夜雨

 「ねぇ、ねぇってば」

 夜半。

 雨のそぼ降る中、私は未紀みきの手を引いて、足場の悪い山道をくだっていた。

「ねえっ、おり、本当にあのまま――」

「未紀」

 立ち止まって、真っ直ぐに未紀を見据える。

「考えなくていい。もう何も……あとは私に任せて。行こう」

「うん」


 数十分前。地元の先輩と結婚し、疎遠になっていた未紀から私のケータイに連絡があった。

『夫を殺してしまったかもしれない』

 電話口で、そう告げられた。狼狽する未紀を窘め、すぐ行くから、場所教えて、と聞き出しつつ、普段着の上からレインコートを羽織った。未紀は近所の山の中にいるらしい。車を飛ばす。

 現場に着く。昼間ならハイキングコースとして人もいる場所だが、夜なうえに雨も降っている。さらにコースから少し外れた場所だった。そこで傘もささずに立ち尽くす未紀と、その傍らに転がる血のついたシャベル、そしてくだんの未紀の夫が倒れていた。

「未紀」

「……パートきつくて、辞めたの」

 私が求める前から、未紀はうわ言のように説明を始めた。

「……それで、達彦たつひこに、この人にそう言ったら、身体売れって。嫌だって言ったら、殴られて……」

 そこまで言うと、彼女は肩を震わせて泣き出した。しかし、声もなく、嗚咽だけが漏れる。

「未紀」

 持ってきたジャンパーを被せる。

「落ち着いて。ね」


 未紀は夫・達彦から、日常的に暴力を受けていたという。達彦は昨年末に失職、酒とパチンコに溺れるようになり、見兼ねた未紀はパートで仕事に入るようになった。だが達彦はその金を無心、未紀が拒否すると横っ面を張った……ところどころでえづきながらも、未紀は私に全容を話してくれた。こいつに同情の余地はない。ないが、それで未紀が人殺しになるなんて馬鹿馬鹿しい。

 殺すつもりで呼び出し、シャベルで襲った。未紀はそう言っている。だが、まだ生きているかどうかを確認するのは怖い、という。

 私はおそるおそる達彦の喉元を触った。生暖かい。拍動がある……生きている!

「良かった……」

 こいつがどうなろうが知ったことではない。だが、未紀がこんなやつのために罪を被る必要はない。

 私は、未紀の手を引いて現場から逃げ出した。


 雨の中、愛車を走らせる。未紀は憔悴している様子だったが、どこか憑き物が落ちたようでもあった。

「……私の家に来なよ。実家も近いし、なんとかしてあげられる……と思う」

 未紀はか細い声で、いいの、と訊いた。

「うん、私は良いよ。だから――」

 幸せになってほしい。未紀には、その権利がある。

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