第5話 接触開始

 ホテル「盾と真珠」の“売り”は、全室から見える海の景色と、いつでも開いているバー。


 リゾート地に来てまで朝から酒ばかり飲むはずがないと、開店当初は同業者から馬鹿にされたシステムだったが、蓋を開けてみるとリゾート地に来る連中は朝から酒をかっ食らう馬鹿ばっかりだった。


 そんなわけで通常であれば、こんな朝早い時間でもバーには客がいるはずだった。

 しかしリリィがリコウトの後について、バーに顔を出した時、そこにはほとんど客がいなかった。


 ただカウンターに突っ伏してとぐろを巻いている、赤い髪を長く伸ばした男が一人いるだけだった。非常識にも鎧を付けたままで、背には紅い鞘の剣が背負われている。


 他に客はいないものかと、リリィはぐるりと視線を巡らせた。


 あえて光量の抑えられた魔法の光が、木目調で統一されたバーをやさしく照らし出している。

 余裕を持って配置されたテーブル席は合計で六つ。その合間々々に観葉植物が配置され、居心地は悪くなさそうだ。


 しかし、そのテーブル席にもやはり客はいない。

 リコウトは、ここに安心できる答えがあるという。そうとなれば、やはり先ほどの――

 先ほどの……


 ――アレは誰!?


 リリィは自分の頭が急速に覚醒していくのを感じた。


 あの客は――そこでリリィは視線を先ほどの男へと戻す――ドッペだ。間違いない。するとリコウトの言う答えとは……


 リリィは思わず笑ってしまった。ひどく質の悪い冗談を聞かされた気分だ。なるほど、こんなホテルは暗殺者だって遠慮するだろう。


 十四万の軍勢を壊滅させる、最悪最凶の三人が逗留するホテルなんて。


 そして、リコウトの大胆さにも笑みを浮かべずにはいられない。この三人がリコウトを探しているのは報告にもあった。


 その目的は決して穏やかなものではないはずだ。それなのに一緒のホテルに泊まるというのはどういう神経だろうか。暗殺者を防ぐためだけとは思えない。


 確実にリコウトも、どこかのネジが外れている人間だ。


 そのネジ外れが、バーの中に足を踏み入れる。それはつまりドッペへと向かっていくということなのだが、その足取りに怯えた様子はない。

 相手が酔っていると思って、安心しているのだろうか。


「誰だ?」


 その酔っているはずの相手から、鋭い誰何の声。


「客です。バーテンがどこにいるかは、ご存じじゃないですか?」


 平然と答えるリコウト。あるいはその声に違和感を感じたのか、ドッペはむっくりと身体を起こした。その瞳はやはり酒精に濁っている。


 その濁った瞳に映るのは、黒いビロードの上着がひどく似合わない男。


 そのベルトには、どこかで見たような短剣。かといって、それを使いこなすほどの技量はなさそうだ。

 ドッペはこの男から急速に興味を無くし、投げやりに答えた。


「知るかよ。逃げたんだろ」

「それはいけない。彼の仕事だというのに。ここのバーの品揃えぐらいいけない」


 今度のリコウトの言葉は、ドッペの瞳に光を取り戻させた。


「……確かにその通りだ。ワインばっかり並べやがって」

「ミステルの一つもあれば、許せるというものですが」


 ドッペが笑う。クックックと喉の奥で。


「そりゃあ、許せるだろうさ。自分で呑むのは勘弁だけどな」

「私も売りさばいていた口ですよ」


 ドッペが初めて、リコウトの方を見た。そして眉をひそめる。


「――ちなみにミステルというのは、アルコールに葡萄ジュースを流し込んだ、きわめて乱暴なワインもどき飲料です。えー少しばかり言いにくい話ですが、粗悪品が極まるミステルだと失明の危険もあるんですね」

「失明!?」


 すっかり置いてけぼりにされていたリリィのために、リコウトが肩越しに振り返って用語解説を行う。そして、それは悲鳴によって報われた。

 そんなリリィにリコウトは苦笑を浮かべ、ドッペへと向き直った。


「ミステルも知らねぇのか?」


 そんなリコウトを待っていたかのように、ドッペが口を開いた。


「普通、貴族のお姫様は知りません」

「貴族……そうかそうか。このぐらいのホテルだと貧乏貴族ぐらいは泊まるわなぁ」


 そこまで自分で言っておいて、ハタとドッペの動きが止まる。

 そして、改めてジロリとリコウトとリリィを睨みつけた。


「お前、俺が誰だかわかってるのか? ちょいと前も十四万の軍を蹴散らした、史上最高の剣士、ドッペ様だぞ」


 それが誇張されたものであるということは、リコウトもリリィも知っていたがそれを素直に表に出すほどの素人ではない。


「存じております。おかげで私も安心して眠ることが出来ますよ。私を狙う暗殺者達もドッペ殿はさすがに恐ろしいと見えます」


 実ににこやかに、物騒なことを言い出すリコウト。


 そのために、逆に虚を突かれた形となったドッペは思わず言葉につまる。


 そして、背負った剣の柄を握りしめ、もう一度こう尋ねた。


「お前……誰だ?」

「トルハランのリコウト」


 シャン!


 と鞘が鳴って、ドッペの手の中に青い刀身が出現する。その速さ、並みの技量ではない。しかも、アルコールの影響は微塵も感じさせない。


 そのまま剣はリコウトの首をはねる――ドッペの放つ殺気は、一瞬そんな錯覚を覚えさせた。リリィは小さな悲鳴を上げ――られない。


 ドッペを上回る殺気がリコウトの身体から発せられたからだ。

 リリィ、ドッペ共にこめかみから一筋の汗が流れ落ちる。


「……お前、堅気じゃねぇな」


 油断なく剣を構えながら、ドッペがリコウトとの間合いを計る。


「もちろん」


 と、リコウトは意外に軽く答える。と、同時に殺気も消え失せた。

 それに拍子抜けしたかのように、ドッペの構える剣先が下がる。


「あきれた度胸だな。トルハランの」

「こういうのは度胸と言いませんよ。ただ、馬鹿なだけ」

「確かに」


 思わず、リコウトの背後でリリィがうなずく。本人は小さな声で言ったつもりだったようだが、他の二人の耳にもしっかり届いていた。


 その言葉は一種の呪文だった。効果は緊張感を奪い去ること。


 リコウトとドッペは犬歯が見えるほどに、ニヤッと笑い合う。そして、ドッペは剣を一降りすると背中の鞘に収めた。


「考えてみりゃ、殺しちゃ意味がないんだった」


 苦笑を浮かべながら、ドッペがリコウトを斜めに見やる。


「はい。私は確かにラウハ殿の居場所を知っています」

「何!?」


 これからどうやって口を割らせようか――そういう段取りのはずなのに、目の前の男はいきなり最終段階に達してしまった。


 意表を突かれる、といったレベルの問題ではない。

 ドッペは頭の中をとっ散らかされてしまった。


「ただ、その答えにたどり着くまでに誤解があるかも知れません。つまるところ、私にラウハ殿をどうこうできるか? という問題になるでしょう?」


 次々と繰り出される、途中経過が吹っ飛ばされた会話。


 リリィは思わずドッペに同情した。完全にリコウトのペースに巻き込まれている。

 その予想通りと言うべきか、ドッペはうんうんとひとしきり唸った後、


「……そうだな。問題はそこだな」

「で、どうこうできるとお思いですか?」

「お前、悪党だろ」


 ドッペはいきなり決めつけた。思わず「正解」と心の中で呟いて、リリィは後ろ手で手を叩いた。


「はい悪党です」


 リコウトの方も人の良い笑みを浮かべながら、あっさりと肯定する。


「で、私が悪党だとどうなりますか?」

「どうもお前は、調子が狂うな」


 顔をしかめて、ドッペは再び首を捻る。


「……う~~ん」

「ね、悪党ごときじゃ彼女をどうこうできないでしょ?」


 タイミング良く、リコウトがドッペを誘導する。


 確かに常識的に考えれば、世界一の魔法使いをまともに相手に出来る人間はそうはいないだろう。ましてや、それを捕らえるとか殺すとなれば、自分たち三人以外には無理なはのではないか。ドッペがそう考えても不思議はない。


 実際、ラウハをどうこうしたことを知っているリリィにしてみれば、リコウトは悪党じゃ済まないんだ、と妙な感慨を覚えていた。


「つまり、途中経過はこうなるんです。私が彼女を説得した。そして彼女は私の説得に応じ、ある場所にいる。おかしなところがありますか?」


 その言葉に、ドッペは左腕を伸ばしてリコウトを制する。


「ちょっと待て、整理しよう。お前はトルハランのリコウトだな。いきなり現れたインチキ王族とかいう」

「ありゃ、言われてしまいましたよ。リリィ殿」

「それじゃ、この女があんたの婚約者か」

「ご存じでしたか――取らないで下さいよ」


 リリィは、はぁ、とため息をつく。


「そりゃ前にやってきた、おまえの部下がそう言っていたから……そうか、そこは嘘じゃないんだな」

「ひどいな、疑ってたんですか?」


 いけしゃあしゃあと答えるリコウト。それを無視してドッペはリリィへと目を向ける。


「じゃあ、あんたは貧乏貴族じゃなくて伯爵の娘なのか?」

「は、はい。身分を証明するものは、この額冠しかないんですけど。ここのところ、この人に引きずり回されて……」


 その哀れな声には、なまじ熱意のこもった弁舌よりも強い説得力があった。


「どうも嘘じゃなさそうだな……」


 ドッペは首を捻りながら、一人ごちる。

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