施しのセイレーン

 鳴海なるみれいの泳ぎを見れば、「彼女はセイレーンの寵愛を受けている」という噂を妄言と切り捨てることはできなくなるだろう。50メートル自由形の公式記録は24秒31。これは昨夏の記録。非公式であれば23秒47と、昨年より1秒近くも速く、そして日本新記録を塗り替えている。


 玲は泳ぐことと水の中にいることが好きで、私と会った頃はよく笑い、冗談を飛ばす女の子だった。髪も今みたいに短くはなかったし、私を含めた友達とレジャー施設のプールで日がな一日遊ぶことも多かった。しかし高1の春、県大会で優勝した玲は、その頃から周囲に重い期待を寄せられるようになった。比例するように口数は少なくなり――今や、「クールなアスリート少女」で通るようになってしまった。


「何見てるの、ハンナ」

 プールサイドでタブレット端末を弄っていた私の隣に、全身をくまなく濡らした玲がやって来た。ハンナ・マイクロフト……私の名前。7歳の頃に親の都合で日本へ。以来10年、すっかり英語のイントネーションが怪しくなってしまった。

「雑誌の記事。ほら、この間の大会の」

「あぁ……」

 両手をタオルで拭いた玲に、タブレットを預ける。

「かわいく撮れてる」

 私と二人のときなら、玲はこんなふうに冗談を言ってくれるし、白い歯を見せて笑ってくれる。

「玲はいつもかわいいでしょ」

「あはは」

 本気なのに。玲はタブレットを私に返すと、自前の魔法瓶に入れたスポーツドリンクを浴びるように飲んだ。よく日焼けした肌に珠が浮かび、嚥下のたびに形のきれいな喉が鳴って、揺れる。飲み口から口を離した瞬間の、わずかに開いた唇。競泳水着はたっぷりと汗と水とを吸い込んでそのすべてが、今この時間……二人きりでプールにいるこの瞬間、私だけが見ることを許される、天使の光臨。

 本当は、雑誌にだって撮られてほしくないのに!


「……さて、じゃあもう少しだけ」

「あっ、待って玲! 」

 制服の下に、自前で買った水着を着ていた。もちろん学校指定ではないため、先生に見つかったら大目玉だ。

「だいたーん! 」

 制服を脱ぎ捨てた私に、玲は冷やかすような声をかける。私は胸元を押さえて、おおげさにやだぁ、と恥じらってみせる。

「ねぇ、玲」

 泳ごう。きっと来年はこんな風に遊ぶ余裕もないだろうし。玲はもちろん、と笑って、ノータイムで水しぶきを浴びせてきた。やったな! 私も応戦!

「ハンナ! その水着、似合ってるよ! 」

「ありがとー!! 」

 きゃあきゃあと笑い合い、私たちは水に踊った。

 


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