の身体を仰向けにする。そして足を君の足の間に入れて、もう片手は君の顔の真横に身体を支えるように置いた。


「……えっ、と……コウ君……?」


 君は驚いていた。けれどその純粋な瞳だけは僕のことを見据えている。僕はこれから君のことを襲おうとしているのに。


「ど、どうしたの……?」


 君は……君は何も、疑っていない。僕が君を襲うだなんて思っていない。


 なんで……そこまで、僕は……。あぁ、クソッ……クソッ、クソッ、クソッ……!!


「……もう、やめなよ。こういうの、ダメだよ。好きな人がいるなら、僕の家にそう簡単に来ちゃダメだ」


 ……努めて、冷静に。努めて、無表情で。僕は君に言う。君は驚いてしばらくは瞬きひとつしなかったけど、少ししたらまるで苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。


「……そっか。うん……ごめんね、コウ君」


 ……謝るべきは君じゃない。本当は浅ましい考えをした僕こそが謝らなきゃいけないんだ。


 君の手首から手を離して、僕は少しだけ距離をとる。君はゆっくりと起き上がってベッドに腰掛け、すぐ側に置いてあった黒いリュックを持ち上げると、膝の上に乗せて両手でギュッと抱え込んだ。


「……私のこと、ちゃんと考えてくれてるんだね。私はこんなに、告白から目を逸らしてるのに」


「……それは、違うよ」


 情けない。どれだけ筋肉をつけても、どれだけ体力をつけても、僕はひ弱な昔のままだ。僕が何を言うのか、君はじっと見つめてくる。君の目の前にいる男は……もう君の幼馴染を名乗れるような人物じゃないんだ。自分が情けなくて、さっきまで考えていた事がバカバカしくて。


 ほとんど、贖罪に近い。僕は罪悪感から逃れるために……君に言葉を投げかけるしかなかった。


「僕は君にとって……誠実でありたかった。それだけだよ」


 ……誠実でありたかった。もはや過去形だ。君はそう捉えていないんだろうけど。だってほら、君は薄らと笑っているんだから。


「……ありがと、コウ君。私、もっと頑張ってみる。もう少しだけ、ちょっとずつだけど前に進んでみるよ」


 今目の前にいない別の男の顔を思い浮かべているんだろう。君は恍惚とした表情でリュックを強く抱き締めた。


 ……あぁ、嫌だなぁ。きっと君はもう、そう簡単にここには来ないんだろうな。


 さっき言ったことを取り消したい。でももう、言ってしまったことだ。後悔しかないけど、それでも……君が泣くよりマシだと、そう思うことにした。


「……あのね、コウ君。やっぱり告白って怖いんだ。初めてのことだし……できるなら、成功したいし。だから、お願い。これからも相談に乗ってくれる?」


 見上げるように尋ねてきた君の言葉に……頷いて返す他なかった。それが僕の贖罪でもあったし……断ったら、君はきっと悲しむから。


 頷くと、君は花が咲いた様に微笑んだ。ありがとう、とお礼を言った君は、リュックを背負って部屋から出ていく。僕も鞄に適当なものを詰め込んで、後を追うようについて行った。


 玄関を出て、玄関の鍵を閉めて君の帰る道とは反対側の方に少しだけ歩みを進めと、君は僕を呼び止めた。


「コウ君、どこかに行くの?」


「……これでも、いつも暇ってわけじゃないんだよ。僕にだって遊ぶ友達くらいいるさ。適当に……女の子がどうしたら気を引けるのか、その子に聞いてみるよ」


「……友達って、まさか女の子?」


「……一応」


 ……まぁ見え透いた嘘だ。流石に気まづくて君から視線を少し逸らした。でも君は笑って僕に言うんだ。


「そっか。遊ぶってことは……仲良いんだよね。よかった、コウ君にもそういう子がいて」


 えへへ、と笑ったあと、君はバイバイと手を振りながら帰っていく。それを呆然と見つめてから、僕は背を向けて歩き出した。


 ……あぁ、君は嫉妬もしてくれない。本当に僕のことなんて、なんとも思っていないんだね。


「ッ………」


 悔しいなぁ。どれだけ想っても、気づいてくれないなんて……。少しくらいは僕のこと、見てくれたっていいじゃん。


 目尻に溜まった涙を、袖で荒く拭い去る。家に帰る気も起きなくて、この暑さだというのに僕は宛もなく歩き続けた。


 日差しが体力を削っていく。しかしそれが気にならないくらい、僕は多分参っていたんだろう。何も考えることなく、ただ無気力なまでに歩いていると……ふと、公園が目に入ってきた。その中で小さな男の子が蛇口から流れる水を飲み終えて走り去っていくのが、ちょうど視界に入ってくる。


 喉が渇いた。ぼーっとする頭の中で浮かんできたその言葉に誘われるがままに、ふらふらと蛇口に近づいていって水を飲んでいく。冷たい水が喉を通り、もう飲む気がなくなろうとも口元を水ですすぎ続ける。


「……何やってるんだろ」


 次第にこんな自分がバカバカしく思えてくる。蛇口の栓を捻り、近くにあった木陰の中にある木製のベンチに座り込んだ。日陰と日向とでは感じる温度が違う。なんだかもう、動く気すら起きなかった。


『ワンッ、ワンッ!!』


 すぐ側から犬の鳴き声が聞こえてきた。ふとその方を見れば、小さな柴犬が僕の元へと駆け寄ってくるのが見える。口を開けて舌をだらしなく出しながら、赤い首輪をつけた柴犬はとうとう僕の足元へと擦り寄ってきた。前足で何度も僕の足を叩いてくる。野良犬だろうか。


「ご、ごめんなさい!! それ、私の犬で……!!」


 柴犬が来た方を見れば、そこには汗をかきながら走ってくる女の子がいた。落ち着いた黒い長めのスカートと、対象的な白い服が目に入る。誰かと思えば……それは、最近知り合ったばかりの加賀さんだった。どうやら彼女も僕に気がついたらしい。口元に手を当てて驚いていた。


「あれ……もしかして、藤堂君!?」


「……こんにちは、加賀さん。随分と人懐っこい犬だね」


 一鳴き吠えて、尻尾がちぎれるんじゃないかと思うくらいの勢いで振るわれている。さっきまで足を叩いていた柴犬は、今では目の前で座って構ってほしそうな目で見つめていた。


 ……お前は、僕のことを見てくれるのか。犬にすら僕は心を揺さぶられてしまった。手を伸ばして、頭を数回撫でると気持ちよさそうに目を細めて尻尾の勢いを更に強める。


「ごめんね、うちの犬が……。リードが外れちゃって、そしたらいきなり走り出しちゃったんだ」


「そう……。お前も、あんまり迷惑かけちゃダメだぞ」


 そう笑いかけると、僕の言葉がわかっているのか、それともわかっていないのか……軽く頭を縦に振ると、加賀さんの足元まで近寄っていった。


「……藤堂君は、どうしてここにいるの?」


 首輪にリードをつけ直しながら、加賀さんが聞いてくる。なんて言うべきか迷った。全てを話すなんて馬鹿なことは出来ない。頬を軽く掻きながら、僕は遠くを見るようにして答えを返した。


「ちょっと休憩だよ。ずっと家にいるのも、なんだかなって思って」


「そっか……。こんなに暑いのに、よく外に出ようって思ったね」


 よいしょ、っと声を出して彼女は少し距離を開けて僕の隣に座り込んだ。リードに繋がれた柴犬は、さっきまでの勢いが嘘のように大人しくなって、彼女の足元で身体を丸めて休み始めた。大きな欠伸をしている柴犬を見ていると、この暑さだというのになんだか眠くなってくる。


「……柴犬、すごい大人しいね」


「そうだね。コロって言うんだけどね、いつもはこうやって寝てることが多いんだよ」


「コロか……。個人的な話だけど、柴犬ってかわいらしいよね」


「わかる? 私も、柴犬好きなんだ」


 彼女が足元で寝ているコロの頭を撫でると、耳をぴょこぴょこと動かした。随分とのんびり屋らしい。ふと、撫でている彼女を見たら……その口元が嬉しそうに歪んでいた。


「……コロが行ったところが藤堂君の所でよかった。知らない人相手だと、ちょっと怖かったから」


「俺は内心怖かったけどね。最初野良犬かと思ったし」


「あはは……迷惑かけちゃってごめんね」


「気にしなくていいよ。いいもの見れたからね」


 ……さっきまで足元を擦り寄ってきていたコロのことを思い出す。嬉しそうに目を細めて尻尾を振るあの姿は、なんだか心が温まる気がする。随分と荒んでいた僕の心は、少しずつ穏やかになってきていた。


 犬か……。いいな、そういった小動物がいたら、僕の心の支えはもう少し増えたんだろうな。


「え、えぇっと……あ、ありがとう」


「………?」


 彼女は何故か俯きがちにお礼を言ってきた。なんだか勘違いさせてしまったかもしれない。けど、僕は何か変なことを言っただろうか。まぁ、指摘をしない方がいいんだろうな、きっと。


「……コロ、おいで」


 身を屈めて、ちょっと手を差し出して名前を呼ぶと、のっそりとコロが起き上がって鼻を近づけてくる。掌を向けたら、その上に右前脚を乗せてきた。お手もできるらしい。大人しい上に、お手もできれば犬としては上等だろう。かわいらしいし、柴犬の愛嬌はとてもいい。


「いいなぁ、柴犬」


「……と、藤堂君が良ければ……たまにコロと遊んでくれる?」


「いいの?」


「……うん」


「なら、たまに遊ばせてほしいな」


 コロの頭を撫でながら、僕はそう答える。加賀さんがコロと遊ばせてくれるのなら、僕は存分に堪能させてもらおう。どうやら僕は、とんでもないくらいコロに心を奪われてしまったらしい。


「……藤堂君が元気になってくれてよかった」


「えっ……?」


「なんだか、最初見た時は暗かったから」


「……そっか」


 加賀さんと会う前の僕は、明日香とのことで荒んでいたから。それを考えれば今は随分と落ち着いている。それに……明日香に言った、女の子と遊ぶって話。実現してしまったな。


 ハハッ、なんだかおかしいや。言ったことが実現してしまうなんて話があったけど……あぁ、なら明日香が告白しませんようにとずっと呟き続ければ、実現してくれないものかな。それをするにせよ、しないしせよ……加賀さんにはお礼を言っておかなくちゃ。


「……ありがと、加賀さん。ちょっと気が楽になったよ」


「藤堂君は、悩み事があったの……?」


「悩み事……うん、そうだね。でもいいんだ。今はちょっと……別のことを考えていたいから」


 ベンチから立ち上がって、僕は加賀さんにお礼を言う。そして数歩ベンチから離れてから、振り返るようにして彼女に言った。


「本当にありがと、加賀さん。俺行くところあるから……じゃあね」


「あっ……うん。またね、藤堂君」


 少し惚けた様にしている加賀さんに軽く手を振ってから、僕は歩きだした。特に行く宛もない。でも、やらなきゃいけないことはある。たまには遠くの方まで走ってみようか。運動したあとは結構サッパリできるしね。


「あの、藤堂君!!」


 後ろから聞こえてくる加賀さんの声。振り返れば、加賀さんがベンチから立ち上がって僕のことを見ていた。


「私でよければ、相談に乗ってもいい?」


 ……加賀さんも、随分と踏み込んでくる人みたいだ。いや、面倒見がいいのかな。明日香から聞いた彼女の普段の態度は、誰にでも親しく接する面倒見のいい女の子らしいし。断るのも……なんだかアレだ。


「今はそこまで問題でもないから……。でも、その時になったら相談に乗ってもらってもいい?」


「っ……うん!」


 笑って頷いた彼女は、胸元で小さく手を振っている。足元には座り込んだコロが舌を出して見送ってくれていた。僕もまた少しだけ手を振り返して、また歩き出す。


 ……明日香と加賀さんは同じクラス。話だってきっとするんだろう。なら、色々と手伝ってもらえたりするかもしれない。恋を応援するにも、邪魔をするにも。


 ただ今は、何も考えないでいたい。考えるとしたら、明日香のことだけを考えていたい。そんな心境だった。また何か病みそうになったら……コロに会いに行こう。僕は心に深く刻み込んだ。





To be continued……

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