第10幕 悪魔の紋章
あるビルの屋根に着地したとき、怪盗の足がもつれた。
咄嗟に手をついて四つん這いになったその顔は、袴田零次のものに戻っている。
(3分くらいか、私が君の身体を操っていられるのは)
「……なんで」
(これが怪盗の戦い方だよ零次君。怪盗心得その1、『怪盗は戦士に
「心得1が長い!」
(さあどうだ、危機を乗り越えてやったぞ。ちゃんと身体を動かす権利も戻してあげた。私を信じてよかっただろう?)
「……ふざけないでくださいよ」
(え?)
零次は歯をギリギリ咬み鳴らし、吊り上げた目尻から激情の熱い涙をこぼす。
これほどまでに少年が怒りを露わにするのを、伯爵は見たことがなかった。
(どうしたんだね、零次君……?)
「別にそのまま、ぼくの身体を乗っ取ってくれてもよかった! それでもあなたなら、ぼくの遺志を汲んで、マルヤとあのお姫様を助け出してくれるって、そう信じたから! そう信じたから、身体を貸したのに! とんだ期待外れだよ、この格好つけのエセ貴族!」
(おい、どこに行くつもりだね!)
「話しかけるな!」
(そりゃないよ)
「うるさい! あなたと出会ったのは、ぼくにとって人生最大の間違いだった!」
地面の上に伯爵の顔を思い描いて、零次は力強く1歩を踏みしめる。
だがその靴底がずるりと滑った。頭から真っ逆さまに、落ちる。
「――
アスファルトにヒビが走った。その中心で大の字になった零次は、ぼんやりとスカイスクリーンに描画された青空を見上げる。
「あ、危ない……! 今、一瞬寝てた……!」
マギアプリを連続使用したツケがたたった。
運動不足の者が全力で筋トレをした後のように、手足が重い。
もう限界だ、このまま眠ってしまおう――。肉体の囁きはあまりにも魅惑的で抗いがたかった。
伯爵に――忍者マリウスに出会ったのは、半年ほど前。
既にマルヤの『仇討ち』は、はじまっていた。
敵は甦った忍者。だがどこにいるかはわからない。見つけたとしても、忍者と戦うには同等の力が必要だ。それはどうしたら手に入る?
まだ
知識も腕力も人脈もない小さな子供には、その復讐はあまりにも絶望的なものに見えた。
「オレはあきらめねえぞ」
マルヤの言葉は強気だ。けれどそれは半分、自分に言い聞かせているに過ぎない――強がりでしかなかった。具体的な方針があるわけではない。
そうして2人はせっかくの休日を、ただ足を棒にするだけで終わらせた。
「オレはもうちょい、
「そう。すごいね、マルヤは」
零次にはマルヤの駄洒落に気づく気力もない。
「ぼくは、もう……」
「お坊ちゃんはもう帰らねえとな。オレはもうちょい、融通きくけど」
名目上マルヤは零次の世話係だ。主人を放って外をぶらつくのに融通などきくはずもない。だが
「すごいよね、マルヤは。ごめん、先に帰る」
「ああ、帰れ帰れ」
マルヤは冗談めかして手をヒラヒラさせた。
その笑った顔が、一瞬、悲しげに眉をひそめたものになる。
零次は鋭いもので胸を突き刺されたような気がした。
――おまえ、本当はオレに付き合ってるだけで、仇討ちなんてどうでもいいんだろう?
マルヤの目がそう言っているように、零次には見えたのだ。
図星だった。零次にはマルヤほどの熱意はない。
見抜かれてしまっていた。どうしよう、マルヤに嫌われてしまったら?
零次は亡霊のような足取りでワイヤーウェイのホームに立つ。
それと同時に、向かいの
ワイヤーウェイからも「おまえと同じ場所にいるのは嫌だ」と言われたような気がした。
もぬけの空になったホームが目の前に広がる。
そのとき、零次は、ふと、思った。
――ここに飛び込めば、楽になるのでは。
――そうすれば、グチグチと思い悩む日々とおさらばできる。
――マルヤにさえ見放されたぼくに、生きる値打ちなんてないんだから。
足が、1歩前に進んだ。
点字ブロックを乗り越える。
同じホームにたむろする疲れた大人たちは、端っこに立つ小さな子供に気づいてさえいない。
「……あれ?」
ホームのギリギリに立ったとき。
零次は向かいのホーム下に、奇妙なものを見つけた。
ワイズチップに命じて、視界をズームさせる。
それは最初、落書きに見えた。人間の手の平に収まるほどの。
二重丸の中にアルファベットや点と線が並んだそれは、ファンタジーに出てくる魔法陣を思わせた。
ワイヤーウェイの運行に必要な機能を果たしているものとは思えない。
だが落書きにしては図柄も、描かれた場所も、手が込んでいる。
いったい誰が、どうして、あんなものを――。
そう思ったときだ。視界にメッセージが表示された。
『マリウス・グリモアをダウンロードしますか? Y/N』
「は――?」
だがどうやらそうではないらしい。
『マリウス・グリモアをダウンロードしますか? Y/N』
零次は薄く笑う。
どうでもいい。
それを手に入れたからってなにが起きるんだ。
それでぼくが死んだとして、誰が困る。
面白いじゃないか。もうどうにでもなれ。
少年はYESを選択した。
考え直す暇など与えないとばかりに、空っぽのバーが瞬時に青く染まる。
ダウンロードのあとは自動的にインストール手順がはじまった。
零次は投げやりにOKボタンを連打。
それも終わったとき、また目の前に文字が表示された。
『お待ちのホームに、王港駅行きワイヤーウェイが5両でまいります。白線の内側まで――』
駅の管理AIが利用客に一斉送信したものだ。
もう死ぬ気は失せていた。零次は言われたとおり後退する。
背中が誰かにぶつかった気配があった。
「すみません」
零次は振り返って、頭を下げる。
だが、顔を上げた先には誰もいなかった。壁や柱さえない。
「え――」
ワイヤーウェイがホームに滑り込んでくる。
磨き上げられた車体表面には、青ざめた零次と、その後ろでニヤニヤ笑う紳士の、もっと青白い顔が映っていた――。
それがマリウス伯爵との出会いだった。
零次は伯爵から、ほとんどなにも知らないといってよかった忍者のことを知ることができた。対抗する手段も。その代償も。
「マジかよ……! ずるい!」
零次の話を聞いて、マルヤは眉間に皺を寄せた。
「なんであのとき『一緒に帰ろう』って言ってくれなかったんだよ! そしたらオレが手に入れてたのによ!」
「いや、あんな所にこんなのがあるなんて、ぼくも知らなかったし」
「言い訳すんな」
「……ごめん」
「よし、オレも明日行ってみる! 案内しろよ!」
(残念だが、無意味だよ。シジル・コードは1回限りだ。我々としても、自分のコピーがあふれかえるのは愉快ではなくてね――)
もし『私』が私の前に現れたら、私は間違いなくブン殴るね、だってきっと鼻持ちならないもの――と伯爵は胸を張って言う。
「よくわからないけど、先着1名様限定らしい」
「ウソだろ……? でも、他にもそのシジミ・コード、あるんだよな?」
(シジル・コードだ。そして喜ぶがいい。忍者どもを見つけるのは、はっきり言おう、大得意だ)
「……あるってさ」
(もう少し熱意を持って通訳してくれないか零次君)
「でかした、零次! いやー、今日ダメだったら、もうあきらめようかと思ってたんだ! 付き合ってくれてるおまえには言い出しづらかったんだけど!」
「え……」
あの悲しそうな顔の、本当の意味。
最悪のタイミングで最低のものを見つけてしまったことを、零次は知った。
いつもそうだ。怪盗伯爵を気取るこの忍者は、重要なときに限って最悪の結果を出してくる――。
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