魔笛
笛の音が聞こえる。
辺りには高い山しかない筈だ。峠越えの旅人を誑かして襲う魔女の噂を耳にしたことはあったが、それは男の旅人に限った話であって、女のわたしが襲われる道理はない。
しかし、現に笛の音は鳴り止まない。
(……不気味だ)
わたしは上着を羽織り直すと、早く山向こうに着くために足を速めた。だが、霧は濃く、おまけに風まで出始めた。襲われた男の証言に拠れば、大抵は悪天候、そして一人きりのときに笛は鳴り始める、という。つまり、今の状況と合致している。
(駄目か……今下手に動くと最悪、遭難する)
わたしは仕方なく、石碑を背に座り込んで霧晴れを待つことにした。
――動きさえしなければ平気だろう。そう考えると、少し気が楽になり、笛に耳を澄ます余裕も出てきた。
確かにいい音だ。わたしは笛の吹き方をよく知らないが、聴いたことない旋律の筈なのにどこか懐かしさを覚える。これで無害でさえあれば、村の衆を呼んで、この調べを聴く会を催しても良いかもしれない、そんなことを思ってしまうほど。
笛の音に抱かれながら、わたしは時を待つ。気温はかなり下がっている筈だが、不思議と寒さは感じなかった。
そして、そうなったときには得てして、手遅れである場合が多い。
――息苦しさに目が覚めた。あろうことか意識を手放していたらしい。そしてわたしは、頬に触る冷たい感触に、それよりも、唇を塞ぐ生温かくやわらかいものに、いま、この段階に陥って、ようやく気づけた。
はぎ取ろうとするが、満足に
重い瞼を、どうにか開ける。目の前に顔があった。女の顔だと理解して、ああ――接吻を奪われたのだ、と知る。随分と長い接吻だったがやがて終わり、白魚のような指が顔を離れていく。
――美人だ、という当たり障りのない感想が脳裏に浮かんだ。男を惑わす美女というくらいだ、笛以外の美点があってもおかしくない。
「――聴いてくれたのね、笛を……私の
魔女は上機嫌で言った。にこやかで、敵意を感じさせない
直感的に、ああ、この子は理解者を欲しているんだ、と気づいた。わたしの中の敵意は霧散していた。
「ああ、愛しているわ」
彼女は言った。わたしもよ、と答える間もなかった。再び唇を奪われる。わたしは既に虜になっていた。なっていたし、それでよかったと思っていた。
魔女の噂に、笛の情報が付け足された。
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