春空

 あおいの愛車は古いイタリア製のスクーターだった。スピードは出ないが、入り組んだ街中をトコトコと駆けて行くには丁度良い。にわかに春めく風を感じながら、さわやかな朝の幹線道路を抜けていく。

 パン屋の前を過ぎ、たばこ屋の角を曲がり、すると現れる、歌にでも出て来そうな長い長い坂。歌のように下り坂ではないのでブレーキをいっぱいに握りしめる必要はないが、下り坂ではないのでエンジンは唸りをあげることになる。

 坂を登った先には、天空をも穿つようなタワーマンションがそびえ建っていた。


みどりー!」

 オートロックのカメラに向かって呼びかける。マンションは親友のみどりの自宅だった。翠は葵の幼馴染で、別々のダイオ学に進学して以降も親交があった。

『はいはーい。今開けるよ』

 エントランスのドアを潜り、葵はエレベーターに乗り込んだ。エレベーターが上昇している間に、ヘルメットを外してシートの下に仕舞う。

(髪、伸びてきたなぁ)

 染めた髪先を弄くり回しながら、葵は思案する。色もプリンになってきているし、翠は染めた方がかわいいと言ってくれるけど、いっそ一度完全に抜いてしまった方がいいのかも、なんてことを考える。


「えー? そうかな…わたしは染めた方がいいと思うけど……」

 部屋に入ってからその話をすると、案の定翠は異を唱えた。

 お茶を飲みながらそんな話をする。他愛もない時間だが、ふたりにとってかけがえのないひとときでもあった。葵は研究、翠は仕事で忙しい。週に一度、こうして駄弁る時間が計り知れない息抜きになっている。

「いっそ切るのもテかなー」

「…まぁ、葵の好きにすればいいと思うけど」

「ふてくされんなよー」

「ふてくされてないし!」

 葵のほうでは翠は、大切な幼馴染で親友、という位置づけだが、翠は違うらしい。容姿が性格が、そして何よりも人間として葵が好きだと宣言された。葵の答えは聞いてもいない、ただ翠だけの意志だった。


 玄関の三和土たたきからスクーターを廊下へ運び出し、自分でメットを着けて翠にも渡す。軽いツーリングだ。駐輪場に置けばいいのに、と言われても、葵は断固拒否した。離れがたき愛車なのだ。

 マンションから出る。街へ繰り出すには、この長い坂を下りねばならない。エンジンをかけなくても、二人乗りの重量でそれなりに転がってくれる。葵に続いて翠もスクーターに跨がった。


「ねえ!」

「なに!?」

「今日はどこ行こっか!」

「どこでもいいよ! どこでも行けるから!」

 どんな一日になるのだろう。

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