祈り

 生まれつき体が弱く、最寄りの総合病院によくお世話になっていた。体質によるもので、そう滅多なことでは生死にかかわらないが、普段から薬が手放せない。学校の友達と思うように遊べず、体育の授業も水泳も多くの場合見学で、とにかく煩わしいことに代わりはなかった。

 病院のベッドの上はつまらなかった。大抵、周りにいるのはお年寄りばかりで、優しくしてはくれたが世代上話は今ひとつ噛み合わないし、おまけにすぐに退院なり転院なりをするのでそのほとんどが印象に残っていない。


 あれは小4か小5ぐらいのころだったか。とにかく抜けるような秋晴れの空で、冷たく澄み渡った空気と相まってよく覚えている。私の隣のベッドに寝かされていた、上品な佇まいの老婦人に見舞いがやって来たのだ。カーテンで区切られた隣のベッドで話を聞くに、どうやら息子夫婦とその娘らしかった。

 老婦人の声、息子夫婦の声、そして娘の……老婦人の孫にあたる娘の声。久しく耳にしていない、同年代の子どもの声に、私は心を掻き立てられた。楽しそうにはしゃぐように会話する彼女の声を聞くたび、ひと目でいいから彼女を見たい、望むならこのカーテンをめくってほしい、あるいはこちらに興味を示すだけでも……私は祈った。無意識のうちに。

「あ」

 果たして祈りはすぐに通じた。ベッドの正面に立った彼女が、私のカーテンを引き開けた。互いに目を合わせ、ぱちくりとまばたきし……何事かを話す前に、彼女は親に引き取られる形で、私の前から退去した。


 次に彼女が来たときは、初めから親に許可を取ったうえで、私のカーテンがめくられた。

「ねぇ、その本なに?」

 彼女の第一声はそれだった。私は小難しい外国小説の翻訳を……要はカッコつけて読んでいたのだが、彼女がそれに興味を示してくれたことが、というより、彼女が話しかけてくれたことが、そのすべてが嬉しかった。

「これね、レ・ミゼラブルっていって――」

 話し始めると止まらなかった。彼女と話している間は、不思議と発作も出なかった。結局面会時間いっぱいまで、私と彼女は話し込んでいた。

 別れ際になってようやく、私は彼女の名前を聞き出した。個人的な価値観でいえば、彼女はとても詩的で美しい名前を持っていた。今の今まで完全に忘れていたのに、それでもこんなに楽しく話せたのは初めてだと伝えると、彼女はにこっ、と笑って言った。

「うん、また会おうね!」


 彼女との縁は、そのときからずっと繋がったままである。

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