第2話
そう思った雄一の背中を、とんと叩く者がいた。利春だろうと思って振り向く。
「斎賀来……」
……たか、とまで言わないうちに突然肩を掴まれた。ぐるっと体が回転して、麦藁帽子とサングラスが視界に飛び込んできたかと思うと、腹に鈍痛が走った。
「な……?」
何が起こったか分からないままに体を折る。麦藁帽子の下に長い黒髪が見えた。優希に見えたが、彼女の背は雄一と並んで立っても、せいぜい雄一の胸の高さまでである。
目の前にいる相手の身長は、少なくとも雄一ぐらいはあった。その相手のアッパーカットが、雄一の突き出した顎まで迫り、紙一重の差でぴたりと止まった。
アクセントのどこか不自然な、女の子の声がする。
「アンタ、何のツモリよ」
雄一にしてみれば、「それはこっちのセリフだ」というところであった。
だいたい、いきなり2発も(一発は寸止めだが)つづけざまに殴っておいて、「何のつもりだ」もないものである。
「人違いだろ」
二度三度むせて体を起こすと、革のポーチを提げてサングラスをかけた、褐色の肌をした少女がいた。
素足にサンダルを履いた細いジーンズの脚はすらりと長い。純白のキャミソールに水色の薄いジャケットを羽織っているが、豊かな胸はその存在を主張してやまない。
優希という少女が心に住んでいても、男としての生理は、理性とは別である。雄一は思わず息を呑んだ。少女がぐっと顔を近づけ、サングラスを持ち上げる。グレーの瞳が綺麗だった。だが、続く言葉はそれに似合わない全くの言いがかりだった。
「ずっと覗いてたクセに」
その声が聞こえたのか、周囲のダンスバトル参加者のひそひそ話す声が聞こえる。雄一は慌てて、声を殺して食ってかかった。
「知らないよ」
「いいや、見てた」
ますます発言が穏やかでない。雄一は更に低い声で問いただした。
「何を?」
「ダンス」
知らないよ、と雄一が答えると、少女は再びサングラスをかけるなり、ぐっと胸ぐらを掴んできた。
「見てたじゃない、カワラでシンヤと練習してたの」
その一言で事情が分かった。
信也に勝負を挑んだまではいいが、常識的に言ったら勝ち目はなかった。雄一には友人は多いが、相談に足る相手はいなかった。噂を広げられて恥をかくだけである。
いろいろ考えた末、思い当たったのは、ディープなんだか博学なんだかよく分からない、利春という幼馴染のオタクだった。
この利春しかいなかった。オタクだけに堅気の友達は少ない。そして、こんな田舎には堅気の現実主義者しかいないものである。従って、利春は必然的に「口の堅い」友人になる。
はっきり言ってアテにはしていなかった。気休め程度になればいいと思ったのである。ところが利春は、「そりゃダンスだろ」と即答したのだった。
そして、ダンスバトルに出るのを決めた数日後、利春は慌ててご注進にやってきた。オタク仲間と夜中まで怪しげなビデオ鑑賞をして帰る途中、信也が川原でダンスを教わっているを見たというのである。その相手が、この少女なのだ。
「それ、俺じゃない」
のけぞりながら弁解すると、少女は手を緩めて再度確認した。
「ナナミユウイチでしょ、アンタ」
そうだけど、と答えると胸元に手が伸びる。雄一は慌ててその手を逃れて聞き返した。
「何で知ってんだよ、俺のこと」
「シンヤがそう言った」
「人違いだって、ダンス覗いたとか覗かないとか」
「カワラの別のところでアンタもダンスしてるの見た」
雄一の練習場所は、同じ川原でも信也たちのものよりもっと上流である。
別に特訓なんかしなくてもいいと断ったのに、利春に強引に誘い出され、深夜の特訓をする羽目になったのだった。
「何でそこにいるって分かったんだよ」
「いつもアタシたち覗いてるヤツがいたから、後ツケた」
「それが何で俺だって分かるんだよ」
「カワラでダンスしてるヤツが覗きに来たってシンヤに言ったら、ナナミユウイチだって」
信也も余計なことを言ってくれたものだが、利春のことは知らないのだから仕方がない。
「よく見ろよ」
雄一は、少女の前に顔を突き出した。少女は顔をすっと引いてサングラスを上げ、雄一を頭のてっぺんから爪先までじろじろ眺めた。
「ふ~ん、コレがシンヤのライバルか」
雄一も、少女をじっと観察していた。
同じ学校の生徒ではない。よく見ると、エキゾチックな顔立ちである。こんな少女がいたら、学校で目立たないはずがない。信也とどこで知り合ったのだろう? いや、それ以前に、どういう関係なのだろうか? 信也については、ストイックだという評判はあっても、女子に軽いという噂は聞いたこともなかった。
やがて少女は脱いだ麦藁帽子で顔をバサバサやりながら言った。
「フツーの男じゃん、よく見ると」
別に顔やスタイルに自信があるわけではなかったが、そういう態度でそこまではっきり言われると面白くなかった。雄一は少女を睨みつけて問いただした。
「そこにいたの、俺だけだったか」
「もうひとりいたかな」
人違いの上、胸ぐらまで掴んだくせに、何事もなかったかのような物言いである。雄一はこちらの不機嫌が伝わるよう、一言一言にアクセントを置いて、結論を述べた。
「多分そいつ、覗いたの」
「アンタがやらせたんでしょ」
雄一には、ダンスに関しては信也より一日の長があるという自負があった。だから、敵情視察など別に要らないと、利春にはクギを刺しておいたのだった。
しかし利春は、ダンスの練習の最中に、敵情視察とか言ってちょくちょく信也の様子を見に行っていたのである。その動機がこの少女であったことは、さほど想像力を働かせなくても分かる。
「俺は関係ない」
強く言い切る雄一に、少女はふ~んと一言で答えた。まじまじと見つめてくるその顔は、結構可愛い。顔立ちは、優希と比べれば遥かに大人びている。しかし、表情はずっと子どもっぽかった。
少女は眼を閉じて額に人差し指を当て、ちょっと考えて見せてから言った。
「ま、信じてあげるよ」
はじめまして、と手を差し出した。その手の指は細かった。どうしようかためらっていると、少女は両手で雄一の手を掴んだ。すべすべした、柔らかい手だった。
「アタシ、ママ・サリュウ」
聞きなれない響きに、雄一はきょとんとした。
あ、コレ、と少女はポーチの中から名刺を取り出して渡してきた。雄一には読めない横文字が並んでいたが、何とか解読できたオフィスなんたらというところと、「真間沙流」という名前だけは分かった。
「何、これ?」
「ウチの事務所」
「事務所?」
「モデルとか、タレントとかの」
沙流と名乗った少女はオフィスなんたらと言ったが、聞き取れないのでその名前は正確には分からなかった。
へえ、と雄一は沙流の容姿を改めて見つめた。初対面にしては不躾だと気付いて視線をそらしたが、沙流は誇らしげに豊かな胸をそらした。
「ママは、シンヤのママのファミリーネーム。サリュウは、フランス語で、サヨナラって意味。でも、ウチはブラジル」
本人も無理しているらしい英語が混じっているのでよく分からないが、どうやらブラジルから来た、信也の母方の親戚らしい。ということはイトコにあたることになる。海外に親類がいるなどとは初耳だったが。
それを確かめようと、信也の、と言いかけたところで、その少女は「セコンド」と言葉を継いだ。
「セコンド?」
「シンヤ、アンタとバトルするんでしょ、ダンスで」
少女はサングラスをかけ直し、ハナシは聞いてるから、と口元に笑みを浮かべた。
「カッコいいこと考えるじゃない、顔の割に」
顔のことは余計である。
「アレ、今日来るの? 」
「アレ?」
「ノゾキ。知ってるんでしょ。見かけたら教えてね」
一方的に言うだけ言ったところで、携帯電話が鳴った。ゴメン、と電話を取った少女は、慌ててイベントの人混みの中へと駆け出していく。途中で振り向いて、またね、と叫んで手を振った。雄一も何となく手を振った。
少女の姿が見えなくなってから、雄一は気がついた。
受け付けの行列がない。開始を待つ出場者たちが、一列に並べられた長いベンチに座っている。
駐車場ゲートのほうを眺めると、利春が信也を連れてくるところだった。
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