第65話 理性か、情か、それとも己の欲望か

 俺と西条さんが先輩達の場所へ辿り着くと、そこには一人の男性がいた。年は若く、スーツ姿の会社員のようだ。どこからどう見ても、彼は人間にしか見えず、見た目では神話生物だとは思えなかった。違和感も特に感じない。眉をしかめながら、西条さんが尋ねる。


「……コイツが奴らの仲間だと?」


「って、本人は言ってるんだけどな……」


 先輩が困ったように首を竦めた。とりあえず何かあるかもしれないので、七草さんの隣で待機しておく。


 彼は困惑した顔のまま、視線を忙しなく動かしていた。その慌てようからしても、彼がバケモノであるとは思えなかった。彼をバケモノだと断定できる理由が何もない。仕草や態度が、あまりにも人間臭すぎる。


「貴様は何者だ」


「……話すと、長くなります。端的に言えば……元人間、というところでしょうか」


 西条さんの斬れそうなくらい鋭い言葉に、彼は少し震えた声で答えた。元人間、彼はそう言った。つまり……さっきの連中も、元は人間だったと言うことか……?


「………ッ」


 少しだけ視界がゆらぎ、片手で頭を抑えた。幸いにもすぐに視界の揺れはなくなったが、気持ち悪さだけは残っている。知らなかったで済ませられる問題ではない。あの連中が人を殺していたとしても、だから俺達が殺していいというわけじゃない。


 嫌な事実を聞いてしまった俺と先輩は互いに顔を合わせて表情を歪める。けれども、西条さんだけはずっと冷静なままだった。


「なるほど。しかし、奴らと貴様とでは容姿が違うな」


「……時間の経過と共に、私たちは自我が薄れ、身体も別のものへと変わっていきます。そも、私がこうなってしまったのも理由があるんですが……」


 彼は話し始めた。仕事から帰る途中で、不意に意識が途絶えてしまった。起きてみれば、そこはまったく知らない場所であったという。コンクリートで作られた部屋に、何人もの人が逃げられないように鎖で繋げられていたらしい。


 そのうち部屋に男が入ってきて、一人ずつ別の部屋へと連れていった。遠くから悲鳴が聞こえ、また静かになる。それを何度も繰り返すうちに、今度は自分の番になった。腕を無理やり引かれて、暗い通路を歩いていく。辿り着いたのは薄暗く冷たい部屋だった。


 ……そこから先は、彼もよく覚えていないらしい。気がついたら、大きな館の外に捨てられていたのだと。周りは木に囲まれていて、人の生活する場所から離れているらしかった。そして……気がつけば自分の中で空腹感が暴れだしていたらしい。何か喰わねば。必死になって食べ物を探して、ようやく見つけた木の実を口に運んだ。


 しかし、その食べ物は喉を通った瞬間に吐き出される。何も口にすることが出来なく、飢えて死にそうになっていた所へ、一人の男性がやってきた。


 彼に何か、食べ物でもなんでも恵んでもらおうと、その時一緒に捨てられていた奴らで話しかけようとしたが……何人かの仲間が奇声をあげて、その男に掴みかかり、首を噛み切った。


 ───美味い、美味い……。


 奇声をあげた人達は、皆美味そうに、その男の死体を貪っていた。あぁ、吐き気がする。吐き気がするはずなのに……。


 ……どうして、あんなにも美味そうに見えるのか。堪え難い食人衝動に己を見失い、気がつけば己の手と口の周りは血に塗れていたという。


「……私は、自分がもう人ではないのだと理解した。奇声を上げたやつも、それに倣って人肉を貪った連中も……皆、どんどん変わっていった。皮膚の色、鋭利な爪、牙。見たでしょう。あの、犬とも人間とも似つかないようなバケモノを」


「……なるほど、人喰いか。さしずめ食屍鬼グールと言ったところか」


 西条さんは落ち着いたままだが、俺と先輩、そして七草さんは顔を歪めていた。彼らは人体実験でもされたのだろう。人から食屍鬼に成り果てた彼らは、墓を掘り起こして骨を貪り、やってきた警官を殺して喰らったのだという。


「なぜ貴様は人の姿を保っている?」


「……多分個人差がある。あとはきっと、人を喰った量だ。けど私も……もう、長くはもたないんだろうなぁ」


 彼は自分の服の袖をまくって、俺達に腕を見せてきた。その腕の上部は、既に人の肌ではなく、変色したブヨブヨとしている皮膚になっていた。さっきの奴らと同じ。暫く食人行為をしなくても、時間と共に変化してしまうのだろう。


 ……なんとか、彼だけでも戻す方法を見つけなくては。


「……その館の場所はどこかわかりますか?」


「あぁ……少し離れた場所にあるマンホールを辿って行けば、その館のあった場所の近くにまで行ける」


「……えっ、下水道を通れっての!?」


 先輩が嫌そうに言った。俺も流石に下水道を通りたくないし、七草さんをそんな場所に連れていきたくもないが……人目を逃れるようにここまでやってきた彼らには、それ以外の道がわからないらしい。


 そもそも、彼らは基本的に下水道に潜んでいて、夜になったら上に出てきていたようだ。今日の夜ここに来たのも、この前警官が来たからそろそろ別の人が来るだろうと思ったかららしい。それなりに知恵が残っていて、統率できる人でもいたのだろうか。飢えたくない。死にたくない。その状況になってしまったら……醜く足掻くしか、なかったのだろう。


「……話を聞くに、変異してしまってもコミュニケーションがとれるんですか?」


「私達なら、ね。多分人間が話しかけたところで、餌としか思わないよ……。私も、これでも我慢しているんだ」


「……下水道にまだ残っている人はいますか?」


「何人か、残っていたと思う。変異していても、まだ辛うじて人語が話せるくらいには理性が残っている人達だ」


「なら、早く行った方がいいですね。その館とやらに行けば、何か戻せる手立てがあるかもしれません」


 俺の言葉に、先輩と七草は頷いていた。一方、西条さんはただジッとその男性を睨みつけるように見ていたが。まぁ気にすることでもないだろう、と思った俺は彼に道案内を頼んだ。


 霊園から出てすぐのマンホールの蓋を開け、下水道に侵入する。中に明かりはなく、持ってきていた懐中電灯だけが頼りだった。足音や水の音が反響して、どうにも落ち着かない。


「一応道は覚えているから、ついてきてくれ」


 先頭を歩く彼に続いて、俺達は下水道を移動していった。二番目に俺が、三番目には七草さん。その後ろは先輩で、最後尾を西条さんが歩いている。しかし……酷い臭いだ。鼻が曲がりそうで、あまり呼吸をしたくなかった。下手すると服に臭いが染み付くんじゃないだろうか。


「うぅ……嫌な臭い……」


「あまり呼吸しない方がいいだろうな。鼻がやられる」


「流れる水の中落ちちまったら、災難だろうなぁ……」


 先輩の憂鬱げな声が反響していた。そうして歩いていると、七草さんが突然俺の腕を掴んで、そこに顔を押しつけてくる。何をされているのか理解ができず、何も言えずに俺は彼女を見ていた。


「あ、あの……七草さん?」


「……氷兎君の、いい匂いがする。こうしてれば、嫌な臭いがしないかも」


「……一応危険地帯なんだから、それやられても困るんだけどなぁ」


 しかし、彼女の緩んだ顔を見ていると、どうにも叱れなかった。片腕が使えなくなるだけだし、移動だけなら支障は出ないだろう、と俺は彼女に片腕を預けたまま歩き続ける。


 数分か、はたまた十数分か。時間の確認をしようがないのでわからないが、そこそこ長い距離を歩いたように感じる。ふと、そこで彼は立ち止まった。その立ち止まる場所をライトで照らせば、上に登るためのハシゴのようなものがついている。彼はそれを指さして、登れと伝えてきた。


「ここから上に出て、すぐ森の中に入っていけば館があるはずだ」


「……なるほど。どうしますか、先輩。場所がわかったのなら本部に連絡して、誰も逃げ出さないように封鎖することも考えた方がいいのでは?」


「この人達を変えちまった魔術師が逃げないように、か。確かにそうした方がいいか……」


「いや、その必要は無い。既に俺が連絡を入れてある」


 最後尾にいた西条さんが、彼の前まで歩いて出てくる。準備が早いことだ。しかし……下水道の中では電波は届かないと思うが。いつ電話したんだ?


「案内、ご苦労だったな」


「─────ァ?」


 ヒュンッと風を斬る音が聞こえる。薄暗い下水道では最初は何が起きたのか、わからなかった。しかしその場に崩れ落ちる彼の姿と、胴体と分かたれた彼の首を見て……西条さんが、彼を斬り殺したのだとわかった。


「……えっ?」


 七草さんの呆けた声で、ようやく頭がその事態を認識した。そして、認識すると同時に……俺が動くよりも早く、先輩が西条さんの胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。


「何やってんだよお前ッ!! なんでその人を殺さなきゃいけねんだよッ!!」


「……コイツは人殺しどころか、人喰いだぞ?」


「だからなんだってんだ!! その人はまだ人間だ、治せるかもしれなかった!! そのために、俺達は館を目指してたんじゃねぇのかよ!!」


「……その足りない頭で、よく考えてみるんだな」


 西条さんの低く鋭い声が俺達の身体を貫いていく。その時、銃声が遠くの方から響いてきた。


 まさか……西条さんは、元からこの人達を殺すつもりだったんだろうか。下水道に入る前から、既に連絡を入れていたのではないか。七草さんが顔を背け、ギュッと身体を掴んでくる。俺達の顔が非難に歪んでいるにも関わらず、西条さんは表情を変えずに言ってきた。


「唯の人間が、まして犯罪歴もないような男が、人殺しに加えて人肉まで喰ったという。この男が例え、身体が人間に戻ろうと……その罪に対する罰はどうなる? 自分の犯した罪に対する罪悪感は、どう拭いさればいい?」


「ッ……だからって、人を殺して良い訳じゃねぇだろ!! 見てみろよ、結婚指輪だってつけてる。嫁さんが帰りを待ってるかもしれねぇんだぞ!!」


「罪は消えない。決して無くなりはしない。大義名分もなく犯した殺人に、何らかの罰が与えられない限り人は自分を赦せはしない。それに……治せなかったらどうするつもりだ? 下手に希望を与え、また絶望の淵に落とすよりも、今ここで苦しむ間もなく死んだ方が、コイツにとって余程幸せではないか?」


「そんな幸せがあってたまるかッ!! 家族に会いたいから、この人はきっと生きてたんじゃねぇのかよ!! 心の支えがあれば、きっとこの人だって……」


 先輩の悔しそうな声が聞こえる。まだ、遠くの方から銃声が響いてくる。誰も幸せにはなれやしない。そういう問題だった。先輩の言い分はわかる。俺だって同じ気持ちだ。けど……西条さんの言い分も、確かにわかることではあったのだ。


「貴様が思っているよりも、人間というのは弱く浅ましい生き物だ。心の支えとなる人がいる。だからどうしたというのだ。そんなもので罪悪感は拭いされはしない。心的ストレスで鬱になって死ぬのが目に見えている。そうでなくとも、あることないことを、うわ言のように呟き、今回の事件が社会に出回るような事態になったらどうするつもりだ?」


「んなことは……知らねぇよ!! ただ俺は、お前のしたことが許せねぇって言ってんだよ!!」


「人間誰もが弱き心を持っていると、貴様は知っている筈だろう。剣の適性があるくせに、剣を持っていない貴様はどうなのだ。例え起源が遠距離に特化したものであろうとも、普通は接近されても対処出来るようにナイフくらいは常備するだろう。それすらもしないとは……剣も振るえぬ臆病者に、とやかく言われたくはないものだな」


「お前ッ……!!」


「先輩、落ち着いてください!!」


 西条さんを掴んでいる、先輩の腕を間に入って無理やり引き離す。先輩の恨ましげな視線が刺さるが、それを無視して俺は西条さんに向き直った。


「人には、その人にしかわからない悩みがあります。貴方にだって、言われたくない悩みがあるでしょう。だから……何も知らないくせに、先輩を臆病者だと言うなッ!!」


「………」


 俺の怒鳴り声に、初めて西条さんが顔を歪めた。怒りか、はたまた別の感情か。わからない。しかし西条さんはそこで顔を逸らし、ボソリと呟くように言ってきた。


「……悪かったな」


 下水道の中に響かない、小さな声だ。けれどその声を、俺は拾うことが出来た。その声音は確かに謝罪する気持ちの含まれたもので、出任せではないように思える。


 西条さんはその後俺達に目もくれずに、一人で先にハシゴを登って上の方に行ってしまった。残された俺達の中で次に動いたのは、先輩だった。もう動かない死体と成り果てた男性を見て、悔しそうに顔を歪めながらハシゴに手をかける。


「……認めたくねぇよ。こんなのが、正しいことだって」


 泣きそうな、それでいて悔しそうな声だった。震えている声が、先輩の心を表している。カツン、カツンとハシゴを登っていく音が響く。もう銃声は聞こえてこなかった。


 七草さんが、俺の手を握ってくる。その手は震えていた。その震えを抑えるように、俺は彼女の手を少し強めに握り返す。


「……なぁ、七草さん。七草さんは、先輩と西条さんの意見、どっちが正しいと思う?」


 彼女は俯きながら答えを返してきた。


「わからない……けど、私は翔平さんと、似たようなものだと思う。助けられるのなら、助けたいよ。でも……助けることで、苦しんでしまうのなら……ううん、やっぱり、私には上手く答えられないよ」


「……そっか」


「でも……」


 七草さんの声が一旦途切れた。しかしすぐに、彼女は顔を上げて俺の顔をまっすぐと見つめて返してくる。


「もし、氷兎君が変わってしまったとしたら……私は、氷兎君が助けて苦しむことになっても、助けるんだと思う。大切な人に……離れて欲しくない」


「……ありがと、七草さん。最後は危ないかもしれないから、先に行っていいよ」


 濁りのない綺麗な目に射抜かれ、少し恥ずかしく思いながらも俺は彼女を急かすようにハシゴを登らせた。名残惜しそうに手を離した彼女は、ゆっくりとハシゴを登っていく。


 誰の意見も間違いではなく、正解でもない。


 合理的な判断も、人情的な判断も、個人的な判断も。


 しかし、選ばなければならない。その選択はきっと、それまで歩いてきた道のりで得た知識と価値観によってしか決められない。


 俺にはわからない。西条さんの意見も正しいと思うし、先輩の意見に賛同したい。七草さんの言葉に同じだと返したいし、もしそんな場面になったら、せめて苦しまないように自分の手で殺してやろうとも思うかもしれない。


 何も選ぶことは出来ない。俺は結局、確固とした道を判断して歩けるだけの知識も価値観もない、子供でしかなかったのだ。


 そばに横たわる男性の死体に黙祷を捧げて、心の中で謝ってから俺もハシゴを登り始める。


 下水道の中に不意に響いた何かの音が、まるで地獄から響いてくる怨嗟のように聞こえた。




To be continued……

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