第11幕 年上のひと
ワイズチップのアラーム機能が零次の脳に電気的シグナルを与え、零次は強制的に眠りから覚醒させられた。
「――――っ」
屋根から落ちた時点で、半時間おきにアラームを鳴らすようセットしておいてよかったと心から思う。
少しはマシになったとはいえ、心身の疲れはまだ残っている。30分といわず30時間くらい寝ていたい。
だが贅沢は言っていられなかった。早くマルヤを助けなければ。
しかし、ここはどこだろう?
頭上に広がるのはスカイスクリーンではなく、丸い照明器具が1つついた屋根。
ワイズチップのGPS機能を起動させたが、現在地不明と返ってくる。
遠くからは時折、工事のものと思わしき騒音が届く。
「ここは……?」
「気がついた?」
「!」
零次はがばっと上体を跳ね起こす。
その途端、額から何かが落ちた。
「駄目よ、まだ動いちゃ」
長い黒髪を後ろで束ねた女が、零次の肩を押して寝かせる。
30手前くらいだろうか。少しほつれた髪と困ったような表情が幸薄そうに見えた。
「キミ、すごい熱があったんだから。ほら、まだ寝てなさい」
冷たく湿ったタオルが零次の
抵抗心はあっという間に蒸発した。
「……あの、おば、お姉さん」
「えらいわねぇ、ちゃんと気を使えて。でも『おば』まで言ったらもう台無しだから。いっそ言い切られたほうが清々しいから」
「おばさん」
「ゴメン、やっぱ言い切らないで。お姉さんって呼んで」
「……すみませんお姉さん、ぼくはどうしてこんな所に?」
「私の部屋の
「親方……?」
彼女は職人なのだろうか?
「放って置くわけにもいかないから、とりあえずウチに運んだの。……具合、どう? 病院行かなきゃ駄目っぽい?」
「いえ、必要ありません。むしろ助か……いえ、平気です」
「そう――よかった」
「御迷惑かけてすみませんでした。あの、お礼はまた今度――」
立ち上がろうとした瞬間、腹から異音がする。
女は嬉しそうに頬を緩めた。
「なに、お腹減って倒れてたの? ならよかった、ちょうどお昼ご飯作ってたところなの。一緒に食べましょ?」
「いえ、そんな、悪いです」
寝かせてもらった上に食事まで御馳走になっては、申し訳なさのあまり胃に穴が空きそうだ。
「いいのいいの。というか、そうくるだろうと思って、もう2人分作っちゃったから。キミが食べてくれないとお姉さん困っちゃう」
「……は、はあ」
零次はあきらめて好意に甘えることにした。
周囲を確認。
7畳ほどの広さがある、畳敷きのワンルームマンションだった。性別というものを感じさせない、無個性で殺風景な部屋。引っ越してきたばかりにも見える。
ニュースサイトを見ようとして、だが回線が繋がらなかった。
GPSもそうだが、外部との通信を必要とする機能すべてが使えなくなっている。
まさか――こんな時に故障なんて、冗談じゃない。
「あの、お姉さんのワイズチップは大丈夫ですか?」
「私、ワイズチップは持ってないの」
「え……!?」
服装の水準から、女は平民階級だと零次は思っていた。
「それにここ、ワイズチップ使えないの。122丁目、知ってる?」
「アーミッシュ区……?」
零次は窓辺に立つ。すぐ前には細い川が排水管から流れる汚水を受け止めている。
左右に目を向ければ、隣に建つビルの天辺に赤い金属の花が咲いていた。電波妨害装置のパラボラアンテナだ。
電子通信技術に妄想じみた嫌悪感を持つ人々が暮らすエリアだ。
科学の進歩についていけない老害と時代遅れの集まり――マルヤならそう言うだろう。
女がそうした頑迷な妄想狂の一員とは、零次にはとても思えない。
「はい、できました」
部屋とキッチンを隔てるドアが開いた途端、焦げくさい臭いが室内に充満する。
どん、とテーブルに置かれた皿の上には、焦茶色の汚泥があった。
「……えっと、ウン……ふやかしたカレールーですか?」
「野菜炒めです」
零次はもはやなんだかよくわからない物体にまで加熱された具材を箸でつまみ、思い切って口に入れた。
「……調味料本来の味を活かした風味ですね。まるで
「やめて子供なのに大人の対応しないでいたたまれないから」
「ゲロ不味い」
「ゴメン、やっぱ手心お願いします」
女はテーブルに突っ伏す勢いで頭を垂れた。
「まあ、私もわかってたのよね、自分の料理スキルって低いんだなって。でも9回に1回くらいはちゃんとしたものになるのよ?」
「自慢になりませんよ。レシピ見ながら作ってます?」
「1回1回の食事にいちいちレシピ見る人ってすごい几帳面よね。真似できない」
「料理の真似のほうもあきらめたらいいのでは?」
零次はカップラーメンをもらうことにした。念には念を入れて、自分で湯を入れる。
一方、彼女は自分の作った物を普通に食べていた。
フグって自分の毒では死なないんだっけ、と零次はぼんやり考える。
「――ああ、美味しかった!」
食後、彼女はそう言った。
信じられないことだが、本心からそう言っているように見える。
「やっぱ、ご飯ってみんなで食べると美味しいわ」
「そうですね、百万人くらいでシェアすれば、あなたの料理だって薬になるかもしれません」
「そういう意味じゃなくてね。1人より、みんなで食べるほうが気持ちの上で美味しく感じるでしょ?」
「……むしろ、1人のほうが美味しいのでは?」
盆や正月、季節行事の際に家族で食卓を囲んだ時のことを思い出し、零次は息苦しいほどの圧迫感に襲われた。
重苦しい空気。マナーに反するたび、母からの威圧が神経を打ちのめす。
使用人に世話を焼かれるのにも慣れない。自分みたいな存在が他人の手を患わせていいのか、罪悪感で心臓が押し潰されそうになる。
マルヤと食べるのは嫌ではない。他の使用人たちへの手前、膳の上げ下げは頼むことになるが、いざ食べはじめるとマルヤは自分こそが主人のように、零次のことなど気にかけないでいてくれる。
彼が主人用の膳を自分に、使用人用の膳をこちらに渡していると知っても、他の誰かと食べるよりはマルヤのほうが気楽でいい。
「ねえ、大丈夫?」
現実に意識を戻すと、女の顔が目の前にあった。
「なにか辛そうな顔してるけど、そんなに私のご飯、美味しくなかった……?」
「美味しくないなんて曖昧な表現しないでください。あれは全事が万事、不味いです。存在そのものが罪深いです」
「……ちょっとひどすぎない? お姉さん泣いちゃう」
「ああ……、すみません、あれはすべての食物に対する
「どんどんコメントがひどくなっていってる!」
零次は立ち上がる。
長居はできない。袴田家の刺客か、あるいは警察がここに来れば彼女に更なる迷惑がかかってしまう。
「いろいろとありがとうございました。お礼はまたいつか、させていただきます」
「幼稚園児がそんなこと気にするもんじゃないよ」
「小学生ですよ!」
しかも3年生だ。
「まあ、早く帰ってあげなよ。お母さん心配してるよ」
「…………」
本人に悪気はないだろうが、とてつもない皮肉だ。
零次はひきつりそうになる頬をぎゅっと押さえつけた。
彼女の部屋を出る。表札に名前は書かれていない。
結局、互いに名乗ることはなかった。尋ねもしなかった。
ただひととき人生が交差しただけの相手、という暗黙の了解が2人の間でできていたからだ。
その無関心さが、零次には正直心地よかった。
アーミッシュ区を抜けてから、メールソフトを起動する。
マルヤは今、どうしているだろう。自分を裏切者と罵っているのだろうか。
メールを送りたいが、なかなか踏み出せない。
悩みに悩んで、やっと一通、短い文章を送った。
返ってきたのは『送信先不明』という無情なエラーメッセージ。
どうやらマルヤもまた、通信を遮断する場所に閉じ込められているらしい。
やりとりができなかったことに、零次はむしろほっとした。
と、視界の隅に新着メールを示すアイコンがポップアップ。
マルヤではない。知らないアドレスだった。件名には母の名前だけがある。
内容もまた素っ気なかった。
『海藤マルヤ、スティナ・ドゥーゼ両名の身柄について物申したければ、マルシャの箱を持って3日以内に袴田家に戻ってきなさい』
生まれて初めて母からもらったメールは、降伏勧告だった。
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