第4話


 山肌を駆け下りてくる風の匂いが変わる。

 晴れたときなら木々の間を抜けてくるとき、風は草木の葉の清々しい香りだけを運んでくる。

 だが、雨が降る前は違う。一瞬、すっと冷たくなったかと思うと、土と草の吐く暑苦しい息を押し流してくるのだ。

 川風が町並みを抜けて吹き上がってくる。強い風だった。おい、雨降るぞという声がどこからか聞こえた。

「まずいんじゃないの」

 タコヤキの皿をゴミ箱に捨ててきた利春が他人事のように言った。

 ちっとは心配しろよ、と雄一がぼやく。してるよ、と答えた利春は、信也に同意を求めた。

「僕が雨を止められるなら、そうしてるよ。な?」

「確かにね」

 信也は首をかしげて微笑した。何で笑っていられるのか。雄一は腹立たしく思った。

 自分との勝負など、どうなってもいいというのだろうか。

 利春に向けられた信也の笑顔を、雄一は唇をかみしめながら見つめる。信也もその視線に気付いたようだったが、雄一を一瞥しただけでふと空を見上げた。その顔に、もう微笑はない。確かにまずいな、と溜息まじりにつぶやいた。

 ダンス会場はすでに設営されていた。

 イベントは午後9時ごろまでの予定なので、様々な高さと角度にいくつもの大きな照明機材が固定されている。地面から30センチばかりの高さがある平たい台が6メートル四方の正方形になるように並べられ、薄いマットが敷かれていた。

 そのマットの上に、ぽつり、ぽつりと灰色の点が浮かび始めている。

 雄一の肌にも、微かではあるが冷たいものがぱらぱらと感じられるようになってきた。あーあ、とつまらなさそうに利春がつぶやく。

「そういう声出すなよな」

 雄一の非難を、利春はさらりとかわす。

「同情して言ってるんだけど」

「お前の同情などいらんわ」

 むすっとする雄一をなだめるように、信也は言った。

「様子を見るしかないよ」

 ダンス会場の周りに設営されたテントには、既に司会や審査員が入っていた。そこへ関係者と思しき、そろいのTシャツをきた数名がせわしなく出たり入ったりしている。

 やがて、照明サービス会社のロゴ入りTシャツを着た体の大きな男たちがやってきた。かついできた脚立を照明機材の隣で開いて登り始める。男たちはてきぱきと手を動かし、ひとつ、またひとつと照明を撤去していった。

 そして、ダンス会場には正方形のリングだけが残された。

「そろそろ時間じゃないか」

 利春が二人の間に割り込んだ。信也に、そして雄一に腕時計を見せる。

 きっかり6時だった。大粒の雨がばらばらと降ってくる。

 主催の、町役場か何かの管理職らしい、丸メガネをかけた小太りの中年男が壇上に立って中止を宣言した。会場のあちこちからブーイングが聞こえた。

「てなわけで帰るね」

 今日中に帰らないと厳しいんだ、と沙流はすたすたと歩き出した。

「じゃあ、僕も」

 利春が後を追う。その下心は雄一にも見え見えだった。

「帰れ帰れ」

 信也がすげなく言って、雄一にも背を向けて歩き出す。どこへ行くのかと見れば、参加者に吊るし上げを食っている主催者が立ち尽くしているお立ち台である。

「おい、よせよ」

 参加者の群れをかき分けかき分け進む信也を、雄一は追いかけた。この場を収めようとしているのかと思ったのである。

「ちょっと待ってください!」

「やめろよ」

 信也が抗議の言葉を発したのは、その肩を雄一が掴むよりも一瞬早かった。

 視線が集中している。

 頭をタオルで包んだ、目つきの悪い若い男。

 三分刈りの頭にバッテンの刻みが入った、サングラスの男。

 ガムをくちゃくちゃ噛んでいる、ブカブカズボンの男……。

 そして、一人だけ浮いている、壇上の中年男。

 雄一が追いついた信也の顔は壇上を向いていた。

「もう少し様子を見てからでも……」

「中止です」

「雨が強くなるとは限ら……」

「中止です」

「みんなずっと待って……」

「中止です」

 少し鼻にかかった、男にしては高い声が柔らかい口調で信也の声を遮り続けた。

 雄一の目からは、メガネの向こうの目がどんな様子であるのか分からない。だが、信也は怒りのはっきりと分かる口調で声を荒げた。

「人の話は最後まで聞くもんでしょう!」

 雄一は思わず、信也の肩を離して後じさった。二人の周りに、半径1mほどの空間ができる。信也はそんなことなどおかまいなく、言葉を続けた。

「夏の雨がそんなに長いこと降るとは限りません! この時間なら夕立ってこともあるでしょう! 天気予報なんかに怖気づいて、ちょっと雨がぱらついたぐらいで、イベントってのはな、主催者だけのものじゃないんですよ!」

 信也の言うことは、論理が通っているようで通っていなかった。

 雲は低く垂れ込めていて、風も強くなってきている。現に、天から吹きつけてくる風は、もう顔を横殴りするくらいの勢いになっていた。

 二人を取り囲んでいた人垣が、波となって引いていく。信也の言葉に答える者は誰もいなかった。

「そこどいて」

 言われるなりに、雄一は信也の腕を掴んでその場を離れた。

 役場の人かボランティアの人かは分からないが、四人が四隅を持ってお立ち台を撤去していった。

 テントを解体するときの、布のばさばさいう音や、鉄パイプの打ち合う、耳に痛い音がする。照明の業者はとっくに機材を撤収して帰っていた。

 風に揺れる山の木々の、枝や木の葉の音が雄一の耳にまで聞こえるようになった頃には、もう、イベント会場だったところには、誰もいなくなっていた。

「帰ろうぜ」

 雄一は信也の腕を掴んで促した。

「いやだ」

 駐車場から、信也は一歩たりとも出ようとはしなかった。雄一が力を込めて腕を引いても、駄々をこねる幼児のように、テコでも動かない。 

「もう終わったんだ」

 雄一がなだめると信也は、終わってない、と腕を振りほどいた。俯いたまま、立ち尽くしている。風が雨粒を吹き付けてきていた。

 本格的にくるぞと説得しても、信也は応じない。

「君も帰るのか」

 物凄い形相で睨みつける目に、雄一はどう返答していいか分からなかった。落ち着けよと言うくらいしかなかった。

 僕は冷静だと主張する信也だったが、そう言う声は裏返っている。雄一は信也の両肩に手を置いた。

「ダンスバトルは中止。優希も来なかった。じゃあ、何すればいいんだよ」

 信也はその腕をはねのけ、雄一の胸倉を掴んだ。

「君はそれでいいのかよ。君の優希への気持ちはそんなもんかよ」

 手首をぐっと捻る。雄一の首から上が反り返った。

 空を仰ぐ雄一の顔に、ばらばらと雨粒が叩きつけられた。駐車場のアスファルト面が、ざあっと鳴った。暑苦しい風が吹いて、雄一のシャツを濡らした。

 苦しい息の中では、離せと言うのが精一杯だった。どさりと下ろされて、雄一は尻餅をついた。

 手をついたところのアスファルトは熱く焼けたまま雨に濡れ、ぬるい水溜りを作っていた。冷たい雨が顔にかかる。

 見上げると、熱いしずくが雄一の頬に落ちた。伏せた顔が影になってよく分からないが、信也が泣いているのだと分かった。

 涙でむせぶ声が言った。

「君は、そこまでいい加減だったのか」

 いい加減と言われると反論できないが、今の信也には言われたくない。

「お前がムチャなんだろ」

 言ってることワケわかんねえし、と吐き捨てて立ち上がろうとした雄一は、ぶつかってきた信也に押し倒された。というよりも、信也がしがみついてきたせいでバランスを崩したのである。転んで強かに頭を打つ。結構痛かった。呻いたところで、信也が泣きながら体を起こした。

「大丈夫か?」

 打ったところをさすりながら、雄一は信也の脚の下から這いずり出る。

「大丈夫なわけないだろ」

「ごめん」

 声の調子が元の信也に戻っていた。

 辺りはそろそろ暗くなり始めていた。国道を走る車が水をはねる音が、ひっきりなしに聞こえている。

 一瞬、辺りが真っ白になって、再び暗く淀んだ雨の日の光景が戻ってきた。雷鳴が遠くから聞こえてきた。

「本当に降るぞ」

「うん」

「大雨になるかもしれないな」

「そうだな」

 また一瞬光って、雨とも涙ともつかないものでぐしゃぐしゃに濡れた信也の顔が見えた。雷鳴が近づいていた。

「帰ろうぜ」

 雄一は再びさっきの言葉を繰り返した。

「いやだ」

 信也の言葉で、全ては振り出しに戻った。

 また光ったと思うと、轟音で全身が震えた。辺りが真っ暗になって、滝のような雨が頭から叩きつけるように降ってきた。

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