第5話

日が暮れても、雷雨は止まなかった。

 雄一は、いやがる信也を引きずって、市民会館の屋根の下に入った。入り口にはカギがかかっている。ガラス戸には、「大雨洪水警報につき、イベントを中止します」と張り紙がしてあった。

 雄一は、何度となく帰ろうと促したが、信也は動こうとしなかった。携帯電話が何度となく鳴ったが、信也は出ようともしないで電源を切ってしまった。雄一は尋ねた。

「家からじゃないのか?」

 信也は、違うと言った。

「……優希からか?」

 信也は、違うと再び言って聞き返した。

「君は番号知ってるのか?」

 もちろん、と雄一は答えた。メールアドレスも交換していた。

 信也から、意外な言葉が返ってきた。

「僕は、知らない」

 ぽかんとする雄一の目を見て、信也は言った。

「勝ってから、留学先の番号を教えてもらうつもりだった」

 雄一は唖然とした。

「お前、携帯の番号くらい……」

 その言葉を、信也は遮った。

「誰もいないところで、君の知らないところで、僕が優希に個人的な話をしても平気なのか」

 そりゃ、イヤだけど、と雄一は口ごもった。

「勝たないうちにそれはできない」

 信也がつぶやくと、何もない駐車場がその横顔と共に白い閃光の中に浮かび上がった。

 轟音にかき消されそうな声で、雄一は信也をたしなめた。

「どうかしてるぞ、お前」

 ああ、どうかしてる、と信也は答えた。

 稲妻の光る空を見つめて立ち上がる。

「初めて分かったんだ。君と闘うことになって。恋するって、こういうことなんだって」

 その言葉は、雄一に対する告白とも、天への祈りとも取れた。

「いい夏だった。初めてガキになれた」

 信也は、夜の駐車場の中へ駆け出した。雨粒がアスファルトに砕けてしぶきを上げている。

 待てよ、と雄一が追った。冷たい大粒の雨が痛かった。

 信也は、右へ左へステップを踏み始めた。踊ろうよ、と誘う。

「何言ってんだよ」

 雄一は呆れた。二人とも、もうずぶ濡れだった。

「勝負つけよう」

 ステップを早める信也は、さっきステージが組まれていたあたりへと後ずさりしていく。踊りながら、挑発するように、くいくいと片手で差し招いた。

「君が言い出したことだろ、ダンス勝負は」

 それはそうだが、状況が状況である。

 確かに、優希の迷いに苛立って、信也に食ってかかったのは雄一である。勝負を挑んだのもダンスを選んだのも雄一である。だが、こうなってしまっては決着のつけようがない。

「どうやって勝負決めるんだよ」

 踊る信也に引っ張られるように、雄一は駐車場の中央に向かって歩いていった。国道脇の街灯の光で、降る雨が何重ものカーテンにもなって揺れている。

 誰かが雄一の肩を叩いて言った。

「それは僕が指定しよう」

 透明のレインコートを着た男がねちこい声で言った。すぐに誰だか分かった。

「何お前だけ防水対策してんだよ」

 別に利春は悪くないのだが、自分がずぶ濡れなのを思い出した雄一は、つい毒づいた。

「心配して来てやったのに」

 当然の抗議である。

「本当は帰る気だったろ」

 冗談のつもりだったが、利春は明らかに言葉に詰まっていた。代わりに、耳を聾するほどの雨音の中にも凛として響き渡る澄んだ声が答えた。

「アタシが誘った」

 小さな折り畳み傘をさしたすらりとした影が、街灯の光を背に歩いてきた。豊かな曲線が、艶かしく震え、揺れていた。

 轟音と共にまた光った。横殴りの雨に濡れるジーンズは張り詰め、Tシャツは肢体にまとわりついている。

「電話くらい出てよね」

 口を尖らせた沙流がいた。 雄一には理解できない外国語の詩をラップのリズムで口ずさみながら踊っていた信也が、皮肉たっぷりに言った。

「契約はいいのか」

 鼻で笑って、沙流が答える。

「アタシの代わりなんかゴマンといるから」

 それで済むのか、という問いに、沙流は答えなかった。信也は続けて言った。

「見届けありがとう、サル」

 沙流は嫌味っぽく返す。

「どういたしまして。アタシが教えたんだもの、トーゼン」

 雄一には僕が、と利春がアピールする。雄一は、空気読め、とたしなめた。沙流は利春に近寄ると、耳元で囁く。

「傘アリガト」

 コンビニのレインコートなんて安いもんですから、と答える利春の声は甲高かった。

「で、勝負はどうやってつける?」

 信也が足を踏み鳴らす度に、水飛沫が街灯の光と稲妻に照らされ、花火のように光って飛んだ。

 沙流が雄一に体を押し付けた。おい雄一、と利春が突っ込む。冷え切った体に、柔らかく、温かいものが触れる。沙流の熱い息が耳をくすぐる。

「アタシにも見せてよ……シンヤにもできない技」

 利春がたまりかねて絶叫した。

「踊れよ、雄一! 技は教えただろ!」

 信也が誘う。

「そういうことか……来い、雄一!」

 雷鳴が遠ざかっていく。しかし稲妻は閃いていた。白く照らし出された信也が、不敵に笑いながら踊っている。

 雄一は浅い池のようになったアスファルトの地面を蹴って走り出した。


 要は、こういうことである。

 互いに相手のステップや技をそのまま返す。返せなかったら負け。

 音源がないから、歌でリズムを取るのは、誰でもいい。

 もちろん、雄一や信也も歌ってリードするのは構わない。

 ただし、それでダンスに集中できなくなるのは覚悟する。

 ルールは単純なものだが、それでも雄一は苦戦していた。

 信也のステップについていくのは何でもない。驚いたのは、その多様さである。

 ヒップホップの重心は低いので、足元が多少滑りやすくても倒れにくい。だが、前後左右に、しかもリズムをとりながら速いテンポでステップを踏むのは、簡単なことではない。

「雄一、テンポ上げろ!」

 そんなこと言ったって、と雄一は思う。歌詞は信也が歌っているのだから、リードされるのが当たり前である。

「じゃあ歌え、利春」

 沙流が無愛想に言った。ほとんど命令口調である。利春は慌てた。

「僕が?」

 胡散臭そうに、沙流が目を細めてジロリと見る。

「知らないでダンス教えてたの?」

 利春は口ごもる。

「いや、ダンスっていうよりは……」

 その言葉を、雄一は技で継いで見せた。

 体が回転する。腰から発したパワーが、右肘を伝わって掌から抜ける。左手がそれに倣う。蹴り上げた脚がその両手の描く軌道を追って体の前面を回転する。

 信也が一瞬うろたえ、ステップが乱れた。

「太極拳?」

 沙流の問いに利春は答えなかった。

「行けるぞ、雄一!」

 オタクの利春が断片的に仕入れてきた生兵法だった。これを取り入れるのを思いついた利春は言ったものである。

 ……ヒップホップダンスの始まりは、アメリカのハーレムなどで行われていたブロックパーティと呼ばれる集会でのダンスだった。もともとの黒人文化がポップカルチャーを吸収し、さらには中南米や南米の文化を取り入れて、現在に至っている。それならば、他の文化圏の技も取り入れていいだろう。たとえば……

 雄一は腰をそろえて低く落とす。握り拳を作って左右に開き、側面に足を蹴り上げる。

「これは?」

 面白そうに沙流が聞く。利春が答える。

「八極拳」

 雄一は大きく踏み込む。水飛沫が高く上がる。右肘に左手を添え、拳を打ち上げる。利春がつぶやく。

「端脚穿砲」

 沙流はふふと笑った。

「ハラ蹴られて前のめり……相手の顔面をウチ抜く……」

 信也は、見たこともないはずの雄一の技に何とかついてきていたが、ステップは明らかに乱れていた。歌はもう歌っていない。英語を使えない雄一の口ずさむ、デタラメのリズムに呑まれている。

 風がどっと吹く。雨が水浸しになったアスファルトの地面を撫でる。白い波が幾筋も、街灯の光に照らされて立った。

 沙流が叫ぶ。

「ゴー! 信也!」

 突然、信也が地面に両手を突いた。体を強引に持ち上げる。へえと声を上げる利春に、沙流は勿体をつける。

「パワームーブ?」

「マア見てな」

 雄一の目の前に左右の踵が連続して降ってくる。技の名前であろう、沙流が叫んだ。

「メーア・ルーア・ディ・コンパッソ!」

 危ない、と思ったが、別に殴り合いをやっているわけではない。信也を信用していればいいのである。雄一も地面に手をついて、同じ技をクリアした。

 今度はしゃがみこんで後方に手を突き、バク転を打つ。これもデタラメ歌いながらクリアした。

 信也は次々に技を繰り出す。繰り出すたびに水飛沫が上がる。

 水飛沫など何でもない。雨水をたっぷり吸い込んだ服が重く体にまとわりついてくるが、それは信也も同じことである。

 だが、YOだのCHECKITOUTだの適当に歌っている雄一のほうがリズムを外すようになってきた。

 もう、信也を真似るのが精一杯である。自分の技が繰り出せない。

 そしてついに、大技が来た。

 信也が横に跳んだ。雄一も追う。

 側転を打つかと思いきや、足は上でなく正面に左右続けて、竹トンボの羽が回るように跳んできた。その足に薙ぎ倒される形で、雄一は転倒した。

 アウー・ヘリコプテロ、という沙流の言葉に、利春が息を呑んでつぶやいた。

「カポエラ……」

 雨粒の砕け散る水浸しのアスファルトに手をついて起き上がりながら、雄一は腹の中で利春に毒づいた。

 ……何が太極拳だ! 八極拳だ!

 カポエラが南米の格闘技で、その技がヒップホップにも取り入れられていることぐらい知っている。

 予め分かっていれば他のジャンルで工夫したのに、利春はダンスのタイプとか、大技とか、そういった肝心なことは全く見てこなかったのだ。要するに沙流に見とれて帰ってきただけなのである。

 もっとも、雄一には信也のやっていることを知る気もなかったのだから、動機はどうあれ夜中に手間隙かけた利春を責める資格はないのだが。

 何にせよ、リズムは取れない、技の大きさや数でも及ばない。

「大丈夫か?」

 信也が手を差し伸べてくる。悔しかった。

 自分の得意分野でさえも、信也には及ばないのか? 雄一は、暗い影となった信也の顔を見つめて唇を噛みしめた。

 そのとき、駐車場の入り口に小柄な影が見えた。

 街灯の明かりが滝のような雨の様子をぼんやりと照らしている。

 傘をさして歩いてくる、白いTシャツにデニムの半ズボンを履いた少女。

 かすかな声がためらいがちに言った。

「勝ってって、言ったじゃない」

 優希の声だった。

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