第9幕 怪盗の流儀
青空稽古にも使われる広い庭に、たった2人。
竹刀を手に、零次は一満と向かい合う。
元々長身の一満は成長期に入って更に背が伸びた。低身長の零次とでは、もう大人と子供くらいの差がある。感じる圧力は、かつて試合で向き合ったときの比ではない。
それでも零次の心はあの時ほど怯えてはいなかった。
マルヤと、ついでにスティナの命がかかっているのだ。すくんでなどいられるものか。
「その格好でよろしいのでしょうか、兄上?」
一満は防具を着けていない。素振り稽古用の袴姿だ。
かつて戦ったとき、
生身で受ければ死にかねない。
「かまわん。防御が期待できない以上、動きやすいほうがいい。というか、他人の心配をしていていいのか?」
「……そうですね」
縁側には見届け役として母が座している。
他には縄で縛られたマルヤとスティナ、そしてふたりを監視する門下生が数名。
「零次……」
「スティナ、なに
マルヤの言葉はスティナを励ますためのように見えてその実、自分に言い聞かせるためのものだった。
忍者には勝てない。一満もそれはわかっているはずだ。
ならばなぜ決闘など挑んだ? なにか策があるからではないのか? だとしたら、それはどのような?
零次も同じ疑念を抱いていた。
自分たちのために、わざと負けてくれる? それはない。手加減はしても勝ち負けに関しては厳しいタイプだ。そして温情を期待できるほど仲のいい兄弟ではない。
怖ろしい罠ではないのか――自分に消えない傷を負わせた弟に対する、なにかとてつもない復讐。
「――はじめ」
母が静かに号令をかける。だが兄は攻めてこない。
その竹刀の先端が軽く揺れた。打ってこい、の合図。
あの時の再現だった。ならば――。
「
零次は一蹴りで兄の前に。いや、兄の姿がない!
「なるほど、これくらいで充分か」
兄の声は背後から聞こえた。通り過ぎてしまった。いや、違う。
(すごいな零次君。君の兄上、忍者の動きに対応しているぞ)
零次が1歩を踏み出すタイミングを見切って、兄は先に大きく動き突進の軸線から逃れたのだ。
「動きは速いが、直線的だな。タイミングがわかっていれば、避けるのは容易い」
「だったら――」
左右へ跳んで兄の視覚の端から端へ。
だが一満はそれをいちいち目で追ったりしなかった。釣り糸を垂らすかのように竹刀を正眼に構え、背後からの強襲へ即座に対応。
兄と弟の竹刀ががっちり組み合う。
「ハアアアア!」
気合とともに一満が足を踏み出せば、零次の軽い身体は庭土を削りながら押し流される。
「なめるな!
零次の足元の地面がくぼみ、一満はそれ以上弟を押し出せなくなった。
すかさず零次は竹刀から離した左拳で一満の頬を狙う。
袴田流において、徒手空拳による攻撃も認められている。極端な話、片手に剣さえ握っていればもう片手に別の武器を握っていてもいい。
ひっくり返ったのは零次のほうだった。
零次の繰り出したパンチを避けた一満が、逆に背負い投げを決めたのだ。
起き上がろうとした零次だが、重みを増した足が災いして、その動きは遅れる。
まずい――。
しかし、一満は零次が起き上がるまでなにもしなかった。
「なぜ……?」
「以前、インタビューで訊かれたことがある。汚い手を使い反則負けをした、ある選手に対してどう思うかと」
「……どう答えたんです?」
「確か……『どんな卑怯な手を使ってきても、いつも通り戦うだけ、そして勝ちます』とか、そんな感じのことを言った。俺自身はやるつもりはないが、実力で勝てないなら知恵を絞るのは当然のことだ。そのどこからどこまでを卑怯と呼ぶかは悩ましいところだが、俺はお互いが土俵に上がって戦えるなら、まあ、いいんじゃないかと思う。だからおまえの忍法も、俺にとってはセーフだ」
「…………」
「問題は、俺が『いつも通り戦う』までしか達成できなかったことだ。だから俺はあの日から忍法使いと戦い、打ち破るため特訓に特訓を重ねてきた。この程度じゃまだ足りない。もっと忍法のなんたるかを俺に見せてくれ。そして俺に打ち破らせてくれ。この先もっと強い忍法使いと出会ったときのために。もっともっと強い忍法使いと出会ったときのために」
(君の兄上、もしかして戦闘狂かな?)
兄が動いた。殺気に乏しい、軽い連撃が零次を襲う。
早く忍法を使って攻めてこい、とせっついている。
そんな手加減された攻撃でさえ、零次には
駄目だ――元々の技量差が大きすぎる。忍法を使ってなお埋められないほどに。
「どうした零次。あの2人と共に死ぬか?」
それもいいかもしれない。マルヤと一緒に死ねるなら。
弱気になった心がそう囁く。
目が霞む。頭がぼうっとしてきた。
(しかたない。零次君、代わりたまえ)
(代わる……?)
(私に肉体を預けるんだ。安心したまえ、一時的なものだよ。力を抜いて、私を受け入れてくれればいい。そうすれば私がこの危機を乗り越えて御覧に入れよう)
(…………)
この重大な局面を、自分ではない誰かが肩代わりしてくれる。それはとても甘美な囁きに感じられた。
その一方で、これは悪魔の取引ではないかと警戒する気持ちもある。
(怖いかね? 私がそのまま肉体を乗っ取ってしまうのでは――と?)
(いいえ、それは気にしていません。……任せます)
刹那、一満は跳びはねるようにして間合いを広げた。
目の前の弟が、姿はそのまま別の誰かに変わったような気がしたからだ。
「――なるほど、ひょろっこい身体だなぁ。これなら忍法を使っても苦戦するわけだ」
弟の姿をしたそいつが、髪をかき上げながら言った。
露わになったその表情を見て、自分の勘が間違っていなかったことを一満は確信した。
不敵な目。悪巧みをしているような薄ら笑い。一満の知る限りにおいて、袴田零次とは無縁の顔だ。
「さあ、このマリウスが教育してやろう。本当の怪盗の戦い方というものを!」
零次――いや、その肉体を借りた伯爵は、竹刀を無造作に投げ捨てる。
代わりにどこからともなく一振りの曲刀を引き抜いた。
それは零次が、いや怪盗マリウスが電夢境で使っていたのと同じものだ。
子供の身には大きいそれを、伯爵は軽々と振り回す。
「紹介しよう。我が愛刀、サーペントシミター『
瞬時に鞭へと姿を変える蛇腹刀。
木刀の届かぬ間合いから襲いかかる刃を、一満は咄嗟にしゃがんで避けた。凡百の剣士なら対応できずに切り刻まれていただろう。
さらに2度、3度と攻撃は続く。一満は前に出られない。袴に大きく裂け目が走る。
見守る初穂の表情に焦りが滲んだ。
「さあ、どうした? かかってこい、サムライ・ボーイ! 来ないなら、こちらから行くぞ!」
言うが早いか伯爵は大きく跳躍。袴田家の屋根に着地。
そしてそのまま背を向ける。
はあ? と一満は間の抜けた声をあげた。
「待て! まさか、逃げる気か!」
「そのとおりだとも」
「なに……?」
「私は怪盗だ。逃げと隠れが本分で、殺し合いは望まない。私に勝ち目のない勝負はもっと望まない。更にいえば、私は相手がはなからリングに上がれなくなるような策を講じるのが大好きだし、それがベストだと思っているよ!」
「おまえの友達はどうする! 置いていくのか!」
「私に友人などいない」
「…………!」
「あーばよ、
屋根から屋根へノミのように跳ねる怪盗を追いかけることなど、常人には不可能だ。
一満は、初穂は、ぽかんと口を開け、呆然と見送るしかなかった。
パン、パン、と乾いた拍手の音が一同を我に返らせる。
そこにはあの金髪碧眼の公儀探偵が立っていた。
「いや、お見事、一満君。下忍も下忍とはいえ、忍者相手によくぞ善戦された」
いつの間にか、エルロックは恋人が腕を組むようにしてスティナを拘束していた。
スティナを監視していたはずの門下生は、探偵の足元に倒れている。
嫌がって暴れるスティナ。男は小揺るぎもせず、彼女の首筋に手刀を振り下ろした。幼女は脱力し、動かなくなる。
「いけませんね、袴田流家元。犯罪者の
「……お帰りになったはずでは」
「いや、忘れ物をしまして。2度も門を叩くのは気恥ずかしかったのでこっそり上がらせてもらったのですが、おかげでいいものを見られました」
と、探偵が言ったときだ。
マルヤが動いた。自分を抑えていた門下生をタックルで突き飛ばし、走り出す。
逃げるか。否。マルヤはまっすぐ一満に駆け寄る。その前で膝をつき、三つ指を突いて平伏。
「一満さん! オレを、弟子にしてくれ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます