狂気

 手に持っているのは金床かなどこか。すでに赤黒い血がこびりついている。女はそれを何度も振り下ろし、半狂乱で絶叫をあげている。

「やめ、やめ……やめるんだ、やめ、て、よぉ……!」

 売り下ろされた先には、50がらみの女性の姿があった。割烹着に身を包んだ恰幅のいい婦人で、額が割れて血が出ている。彼女は、金床の猛襲から必死に身を守っている最中であった。

「おきよさん、いったい、いったい何があったっていうんだい、昨日まではそんなそぶり、見せなかったじゃあないか!」

「……うるさいっ」

 女――お清は濁った目から涙をちょちょぎらせながら、なおも金床を下の女性に叩きつけんと振りかぶった。

「誰か――誰かぁっ! 誰か早く…誰かぁぁっ!! 助けてぇ!!!」

 瞬間、弾けるように押し倒されていた女性が叫んだ。同時、お清はばっ、と飛び退いて、金床を持ったまま部屋を出て行った。

ひささん! 大丈夫かい?」

 騒ぎを聞きつけたか、お清の逃走から一拍遅れて近所の男が部屋へ飛び込んできた。

 襲われていた女性は久というらしい、彼女は咳き込みながら起き上がった。腕にもいくつかの痣と出血があった。

「あぁ……ありがとう、もりさん。殺されちまうとこでしたよ……」

「良かっ……良くない! 久さんひどい怪我じゃあないか…」

 小森はシャツを破って、久の出血箇所へ巻きつけた。

「これでよし……と。誰にやられたんだ?」

「………うちのお清だよ」

「お、お清さんが!?」

 小森は驚きを隠せなかった。

 清純で穏やかで、気前のいい美人であったお清は、同性から嫉妬されこそすれ、誰かに恨みを買ったり、反対に他人を恨んだりするようなことも稀な娘だった。そのお清が傷害事件の加害者である。小森は一人暮らしの久を担いで町医者を叩き起こし、その医者に久を預けると、その足でお清を追跡した。


 お清はどす黒いものが渦巻く感覚に胸を押さえながら、川のほとりまで来ていた。ガス灯が月の光を受けて不気味に光っている。

 手には金床がある。見つかれば言い訳はできないだろう。お清は手巾ハンケチにこれを包んで川へと捨てた。

「……どうして」

 時折、こうした衝動が起こる。久の家へ奉公へ行き始めてからは治まっていた発作だったのだが。

「こんな……苦しいっ……のに………」

 お清は顔を歪めて吐瀉した。服の裾が汚れた。

 このせいで。このわけのわからぬ発作のせいで! お清は吠えながらまた駆け出す。



 お清の声がした方へ急いだ小森だったが、そこに彼女の姿はなかった。

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