春告げの迷い子 第6話

「な、何ここ」

 真っ暗でぽっかりと広い空間が目の前に広がっていた。

 出口にきたのかと勢いのまま小さく振動する坑道を飛び出したランファは、足下に広がるどこまでも深く何もかも飲み込みそうな闇に腰を抜かして、へなへなと地面に座り込んだ。

「あれ? でもここは星が見える。この上の空間は外に通じているの?」

 訝しみながら辺りを見回した。馬車もゆうに通れる幅で、左右に道が続いていた。

 元は採掘跡と思しき鉱山を頂上から貫くこの縦穴を利用して、横に広がる各坑道を繋いでいるようだ。上から下へと螺旋状に通路が設けられている。ランファの出てきた坑道はほぼ最上段に位置していた。

 星明かりしかない暗闇をしばらく壁伝いに進んでいると、大勢の足音が響いた。追手が来たのかと身構えたが、声の正体は討伐隊のようだった。聞こえてくるのは随分と下だ。

「よかった。みんな無事みたい」

 クルルに微笑みかけたランファが身を乗り出して下を覗きこもうとした時、破裂音と共に眩い光が空間を満たした。目を瞑ると、地響きのような音が続く。

「――何だ、何が起きている!」

「駄目だ! さっきの入り口が閉ざされたぞ!」

「どういうことだ、話が違う! ここは奴らの使っていない通路じゃなかったのか」

 討伐隊の混乱した声がランファのところにまで反響してきた。

 罠だ、という男の話が脳裏を過った。さっきの轟音が何らかの策略によるものだとすると、どこかに山賊たちが潜んでいるかもしれない。ランファが視線を彷徨わせると、数人が土を踏みしめる音が聞こえた。

「残念だったなぁ」

 ランファの位置からそう離れていない坑道から姿を現したのは、松明を掲げた強面の男たちを従えた恰幅のいい男だった。男――おそらく山賊の頭領は、獣のような光を隻眼に宿して、下卑た笑いでその巨体を揺らした。

「てめえらは嵌められたんだよ」

 食い入るように山賊たちを見つめていたランファの服の裾を、クルルが引っ張った。はっとしてランファは闇に紛れながら山賊たちとは別の坑道に身を潜めた。

「嵌められただと……どういうことだ?」

「この中に密偵がいるのか!?」

 討伐隊の動揺する声が聞こえてきた。

「ここで死んじまうてめえらには関係のない話だ」

「黙れ! 貴様が隻眼の魏張だな、貴様らの悪行もここまでだ。その首とって、領主殿に捧げてくれる!」

 狼狽える仲間を一喝して、討伐隊を指揮していると思われる一人が声を張り上げた。それに応えるように討伐隊が気勢をあげた。

「確かに、それはおれの名だ。だが、領主様の山賊退治はここでおしまいだ」

「何を馬鹿な! 戯言は大概にするんだな。ここに集まったのはどいつも腕を鳴らした精鋭だ。むざむざとやられるものか!」

「ふん、いつもなら威勢のいい奴以外はとっ捕まえて、鉱山の奥にでも放り込んでやるところだが、今回はそうはいかねえって念押しされてるからな」

 げはははと愉快そうに腹を抱え、最下層に誘い込まれた討伐隊に告げた。

「てめえらは袋のねずみだ。ここはな、おれたちを退治しに来た奴らを、逆に退治する場所なのさ。そこは今からおまえたちの墓になるんだよ。なに、楽に逝ける。てめえらはすぐその土と同じくらい粉々になっちまうんだからな」

 ランファが恐る恐る様子を伺うと、魏張や手下の男たちが手にしていたのは、竹筒よりもう少し太い筒状のものだった。

「ここは輝光石の採掘場所だ。もちろん、輝光石のことはてめえらだって知ってるだろう。粉状にすれば、光を放ち、熱を出す。こんな風にな」

 魏張が筒の先端から出たこよりのようなものに松明の火をつけると、討伐隊のいる下層へ放り投げた。

 途端、強い光と轟音と共に、数多の悲鳴が交錯した。

「今のは単なる挨拶だ。輝光石はここ以外じゃ貴重だからな。こんな贅沢な真似はできねえが、並みの爆薬よりもほんと大した威力だぜ」

「お、おまえたち、こんなところで爆発させたら何が起きるかわからんぞ!」

「ここが閉山したのは本当さ、ここは、な。爆発については、あいにく何度も実証済みだ」

「くそぉっ……!」

 このまま魏張たちが手にした輝光石の爆薬で、討伐隊を葬ろうとしていることはランファにもわかった。沙南たちがくれば、この場をどうにかすることはできるかもしれないが、あの足音を考えると、追手を振り切れたかもわからない。

 沙南さん……!

 目を瞑り、手を強く握り込んだ。沙南と、それからランファとクルルを逃がそうとしてくれた男の姿が瞼の裏に浮かんだ。

 ランファ一人ならこの場を離れれば、逃げ切れるかもしれない。もし沙南が無事で、うまく合流できたならきっと助かることができるはずだ。

 だけど……。

 唾を飲み込むと喉が鳴った。名前を呼ぶ。心得たようにクルルが体勢を低くした。深く息を吸い込んで、ランファとクルルは坑道から飛び出した。

 二人の存在に気付いていない山賊たちに、クルルは矢のように突っ込んでいくと魏張の腕に噛みついた。

 魏張は悲鳴をあげて、持っていた爆薬ごと腕を振ってクルルを払った。うまい具合に飛んできた爆薬をランファは宙で受け止めた。

「ってぇ! なんだ、その嬢ちゃんとこのちっこいのは」

「緑普が珍しいものが手に入ったからお頭に見せたいって言ってたが、もしかして……」

 手下の男たちから伸ばされる手を潜り抜けて、クルルがランファの前に立って牙を剥いた。それを鼻で嗤うと、魏張がランファに向けて手を出した。

「嬢ちゃん、それは今から使う大事なものなんだ。返してもらおうか」

 こちらに足を踏み出そうとした魏張に向かって、爆薬を投げるように腕を振り上げた。

「来ないでください! 近付いたら、あなたたちに向かって投げます!」

 ランファの片手には山賊が驚いた時に地面に転がった松明があった。

 足を止めた魏張の目に明確な殺意が浮かんだ。ランファの背を冷たい汗が伝っていく。かと思うと、魏張はすぐにその目を厭らしく細めた。

「おれたちにどうして欲しいってんだい?」

「みんなを助けてください! それから、きゃあっ!?」

 背後からぬっと伸びてきた手が、爆薬を持つランファの腕を捻りあげた。ランファの手から離れた松明が再び地面に転がった。

「このような小娘相手に、いったい何をしておられるのです」

 頭のすぐ上から、氷のように冷たい声が響いた。爆薬が強い力で奪い取られる。

「はなしてっ!」

 身を捩って逃げようと試みるが、ランファの手首を掴む力は全く緩まない。クルルを探すと、二人がかりで手下に押さえつけられていた。

「しくじってもらっては困りますね」

「わりいな、雅宗さん。まさか子どもが紛れ込んでるとは思わなくてよ」

 軽い調子で謝る魏張を、雅宗と呼ばれたランファを捕えた男が鋭く睨みつけた。

 雅宗は懐から鎖の繋がった鏡を取り出した。りっぱな飾り房のついた逸品だと、世間知らずなランファも一目でわかる出来だ。

「言ったはずです。今回は狗が紛れ込んでいる、と」

「だが、それ本物なのかい?」

「間違いないでしょう。私も実物を目にしたことはありませんが、ここまでの細工がなされているのですから。」

 顔のすぐ横で揺れる、片手程の大きさもない鏡をランファは見つめた。松明の灯を受けて煌めいている。

 鏡……、鏡ってもしかして沙南さんが言っていた?

「だからこの持ち主諸共、間違いなく消していただかなくては。呂真様のためにも、それからあなた方のためにもね」

「ああ、大丈夫だ。あとは爆発しちまうだけだ」

 さっきの爆薬を受け取った魏張が口の端をつり上げた。雅宗が手を離すと、ランファの襟首が魏張によって掴み上げられた。

「まさか!? おまえの顔は知っているぞ! 俺たちを雇った張本人じゃないか!」

「どうしてアンタがここにいるんだ!」

 討伐隊からの非難と戸惑いの声を嘲笑うように雅宗が手を大きく広げた。

「――そう、誰もここから生きて帰ることはできないのです」

 え、と思う間もなくランファの体が宙に放り出された。

  男たちの手を振り切って、クルルがランファの後を追うように飛び込んできた。魏張が爆薬に火をつけた。討伐隊の悲鳴が錯綜する中、空中でクルルを抱きとめる。

 火花を散らす爆薬、重力に従って落ちゆく体。

 その瞬間、ランファには時の流れが止まったように思えた。


――汝、我が呼びかけに応えよ、応えよ!


 声は、頭の中に直接響いてくるようだった。

 ランファの体は突然生じた突風に包まれた。あまりに強い風に、堪らず目を閉じた。地面に叩きつけられるはずだった体がふわりと浮きあがった。

 風の音の向こうで、討伐隊や山賊の混乱した声がした。投げこまれた爆薬は、突風によって遙か上空へと一気に舞い上げられた。一拍遅れて、爆音と昼間のような眩い光が辺りを覆った。

 すとん、と最下層の地面に着地して、ランファは恐る恐る目を開けた。視界には見慣れた毛並みが、しかしあり得ない大きさで広がっていた。

「な、なんだあれは!?」

「ば、化け物だっ!!」

 周りのどよめきは、ランファの耳には入らなかった。突然現れた大きな白い虎を瞬きもせずに見つめて呟いた。

「クルル……?」

 それは確かにクルルだった。この場の誰が信じなかったとしても、クルルであることがランファには確信できた。

 だが、どうしてこうなってしまったのかランファにも説明がつかない。

「どうなってるの? これ」

 それには応えず、クルルがランファの首元に顔を寄せてきた。いつもと同じぬくもりだ。ランファのよく知る陽だまりの匂いがした。

「ちくしょう、何が一体どうなってやがる!」

 動揺の走る手下を叱咤するように魏張が怒鳴り声をあげた。

 山賊たちが一斉に武器を手に取り、爆薬を取り出した。周りで討伐隊が逃げ惑う中、ランファは一人静かに山賊を見据えた。クルルが威嚇するように低く唸り声をあげる。

「とっとと片付けちまえっ!」

 魏張の怒声と共に、いくつもの爆薬が放り投げられた。ランファの中に不思議と恐怖はなかった。クルルが一咆えすると、再び風がおこり爆発の衝撃を相殺してしまった。まるでクルルがこの風を操っているようだ。

「クルル、力を貸してくれる? ――みんなを、助けよう!」

 意気込んで一歩踏み出そうとしたランファを止めるように、クルルが彼女の首根っこをくわえた。そして、周りで騒ぐ討伐隊には目もくれずに駆け出した。ぐらぐらと揺れる体に目を白黒させていると、目前に壁が迫ってきた。クルルは弾みをつけると一足飛びに壁を駆け上がり、魏張たちの前に躍り出た。

「ランファ!」

 坑道から現れたのは、沙南とあの男だった。沙南だけでなく、男の無事にもランファは無意識に胸を撫で下ろした。ランファをくわえる白い大きな虎に瞠目する二人に、クルルがランファを放り投げた。男は難なくランファを抱きとめた。

「くそ! 相手は獣だ! 怯むんじゃねえぞ!」

「駄目だ、お頭! 爆薬も効かない相手なんて……!」

 クルルの咆哮に、魏張を取り巻く手下の腰は今にも逃げだしそうに引けていた。クルルは怯む山賊に突っ込み、縦横無尽に暴れまわった。斬りかかってくる男たちを前足でなぎ倒し、風で吹き飛ばし、山賊は次々と地面に倒れ伏していく。

 しかし山賊の根城だけあって、あちこちの坑道から続々と武器を手にした男がわいてきた。ランファたち三人もあっという間に壁際で囲まれてしまった。

「おい、新入り! 何してやがる、とっととそいつらやっちまえよ」

 山賊に呼びかけられた男を、ランファは不安げに見上げた。

「お、お兄さん……?」

「狼だ」

 男は顔色ひとつ変えずに、山賊からランファに視線を移した。そして納得のいかない様子の沙南に一瞥をくれると自らの剣を手にした。

「――すぐに済ませる」

 だそうだ、と沙南が肩を竦めて、自らも剣を構えた。

 吹きつける風に黒い衣を翻し剣を構えたかと思うと、一太刀で二人の山賊を斬り伏せた。

「てめえ! 裏切る気か!」

「おれの従うべき主が変わっただけだ」

 にべも無く告げた。取り囲む空気が一気に緊迫度を増して、山賊が一斉に襲いかかってきた。沙南は危なげなく刃を避けると、ランファに斬りかかる山賊を斬り捨てた。

「いいかランファ、私から離れるなよ」

 ランファを背に庇いながら、沙南が素早い身のこなしで剣を振るった。体術と組み合わせた独特の動きで、沙南の広い間合いに相手も迂闊に近づけない。一方、自由に動けるロウは、鋭い一撃を繰り出して山賊を物言わぬ骸に変えていった。

「雇われ用心棒が、随分舐めた真似してくれるじゃねえか。所詮はてめえも獣というわけだ。人の道理は通じんようだ、なぁっ!」

 雄叫びをあげながら、狼よりも遥かに体格で勝る魏張が剣を振り下ろした。

 狼が目の前の山賊を蹴り飛ばすと、魏張は構うことなく手下に刃を浴びせた。返り血を浴びても尚、その太刀筋が鈍ることはなかった。切っ先がかすめて、切り裂かれた長衣を残して狼が身を翻した。

 獲物を追い詰める興奮に魏張の目が血走り、狂気を感じさせた。

「この程度か! 暇つぶしにもなりゃしねえっ」

「くっ、貴様こそ外道だ」

「そいつはおれには褒め言葉だな、はっははは」

 即座に短剣を手にして狼の正面に投げつけた。それを弾いた刃の一瞬の隙を狙い、魏張が巨体に似合わぬ俊敏さで一気に詰めた。狼の腹を蹴り飛ばす。受け身を取った姿勢のまま、狼が地面を転がった。身を起こすと同時に、魏張の太刀を受け止めた。

 だが、その力の差は圧倒的だ。体勢を崩された状態で、がくりと片膝をついた。

 悲鳴が口をついて出そうになり、ランファは口元を押さえた。じりじりと魏張が力を込め、狼は明らかに押されているようだ。

 その後ろで、雅宗がひとり明らかに後退している姿が目に入った。

 え、まさか逃げるの……!?

 どうしようと思っていると、ランファの肩に沙南が手をかけた。周りの山賊はクルルと共にあらかた片付けたようだ。

 沙南の瞳はランファに向けるものと違い、別人のような厳しさを見せていた。

「私が行こう、ランファはクルルの傍にいろ」

 そう言って魏張たちが競り合う横をすり抜けて、雅宗の後を追いかけた。

 魏張が舌打ちをして、沙南に意識を逸らした。その一瞬が、勝負を決した。その隙を見逃さず、狼は魏張の太刀を斜めに受け流して後方に飛びのいた。魏張の切っ先が地面を穿つ。

「くそがっ! 獣の分際で……っ!」

 持ち上げようとした刃先に足をかけると、狼が魏張を踏み台に跳躍して背後を取った。怒りに吠える魏張が振り向くと同時だった。その喉元を狙って狼の刃が一閃した。

 魏張は何かをもごもごと呟きながら、その巨体は地に伏した。

「や、やっつけたの?」

 ランファはほっと息をつくと、狼の元にこわごわ駆けよった。クルルも続く。

「あの、お兄さん、怪我はないですか?」

 不思議そうにランファを見下ろした狼は、それから頷いた。いくつか切り傷はあるようだったが、大きな怪我はほとんどないようだ。

 魏張の体はすでに血に染まっていた。山賊の多くが同様に倒れており、ランファは改めてその凄惨な光景に息を呑んだ。足が震えた。怖い。でも、守ってもらわなくては、戦わなくてはこうなっていたのはランファたち自身なのだった。

 少し先の坑道から雅宗の悲鳴が聞こえてきた。そこには腰を抜かした雅宗が、沙南によって追い詰められていた。

「待ってくれ! 何が望みだ、金か? 地位か? 呂真様に頼んでやる……ひい!!」

「ああ、なるほど。やはりおまえで間違いないようだな。領主・呂真の副臣、雅宗よ。魏張は死んだぞ。おまえを助けるものはいない」

 剣を喉元に突きつけて、沙南は不敵な笑みを浮かべた。

「官吏が民のためにあることを忘れ、私利私欲に溺れた愚かな輩め」

「こ、この持ち主を殺せば、おまえに望む褒美を何でも与えよう。傭兵の給金では物足りぬこともあるだろう。魏張が死んだ今、この持ち主だけは何としても消さねばならんのだっ。そうでなければ我らは……っ」

 雅宗が手にしていたのはさっきの鏡だ。くるくると回りながら、雅宗と沙南の瞳が交互に映す。その訴えを一瞥して、沙南は剣先を弄ぶ。

「貴様がそれを持っているとは皮肉だな」

「なっ、なにっ」

「さっきの話に戻そうか。おまえの提案は却下だ。考慮する価値もない」

 どうして、と震える声で雅宗が目を見開いた。

「この鏡の持ち主が私だとしたら? ――私が、お前たちが言うところの狗だ」

 これ以上ないほどに顔色をなくした雅宗に、沙南が告げた。

「もらうなら今ここでおまえの命をもらうからさ」

 沙南の剣は雅宗を貫くことはなかった。

 首を狙った一撃は鈍い音と共に壁に刺さっただけだ。一芝居に気を失った雅宗の首根っこを掴むと、沙南が引きずってランファたちの元に戻ってきた。

「おかえりなさい、無事でよかった沙南さん!」

「ああ。怪我はないか?」

「はい。でもあの鏡って一体……」

「説明は後だ。そのうちわかるよ」

 きょとんとするランファを置いて、沙南が山賊が捕縛するために用意していた縄で雅宗を縛り上げた。巨大化したクルルの横で所在なげに佇む狼に声をかけた。

「おい、縄梯子か何かないのか? しばらくは追手の心配もなさそうだが、早く下の奴らを引き上げてやりたい」

 みんなでトウシュクに帰ろう、という言葉にランファも大きく頷いた。

 狼が縄梯子を取りに行っている間に、沙南と手分けして息のある山賊は縄で縛った。

「そういえば、沙南さんはどうして一人だったんですか?」

「山賊の討伐が目的だったのはそうなんだが、……途中であの鏡が目的になってしまってな。あの狼とは宿の主人を助けた時に一度剣を交えたんだ。その時、主人を庇って懐から落としたのをたまたま奴に持ち去られてな」

 沙南にとっては少々罰が悪い話だったようだ。くすりとランファも笑みをこぼした。

 その結果、沙南は討伐隊と一緒に鉱山まで来たものの、途中で単独行動に変えた。山賊の一人を捕まえて問い詰めれば、すぐに狼のことはわかったらしい。

「まさかランファがここにいるとは思わなかったが」

「そ、それはあの後に色々あって」

「確かに色々あったようだな」

 沙南が何とも言えない複雑な顔で、ランファとクルルを見た。

 最後の一人を縛り上げ、あとは討伐隊を引き上げるだけだと、ほっとした時だった。

 ぞわり、とランファの背中を寒気が駆け上った。ばっとランファは顔を上げ、討伐隊の輝光石の灯りが揺れる最下層を覗き込んだ。

 何か、嫌なものが……。

「ランファ? そんな端に行くと危ないぞ」

 訝しげな沙南には反応せず、深い闇に目を凝らした。隣のクルルが低く唸り声をあげた。背後から足音がして、ランファは急いで振り返った。

「狼さん! 早く! 急いでください!」

 縄梯子を運んできた狼を急かした。狼もまたこの気配を感じ取ったらしく、険しい表情で駆け寄ってきた。冷や汗が一気にランファの額に浮かんだ。

 突如、静かな空間を切り裂くように悲鳴があがった。

「な、なんだっ」

「瘴気だ」

 目を見開く沙南の隣で、狼が舌打ちをして縄梯子を手早く下に放り投げた。

「クルルっ!」

 名前を呼んでクルルに飛び乗ると、大きな体はランファを乗せて助けを求める声が響く深い闇へと飛び込んだ。 ランファ! と沙南の制止する声がした。

 振り向いた一瞬、沙南と目を合わせて精一杯の笑顔で応えた。そのままクルルと闇に身を踊らせる。軽やかに地面に着地すると、ランファは転がるように降りて辺りを見回した。何も考えていなかった。ただ助けなくては、という意思だけがランファを突き動かしていた。

「みなさん、大丈夫ですか!」

「た、助けてくれぇ」

 声がした方を見てランファは固まった。

 暗闇で尚その場所の影だけが、さらに色濃くしていた。蠢くように空間そのものが揺らめく。そこに何かが集まり、溶け込み合いながら今まさに形を成そうとしていた。

「魔瘴が出るぞっ!」

 討伐隊の誰かが悲壮なうめき声あげて倒れ込んだ。

 魔瘴って……?

 それが何なのか問う前に、影はゆらりと大きく蠢いたかと思うと、その場にいた全ての者をどっぷりと吞みこんだ。まるで意思を持った泥水のようであり、歪み淀んだ瘴気が全身を包む感覚に、ランファは強く目を閉じた。

 瞬間、世界から音が消えた。

 討伐隊の叫び声もクルルの唸り声も、一切の音がなくなった。

 そっとランファは目を開けた。辺りには見通すことのできない重く深い闇が広がっていた。近くにクルルがいるのかどうかもわからない。瘴気の中にいるせいかどこか息苦しい。冷気がランファの体温を奪っていく。


 ……ここはどこ?……


 どこから聞こえてくるのか、闇の中、苦しげな声がランファの耳に届いた。


 ……どうしてこんな……寒いよ……冷たい……

 ……帰りたい、家に帰りたい……還りたい……還して!


 悲痛な声が大きくなる度、息が苦しくなった。手足の感覚がなくなっていく。体が鉛のように重くて、ランファはその場に崩れ落ちた。その衝撃で腕輪についた鈴が、しゃん、と鳴った。はっとしてランファは腕輪に触れた。

 それは予言によってランファが里を旅立つ前に、大ばば様が御守としてくれたものだ。鈴の中身は空っぽで、普段はただの腕飾りでしかない。音が鳴ることはなかった。

 大事な時にきっとおまえを守ってくれる、と大ばば様は言っていた。

 使命、なんて言われてもランファには何をしたらいいのかわからない。けれど、ここで闇に還ることが使命だとは思えない。

 なら、生きて帰らなくちゃ……!

 ぎゅっと手を強く握りこんだ。生きていくために必要なことは全部大ばば様が教えてくれたはずだ。

 ――そら、ランファ。特別な舞いを教えてあげよう。迷える魂を導く舞いだ。

 ランファの手を包んだ大ばば様の温もりが、手に蘇った。一瞬、大ばば様の笑い声が聞こえた気がして、ランファは顔を上げた。しかし、そこに彼女の姿はなく、果てしなく暗い闇が広がっているだけだ。それでも、手の温もりは消えなかった。

 ランファは腕輪を抜き取ると、右手に持って、しっかりとした足取りで立ち上がった。前を見据えると、闇を払うように鈴を鳴らした。


 ……帰りたい……還りたい……


 うん、一緒に帰ろう!

 衣を翻して一歩踏み出した。鈴を鳴らして両手を広げる。

 ランファに纏わりついていた靄のような影が離れていく。呼吸がしやすいことに気づいて、ランファは深く息を吸った。そして舞いに合わせて、節をつけて音を謳う。

 ひとつ足を踏み出す度、静かに手を広げる度、鈴が、声が響いていく度、闇が次第に晴れていくようで、ランファは祈るように舞った。

 明るい方へ。幸せな方へ。迷う思いが還るべき場所へ。

 やがて空気が澄んでいくのがわかった。深い闇に沈んでいたはずが、小さくてやさしい灯りがいくつも灯りはじめた。

 しゃん、と大きく鈴を鳴らすと同時に、すべてを吞みこんだ影は、まるで最初からなかったかのように晴れた。ランファはあの最下層に立っていた。

「なんだ、一体何がどうなったんだ?」

「助かったのか、俺たち……」

 一緒に影に吞みこまれた討伐隊の男たちが呆然と呟く。そこかしこで壁の中にわずかに存在する小さな輝光石が光を放っていた。

 まるで星空の中にいるようなその光景にランファは息を呑んだ。 討伐隊も皆、呆けたような表情で座り込み、静かな驚きに包まれていた。

 足元にすり寄る存在を感じて、ランファは足下を見た。いつのまにか元に戻ったクルルが、ランファに体を擦りつけていた。

「クルル、よかった無事だったんだね……」

 見慣れた大きさのクルルを抱き上げると、ランファは遥か頭上の空を見上げた。そこには闇を照らすように、ぽっかりと円い月が浮かんでいた。

 自分の名前を呼ぶ声を背中で聞きながら、ランファは意識を手放した。

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