夏椿
ふぅ---と、ひとしきり肩で息をして、彼は庭先に目をやった。
降り続いていた五月雨もようやっとひと段落し、あたりは久々の静寂を取り戻していた。
---今宵は、月は見えるかのぅ---
ひそ---と呟いた声に、静かに答える声があった。
「今宵は、十六夜にございます」
低い、落ち着いた深みのある声音は、彼には馴染みのある---だがひどく懐かしいそれであった。
彼は、瞬間ぴくり--と眉を上げ、しかし、先程より穏やかに呼吸を継いだ。
「障子を開けてくれぬか、外が見たい」
は---と短く声の主が答え、反間ほど障子が引かれた。
先だってまで降っていた雨に洗われた庭先は石も木々もしっとりと、月明かりに照り映えて艶めいていた。
その中でも、ひときわ白く揺らめいて、その花はあった。
「夏椿が咲いたか---」
「はい、満開にございます」
さわ---と葉擦れの音が耳許をかすめた。
「沙羅双樹---とも言ったな。」
「はい、釈迦が悟りを開いたのも、この木の下---とも」
「盛者必衰の理をあらわす---か。我れらは浄土には行けまいのぅ---。」
ふっ---と彼は小さく笑った。自嘲のような、諦観のような---だがその表情は、夜の陰りに隠されて、見えない。
彼は、つ---と顔を巡らせ、傍らに端座する声の主を見遣った。
そして、少し腹立たし気な口調で言った。
「それにしても---ずいぶんと遅いではないか」
「申し訳ござりませぬ」
と、平服して、頭を下げるその顔も陰りで見えない。
月明かりに照らされた大柄で逞しい体格とその面差しの輪郭だけが、かろうじて、「その者」であることを知らせていた。
「待ちくたびれたぞ。」
彼は拗ねた口振りで、少しばかり不貞腐れたように、言った。
「時が満ちておりませんでしたので---何かとお忙しいご様子でもありましたので--」
声の主は、宥めるように、悟すように言葉を継いだ。
「おうよ。そなたがおらぬおかげで、えらく多忙になった。忙しゅうてかなわなんだわ。」
彼の答えに、声の主が、いささか苦笑しているのが、気配でわかった。
「御気性は変わりませぬな--」
「変わるものかょ。そんなことは、我が幼少の頃より傍にいたお前が一番よう知っておろう。」
「まこと、利かん気な方でございましたな---見事に病を、試練を跳ね除けられた。」
さわさわと、白々とした花弁が炎のように、揺れた。
「お前がいてくれたからじゃ。」
「は---」
「お前が支えてくれていたからこそ、乗り越えられた。なのに---礼のひとつも言わさずに立ち去るとは---。」
「まことにもって申し訳ござりませぬ。」
頭を下げるばかりのその影に、彼は床から半ば身を乗り出して、問うた。
「で、もはやもぅ、何処にも行くまいな。道行きの連れが無うては、我れは道草ばかりで迷うてしまうわ。」
「また、そのような---。」
影は、ふぅ---とため息をもらし、だが、凛然とした口調で続けた。
「なれど、此度は私が何処迄もお供つかまつります。---先にお約束いたしました通り、永劫、お側にてお仕えいたします。」
穏やかなあくまでも穏やかな---だが、そこはかとなく哀しげな声だった。
「何を憂う?」
彼は訊いた。
「私ごときでよろしいのですか?---やはり---母上さまはおいでにならぬのですか?---父上さまは---?」
声の主は遠慮がちに、申し訳なさげに言葉を継いだ。
「あの母が来るわけがなかろう。父上は、あちらで、我れが、そなたに手を引かれて来るのを待っておろう。」
「は---」
「そなた以外に、我れの導き手はおるまいよ。あの頃がそうであったように---我れの傍におれ。---もう小言は要らぬがな。」
互いの口許から、くすり---と笑みが漏れた。
そして---彼はゆっくりと手を伸ばした。
「では---そろそろ参るとしようか---のぅ、小十郎。」
影は小さく頷き、うやうやしく彼の、指の長い形の良い手に触れた。そして、昔のままに、大きな掌に包みこむように握った。
「では、参りましょう。梵天丸さま。---」
白南風がひときわ高く夏椿の枝を揺すった。
月は既に西の果てに過ぎ去ろうとしていた。
----仙台藩初代藩主 伊達政宗、伊達藩江戸屋敷にて逝去。享年六十八歳。
―曇り無き心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞ行く(辞世)―
【独眼竜異聞 外伝】 葛城 惶 @nekomata28
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