方舟

 実態のない好景気というのはいつ弾けるのかがわからない。わが国でいえば、それはまさしく泡と消えた、平成初頭のいわゆるバブルがそれだろう。詳しいことなどわかりはしないが、あのときの日本列島は狂っていて、そしてバブルを崩壊に導き平成不況を引き起こした政府は、輪をかけて狂っていたということははっきりしていた。


 崩壊の足音が近付く1990年秋、私は当時の日本を代表する大企業──今は海外に買い叩かれて見る影もない──に勤めていた。新卒3年目にしてはそれなりのお給料を貰えていて、当時としても年齢のわりにいい暮らしができていた。しかしながらXデーは近く、テレビで報道される連日の株価下落は社内に暗い影を落としていた。

 西にし歩美あゆみという、いわゆるボディコン風の服を纏った女性が、当時の私の直属の上司だった。彼女は業績をあげて社に気に入られる一方で、近づく崩壊に備えて策を練っていた。その営業ノウハウや経済的知識を生かした、仲間数人を引き連れての起業。当時会社に融資していた銀行にも黒い噂が付き纏い、誰もがこの会社を長くないだろうと判断していた中で、彼女の計画はさながら聖書の『ノアの方舟』だった。


牧島まきしまさん」

 昼休み。席を確保しようとうろついていた私の肩を、西が叩いた。

「最近どう? 調子は?」

 何気ない質問。普段からテキパキとワークをこなし、ともすれば強い語調に同僚・部下問わず気圧されることもあった彼女は、ごく柔らかい声音を発していた。

「おかげさまで好調です」

 いい役職も貰えていますし。その後も他愛のない会話を続けていると、急に西が私の耳元に口を寄せた。

「噂は知ってる?」

 突然のことでドキリとしたが、私は辺りを窺いながら首肯した。

「そう。じゃ……」

 西は言った。方舟に乗る気はある? と。

「貴女の才能を買ってるの。ポジションも決めてある」

 さっきとは一転して鋭く、静かで、どこか妖しさを孕んだ声だった。

「私は…………」

 肚は決まっていた。ただ、揺れてもいた。


「……ごめんなさい。ありがたい申し出ですが」

「……そう」

 残念だとも考え直せとも言わず、彼女は去っていった。


 今、私はまったく別業種のまったく違う業務内容で、それなりに楽しくやっている。西が仲間たちと設立した会社の噂は畑違いのせいか一切耳にしなかった。

 折に触れては、あのとき方舟に乗っていたらどうなったのだろう? と思い出すことがある。そして、西が褒めてくれた喜びも、決まって同時に想起するのだった。

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