妖狐

「ただいまー! 」

 実家でもないのに、あたしはいつもそう言ってようさんの家の引き戸を開ける。陽子さんは作家だ。あたしの家の近所に、どう考えても持て余す広さの日本家屋を構えてひとりで住んでいる。

「また来たの、陽菜乃ひなの? 」

「ねっねっ、陽子さん。新作できた? 」

 あたしが女子高生の頃から、陽子さんはこの家で雑誌に私小説エッセイや短篇小説なんかを寄稿している。まみあな陽子というペンネームで、雑誌連載分が溜まれば本にもなっているようだ。ベストセラーになったという話は聞かないが、食べていけるだけの稼ぎはあるようだ。

「そろそろ締め切り近いんじゃないの? 」

「大きなお世話よ! 言われなくても分かってますっての」

 本当かなぁ、内心訝しみつつ、あたしは陽子さんの斜め後ろに陣取った。お座敷で執筆する陽子さんの綺麗なうなじが、この位置からだとよく見えるのだ。


 ワインレッドの七分丈ワンピースに、純白のカーディガン、髪をシニヨンに結いつけ、家の中でもお化粧をしている。はじめて知り合ったときと寸分違わない容姿。顔つきも体つきも髪型もまったく同じ。好物も嫌いなものも小説の作風だって、陽子さんはびっくりするくらい「変わらない」。

 一度家族に、陽子さんは実は文字通り「よう」なんじゃないか、実はヒトに化けて社会に溶け込んでいるのではないか、と冗談めかして言われたことがある。そのときはあたしも一笑に伏したが、あれから5年くらい経って、ひしひしと実際そうなのでは? という気持ちが巻き起こってくる。


 知り合ってまる8年になる。あたしは高校も大学も卒業して、新卒で就職先も見つけたが、陽子さんは変わらない。今だってベッドの上で、駄々っ子のようにいやいやとかわいい顔を振っている。はじめて抱いたときとまったく一緒。お風呂で、ベッドで、何度も何度も唇を落とした鳩尾みぞおち黒子ほくろもずっとそこにあった。

 ときおり真剣に考えてしまうことがある。本当に陽子さんが妖狐で、あたしは騙されてるだけなんじゃないかって。でも――。

「ひな…の………やめちゃうの……? 」

 本能をくすぐる甘く弱々しい声で、まるで仔犬が鳴くように陽子さんは言った。考え事をして、手が止まっていたらしい。あたしは返事の代わりに優しく彼女の頭を撫ぜた。

「やめませんよ。最後まできっちり付き合ってあげます」

「よかった」

 陽子さんは無邪気に抱きついてきた。こんな甘えん坊が、実は妖狐。

 でもまあ、それはそれで面白いかも、ね。

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