レヴィ・ブレイク

兵藤晴佳

第1話

 8月16日午後5時の空はどんよりと曇っていた。

「ふう……たまらんな」

 七海雄一は生地の厚い帽子を脱いでばたばたと顔を仰いでいた。汗がじっとりとTシャツの下に滲んでいる。この日のために選び抜いた、多分反抗のメッセージたっぷりのアルファベットがつづられたライトグレーのシャツである。

 「多分」というのは、彼が全く英文を読めないからである。高校3年生としては実に情けない話であるが、彼はつい最近までそれを気にすることは全くなかった。

 市民会館の前にある駐車場のアスファルトは、まだ熱い空気を噴き上げていた。昼間はずっと、太陽の光が真っ白に降り注いでいたのである。

 こんなに曇ってしまったのは1時間ほど前だが、ちょうど煮えたぎる鍋に蓋をしてしまったようなもので、地面に溜め込まれた熱が行き場を失って、ダンスバトル会場全体に充満していた。町を中央をゆったりと縦断して流れる川から吹き上げてくる風も、夕涼みの助けにはなりそうになかった。

 彼の並ぶ受付の列は長かった。このダンスバトルは、今年の夏祭りのイベントの一つである。午後6時開始で、受付締め切りは5時半。既にエントリーは済ませてあるが、時間までに受付に来なければ失格。彼の待つ相手は、なかなか来なかった。

「斎賀、来たか?」

 背中を叩く者があった。頭の上からの声で誰だか察しがついたので、振り向かずに「まだだよ」と答えた。

 根木利春。背ばかりひょろ高い、うつむき加減の目をしょぼつかせた貧相なクラス一のオタク野郎だ。

 今日も多分、マイナーなアニメキャラがプリントされたTシャツにバックパックを背負っていることだろう。ダンスバトルなんかよりも、どこぞの夏コミ会場をうろうろしているのがお似合いである。それだけに、幼馴染とはいえ、こんなヤツの知恵を借りなければならなかったことが情けない。ダンスそのものがまだマイナーなのだ。だから秋月市は田舎なのである。

 利春は鼻のつまったような声で、別にいいんじゃないの、と面倒臭そうに答えた。こいつの決まり文句である。今夜に向けた特訓の間、この台詞をこの口調で何度聞かされたことか。無神経・無感動・無関心。これが利春のスタンスである。

「来なければ不戦勝。やったね」

 そういう声はつまらなそうである。

「嫌なら帰れよ」

 雄一は、ぶすっと言った。利春の口調よりも「不戦勝」の一言が問題であった。戦わずに勝っても、意味がないのである。

 優希は、今日、旅立ってしまう。出発の時間を、彼女は教えてくれなかった。このダンスバトルを見届けてから、そっとこの町を離れるつもりなのだ。

 その前に、カッコイイところを見せなくてはならない。それができなければ、優希は自分に幻滅したまま、いなくなってしまうだろう。

「そういう言い方ないだろ、ここまで付き合ったんだから」

 目を合わせようともしない雄一に、利春は不満そうに言った。だが、手を貸してくれと雄一が頼んだわけではない。利春が手助けを買って出たのである。

「勝てる相手だと思ってるの?」

 冷ややかな調子で、利春はなおも尋ねる。雄一にしてみれば、この一言は無責任に聞こえた。

「お前が勝てるって言ったんだろ!」

 斎賀信也。

 雄一と同じ地元の県立高校に通っているが、クラスは違う。雄一が底辺クラスで信也が進学クラスである。

 180cm近い身長にすらりと伸びた手足。風に揺れるさらさらした髪を撫でて、いつも朗らかな笑みを絶やさない。球技大会や体育祭ではファインプレーの連続。部活も塾もなく、夕暮れ時まで図書館で自習。夕暮れ時には真っ直ぐ帰宅して、ときには家族のために夕食まで作るという。

 つまり、普通に考えたら、女の子を争って敵うわけがない相手なのである。それが、学校でもクラスでも目立たない菅野優希であっても。

「優等生はストリートダンスに縁がないかと」

 利春は目を閉じて、もっともらしく頷いた。思いつきかよ、と呆れて溜息をついた雄一の肩を、一歩踏み出してぽん、と叩く。

「大丈夫、これやる奴、多分誰もいないから」

 ハッ、と中国拳法の横蹴りをやってみせる。ダンスに取り入れろと押し付けてきた生兵法である。普通の技では審査員の受けも悪いからと、言われるなりに練習してきた雄一だったが、ストリートダンス自体が思いつきとなると、そのリクツも怪しいものである。

 なんだかたまらなく気分が滅入ってきた雄一の肩を、利春は馴れ馴れしく叩く。

「まあ、人事を尽くして天命を待つってヤツだ」

 その手は、払いのけても払いのけても懲りることがない。

「この勝負勝って、菅野優希ゲットか、ヒューヒュー」

「冷やかしなら帰れよ」

「心配してるんだよ」

 勝負の行方を気遣って見届けにきたようには見えない。さらに利春は、咳払い一つしてから、ぼそっと尋ねる。

「で、あのクラス屈指の地味キャラ、どこがいいわけ」

 雄一は口をつぐんだ。

 優希は、遅刻も欠席もない、模範的な生徒である。休み時間はうるさい教室を避け、図書館で自習している。制服も、学校の服装規定を完璧に守って着こなしている。度の強いメガネをかけた、小柄な少女である。

 なぜこんな普通のぱっとしない少女に夢中になったのか、よくわからない。雄一自身は、軽い性格を自覚している。勉強はしない。遅刻は日常茶飯事。女の子も、スカートの短さと足の露出を友達と競うような、派手目で賑やかなタイプが好みだった。そのうえ、スタイルがよければ言うことはなかった。

 思い出すのは、5月末の衣替えの頃、放課後の教室で見かけた、長い黒髪の映える彼女の白いブラウスが不思議に眩しく見えたことぐらいである。何とも思っていない相手だから、気軽に声をかけることができた。気軽に声をかけられたから、話す機会も増えた。話せば話すほど、親しくなったのである。

 それだけのことであるが、いくら幼馴染とはいえ、利春にそこまで話す義理はなかった。

「ま、教えてくれなくてもいいけどね」

 利春は空を見上げた。雄一もそれに倣った。

 見上げると、やはり雲は厚い。いつ雨が降り出してもおかしくない。雨が降れば、このダンスバトルは中止である。優希もやって来ない。優希がやって来なければ、全てはオシマイである。優希にとっての雄一は、甲斐性なしの劣等生、思い出にする価値もない男として記憶され、いずれ忘れられてしまうだろう。

 利春が、県立から留学とはね、といかにも感心したように言った。所詮は高嶺の花だよ、と聞こえて、悔しかった。もう喋らないつもりだったが、雄一は、さっきつぐんだ口を開いた。

「嫌味かそれは」

「いいえ別に、7月ギリギリまで進路志望調査票出さなかった七海雄一君」

 確かに、6月半ばが締め切りの書類を半月も遅らせて職員室に呼び出されて大目玉を食らったのは事実である。だが、それには理由があった。

 もともと、芸能系の専門学校へ進んでダンスをやるつもりだったが、その先のことは考えていなかった。優希の影響で、将来を少しマジメに考えるようになったのである。編入学制度のある大学に進学できる専門学校を探すのが関の山だったが。

「釣り合い取れないんじゃない」

 しつこく繰り返される利春の言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。もともと空気の読めないこの男は、更に追い討ちをかけてくる。

「留学の相談、してもらえなかったんだろ」

信也が優希の相談に乗るようになったのは、7月頭の期末考査の頃だったという。そのきっかけは、図書館でたまたま同じ机に座った信也が、彼女の開いた専門分野の資料を見て声をかけたことらしい。そのときから、信也はいつも図書館で優希と同じ机にいるようになった。雄一も優希を迎えに行く度に見かけるようになり、それが気にかかってはいたのである。

 テストが終わってから思い切って事情を尋ねてみると、翌日の朝早く教室に呼び出されて、夏休みの間に海外へ行ってしまうことを告げられた。

 いつ帰国するのかも分からないという。名前を聞いたこともないような国。伯父さんが総領事。目的など聞かされても理解できない。

 ただ、そのとき分かったのは、この学校で彼女の相談に乗れるのは信也だけだったということである。

「要するに、頼りにされていなかったんじゃない、雄一。それまで留学のことも言わなかったんだろ?」

 利春は更に痛いところを突いてくる。これに対して、雄一の反論は空しいものだった。

「仕方ないだろ。優希だって、俺以外のヤツ頼ってるのは後ろめたかっただろうし」

「だったら、ムキになって勝負することなかったんじゃないの」

 雄一は反論しなかった。オタクの利春に説明したって分かるはずがなかった。くだらないことは山ほど知っているくせに恋愛には縁がない、それが雄一のオタク観である。

 あのとき、優希は言葉を選び選び回りくどい説明をしたが、要約すれば、「信也はどう思っているかは知らないが、優希は彼が好きになりかかっている」ということだった。

 雄一には返す言葉がなかった。優希の留学は、彼にどうすることもできない問題であった。せめて自分を思い出に留めて欲しかったが、もうそれすらも叶わないことが分かったのである。

 黙ったままの雄一をまっすぐ見つめて、優希が哀願するように言ったのは、この言葉だった。

 ……「じゃあ、勝ってよ。勝って私の気持ちを止めてよ」……

 別に責めたつもりはなかったのに、優希の瞳は潤んでいた。

 雄一が利春に答えられないのは、そのときに感じた胸の痛みを思い出すと、息が詰まるような思いがするからである。だが、雄一の傷心を察することができるようなデリカシーが利春にあるはずもない。なおも尋ねてくる。

「『ケンカに勝って勝負に負ける』って知ってる?」

 そのことわざの意味は知らなかった。

 確かに雄一は、信也に「勝負」を挑んだ。優希に呼び出されたあの日の午後、雄一は図書館帰りの信也を呼び止めたのである。

 一緒にいた優希が一人で帰るのを見届け、雄一は優希を迷わせるなと信也を責めた。信也はたった一言、僕も本気だと答えた。雄一は深く考えることなく、勝負しろと喚いた。その方法を尋ねられて言葉に詰まる雄一に、信也は「方法は君から後日」とだけ言い残し、優希を追ってその場を去ったのだった。

 雄一には、その時自分の言った「勝負」と、さっき利春の言った「勝負」の違いが分からない。さらに利春は畳み掛ける。

「だって、学年トップだろ、菅野優希」

 関係ないだろ、と間髪入れずに噛み付く雄一だったが、利春が一ランク高い意味で「勝つ」と言っているということだけは分かった。

 鎖につながれた猛犬が吠え掛かってきたときのように、利春はおどけてバックステップを踏む。

「信也だってトップ集団らしいぜ、クラス違うから知らないけど」

 そう言いながら、利春の視線はあちこち泳いでいる。雄一は腹立ち紛れに突っ込んだ。

「何きょろきょろしてんだよ」

「いや、斎賀来ないかな、と」

 利春は、何やらうろたえながら答えた。雄一は、絶好のチャンスとばかりに利春を追い払いにかかる。

「そこまで行って見て来いよ」

 いやそれは、と口ごもった利春だったが、負けを悟ったのか、すごすごと、開放された駐車場ゲートに向って歩き出した。

 雄一は、ほっと一息ついた。悪気はないのだろうが、いちいち心に突き刺さるような軽口をダンスバトル開始まで延々と聞かされるのはたまらない。これで、信也がやってくるまでは独りでいられる。

 見上げると、やはり雲は厚い。いつ雨が降り出してもおかしくない。雨が降れば、このダンスバトルは中止である。優希もやって来ない。優希がやって来なければ、全てはオシマイである。優希にとっての雄一は、甲斐性なしの劣等生、思い出にする価値もない男として記憶され、いずれ忘れられてしまうだろう。

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