第3話

「遅いぞ」

 雄一の抗議に、斎賀信也は風に乱れるさらさらした前髪を押さえながら、ごめんごめんと謝った。それだけで、信也の周りだけが空気が澄んでいるような気する。

「どこ行ってたんだよ」

 信也は答えないで、雄一に尋ねた。

「受付、どこ?」

「終わっちまったよ!」

 信也に食って掛かる雄一を、利春は押し留めた。

「いいだろ、だったら不戦勝じゃん」

「そういう問題じゃない」

 利春に噛み付く雄一を、信也が引き離した。

「不戦敗なんて、僕も認めない」

 信也の声にさっきとは違う重い響きを感じて、雄一は信也の顔を見た。その瞬間、受け付けのほうを眺めやったせいでよく見えなかったが、その顔は不敵に笑っていたようにも見えた。

 やがて、信也は雄一と利春に向き直った。二人の顔をかわるがわる見つめ、にっこりと微笑する。

「なんとかなるよ」

 雄一の腕を掴んで、受け付けのテントに向かって歩き出す。

 そのとき、背中から、「オイ!」と呼ぶ声が聞こえた。利春が、あ、とつぶやく。

 振り向くと、麦藁帽子の少女が、つかつかと歩み寄るところだった。さっき会った真間沙流である。

 沙流は、ものも言わずにきれいな素足をサンダルから引き抜く。すらりとしたジーンズの足を振り上げて、信也に向けて右上段ハイキックを見舞う。ダンスバトル開催を待つ出場者がどよめいた。

 そんなことなど気にする様子もなく、信也は空いた手でそれを軽くブロックした。

 待たすんじゃないよ、とサンダルに足を戻しながら乱れた長い黒髪を撫で付ける少女を、サル、となだめるように呼ぶ。

「サリュウだサリュウ」

 少女はそう言うなり、雄一など無視して信也の首に手を回した。

「見に来てやったのに」

 心配ご無用、とすりぬける信也。再びサンダルから足を引き抜こうとする少女を、一言でたしなめる。

「目立つぞ」

 少女はそのままの姿勢で固まった。集中する視線にようやく気付いたというふうに、もじもじと肩をすくめる。そこへ再び携帯電話が鳴って、少女は余計にうろたえた。そこへ何故か利春が、あっちへ行きましょうと促した。

「行こうか」

 信也は雄一を引きずって再び歩き出す。

 雄一がさっきの少女のほうをちらと見やると、そそくさとその場を離れるところだった。利春が、まるで尾行するストーカーのようにとことことついていく。何だアレ、と少女を指差す雄一のほうを振り向きもしないで、面倒くさそうに信也が答えた。

「イトコ。僕よりちょっと年上の。母方の叔父がブラジルで企業を起こしててさ。現地の女性と結婚したんだ」

 雄一としては、何だか聞きたくない話だった。優希の留学について聞いた時もそうだったが、地べたから雲の上の相手を眺めているような気がした。だが、雄一は努めて平生を装った。

「さっき会ったよ」

 名刺を渡すと、信也はぷっと吹き出した。

「ああ、先に来てたのか」

 信也は何でもないという風に答えた。

「叔父の支社が東京にあってさ。その仕事の都合で日本とブラジルの間を行ったり来たりしているうちにモデルにスカウトされたんだって。小遣い稼ぎに引き受けてみたらしいよ」

 オレはお前と違う世界に住んでるんだ、と言われているようで腹が立ってきた。それでも雄一は、自分にもそんなことは何でもないという顔をする。

「売れてるのか?」

「さあ。本人は忙しくなったって。夏休み明けたら、東京のバアちゃん家に下宿するってさ。日本の学校に通うって。」

 そこで信也と夜中にダンスを練習していたという話を思い出して慌てた。

「お前ん家に住んでるのか?」

「ブラジルの学校、7月から休みだから」

 取り乱してしまったのに気付いて、こんどは冷静にからかってみる。

「よく女子にバレなかったな」

「昼間は寝てる。時差ボケが直らないんだってさ。」

 あっさり答えた信也は、にこっと笑って不意打ちを食らわしてきた。

「あ、優希は了解済みってことで」

 エントリーは、信也が受付の担当者に「まだ間に合いますか」と聞いただけで難なく片付いた。

 そのとき、参加者名簿の隣に置かれた時計は、5時35分を指していた。受け付け担当者は「いいよ」と簡単に言って、名簿の信也と雄一の出席欄に大きなマルを書き込んだものである。

 参加者は、一列に並んだベンチに腰掛けてイベントの開始を待っていた。その列の一番最後に座った雄一は、その隣に座った信也の顔を見もしないで尋ねた。

「何で?」

 信也はくすくす笑った。まるで悪戯を成功させた後のガキ大将のように。思わずむっとした雄一が睨みつけると、信也は笑顔のまま肩をすくめて見せた。

「田舎のお祭りなんてこんなもんさ」

 ぽん、と雄一の肩を叩いて付け加える。

「案外マジメだな、お前」

 「案外」が余計だと雄一は思った。

 もしかすると、たかが田舎町の観光イベントと高をくくっているのかもしれない。だから、締め切りを過ぎても堂々とエントリーを要求できたのではないか。

 そう思うと、雄一は自分がイベントごと侮られているような気がしてたまらなく悔しくなった。

 信也の手を払いのけて睨みつける。

「甘く見るなよ」

 何を、と首をかしげて、信也は相変わらずニコニコ笑っていた。

 学校中の女子生徒を虜にしているのは、この笑顔である。誰に対しても向けられる、友好と信頼の笑みである。決して嘲笑ではない。だが、それだけに、雄一は無性に腹が立ってきた。

「秋月がイナカだからって」

 そりゃ確かにそうだけど、と信也は空を見上げる。雄一も曇り空を見上げた。

 相変わらず厚い雲が波打ち、渦を巻いている。

 天気予報では、雨は降らないことになっていた。このまま降らないでほしい、と雄一は天を拝みたい気持ちだった。

 そんな雄一の思いをよそに、信也は強い口調で言葉を継いだ。

「だから菅野さんは出て行くんだよ」

 そんなことは分かっている。信也に説教されるまでもない。優希は、雄一とは違う。こんな田舎町にくすぶっていてはいけないのである。雄一の手の届かないところへ行ってしまっても、それは仕方がない。

 信也が突然つぶやいた。

「うらやましいな、海外留学なんて」

 残念だったな、と雄一は答えた。信也のつぶやきに対する皮肉のつもりだった。

 信也でも優希には敵わない。しかも、優希は信也にだって手の届かないところへ行ってしまうのだ。

 だが、信也はああ、と笑って切り返した。

「優希も失いたくないし、こんなところでじっとしていたくない」

 低くかすれた声だった。笑顔の下に、今にも爆発しそうな何かを感じて、雄一は思わずドキっとした。こんな顔をしてこんな物言いをする信也は初めてである。

 雄一は、どう答えていいか分からず押し黙った。遠くで雷の鳴る音が聞こえた。

 そのとき、急にウスターソースの匂いが鼻を打った。雄一はむせた。信也もむせ返った。

「食うか?」

 鼻先に、利春がタコヤキの皿を突き出していた。頬にモミジの跡がある。どうした、と二人が聞いても、いや、と照れ笑いをして答えない。

 男三人、しばし顔を見合わせていたが、やがて、熱いタコヤキを揃って仲良くハフハフやりはじめる。

 信也が爪楊枝を刺したタコヤキの一つを、その頭越しに伸びた手が横取りした。

「アタシもタコヤキちょ~だい」

 サル! と叫んで振り向いた信也の頭が、ずばんと張り倒された。

 ……と、いっても、冬場になると餌を求めてこの辺まで降りてくる山のサルが、タコヤキの匂いにつられて人間を襲ったワケではない。

 雄一が頭を倒して見上げると長く美しい黒髪が見えた。また優希かと思ったが、やはり沙流だった。どこ行ってたんだよ、という信也の問いにぶすっと答える。

「事務所からデンワ。ここ、デンパ悪くてさ、あっちこっち探したんだ、コウシュウデンワ」

 僕が案内して、と利春が相槌を打つ。頼まれもしないのにお節介を焼いたことは容易に想像できる。

 利春が背中のバックパックをのそのそ下ろしてジッパーを開け、中からティーン向けのファッション雑誌を取り出した。

 何ページか開き、乏しい表情にもそれと分かるニヤニヤぶりで、モミジのついた頬をさすりながら雄一にグラビアページを見せる。ちゃっかりサインなんかもらっていた。

 こいつ、ここまでオタクだったかと、雄一は胸のうちで毒づいた。道理で、不戦勝だの何だの言う割には不機嫌そうだったはずである。

 それにしても、二次元以外にも興味があったとは。しかも、畑違いのファッション誌……案外、オタクも侮れない。

「見たくない」

 そっぽを向いた雄一の目の前に、沙流がいた。

「アレ、アンタの友達?」

 利春を指差して尋ねた。雄一が頷くと、麦藁帽子の下のサングラスを外して真っ直ぐに見つめてきた。思わずドキっとする。

「ゴメン」

 ラテン系にしては、日本的に手を合わせて謝ってきた。

「殴ッちゃった」

 雄一が利春のほうを見ると、ニヤニヤ笑いながら、まだ赤い頬をさすっていた。何やら嬉しそうに説明する。

「いや、電話終わったら、急に」

 それ以上聞かなくても、知り合って1時間も経っていない沙流が何をしたか、雄一には想像がついた。利春は、誰も頼んでいない覗き行為の制裁を受けたのである。それでもサインを貰える根性に、雄一は感動に近いものを覚えた。

 まあ許してやってよ、と割って入った信也に、沙流も照れくさそうに額を掻く。

 やがて、電話がどうした、と話を元に戻した信也に、沙流が口を尖らせて言った。

「スグ戻れって」

 利春が、バトル見て行ったら、と割り込んでくる。

 沙流は急ぎの仕事ができたのだと説明するなり、突然、褐色に焼けたしなやかな腕で信也の頭を抱え込んだ。

「アタシの苦労は何だったんだ、え?」

 脇に挟まれてるのか豊かな胸に押し付けられているのかよく分からないヘッドロックからやっと脱出した信也は、ベンチから立ち上がって素っ気無く言った。

「心配するなよ」 

 降水確率80%、と沙流は携帯電話のディスプレイ画面を信也につきつける。

「中止になればイイのよ、こんなバトル」

 そこまで言うことないだろ、と食ってかかる信也に沙流はつまらなそうに言い返した。

「何でアタシだけ、シンヤの真剣勝負が見られないのよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る