宵闇の一幕
酒場を脱して
「――いるんでしょう」
振り返らず、闇に向かって問いかける。風のない夜に空気が歪んだ。
『さすがだな、“急な
流気師は男とも女ともつかぬ声で話しかけてきた。大気が歪むだけで姿は見えない。声も音の方向はわからない……まさに空気を流す者の名に相応しい腕前だった。否、ここにすらいないのかもしれない。音は空気の波だ。普通は距離が離れれば消えてしまうそれを、元の音量を保ったままアリーザの耳に届けることも可能かもしれない。気配にしてもそうだ。空気の塊を動かせば……。
「何か用?」
考えるのはやめだ。アリーザは音もなく剣を抜いた。月の光も薄い闇の筈だったが――刀身は、ルビーのように赤黒く煌めいた。
『抜いたか』
流気師が笑ったように感じられた。哄笑か嘲笑か……一体何をもってして、この夜にアリーザに喧嘩を売ったのか。
アリーザがかつて「拷問人」として名を馳せたのは、そのほとんどがなりゆきによるものだ。闇医者の父の影響か、幼い頃から人体の構造に詳しく、またアカデミーでは心理学を専攻。剣技に秀で、頭の回転も速い優等生。
転機は自宅に侵入した賊だった。両親と違って武術の心得のあったアリーザは一瞬で敵を打ち倒し、独断で拷問を開始した。それはもはや本能といってもいい手際であり、締め上げられた賊を捕らえた保安官によれば、「人のやる仕打ちではない」――アリーザは家族を守った英雄であると同時に、その血濡れた才能を然るべき場所に生かさねばならなかった。
拷問した数は覚えていない。法の闇をかいくぐった連中を捕まえ、吊るし上げ、晒した。「急な拷問者」に逆らう者はいなかった。いつの間にかアリーザは生ける都市伝説として有名になった。
『私は流気師だ。わかるな?』
「そんなこともわからないやつは、この世界では用なしだわ」
幾多の血を啜った愛刀が、生き物ではないそれが…鈍く、赤い霧を纏い始める。
「流気師相手に拷問が通じるか……見物ね。一応もう一回訊いておく、用件は?」
『くくっ、面白いやつだな。元よりわかっておろう? 浮世は一夜の夢……なればこそ、人の世界は面白い』
通じているようで微妙に噛み合わない会話。
同種の、狂人。
アリーザの剣が閃いた。
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