第8幕 大変、母上が来た


 きつい目つきをしたスーツ姿の女が、こちらを睨みつけるようにしてまっすぐ立っている。


 袴田流剣術道場家元、袴田初穂はつほ。彼女に対して、零次はなにも求めていないはずだった。

 いまさら愛されたいとも、期待されたいとも思わない。

 けれどもあの目だ。あの目で見られるたび、零次は言いようのないさびしさと悲しさに胸を絞めつけられる。


 ――ああ。母上が、敵を見る目でぼくを見ている。


 母上、どうしてぼくをそんなふうに御覧になるのでしょうか。

 ぼくはあなたにとって、守るべきもののうちに入っていないのですか?


「三果。席を外しなさい。母がいいと言うまでこの部屋に戻ってきてはなりません。これは命令です」

「……はい、ははうえ」


 従う以外の選択肢など、幼い少女にあろうはずがない。

 乳母が「さあこちらに」と手招きする。三果はスティナを気づかうように何度も振り返りながら去っていった。


 ダン! と木刀の先端が床を打つ。零次は跳びはねるように母へ意識を戻した。


「さて、零次、海藤。あなたは違法探索者として活動していた――そうですね?」


 その場しのぎの嘘や混ぜっ返しなど決して許さない、と母の顔は語っていた。

 零次もマルヤも、神妙な顔でただ頷くことしかできない。


「……愚か者!」


 ひゅんと風を切った木刀が、零次とマルヤを打ちすえた。

 スティナが息を呑む。


 心配ない、と零次は言おうとした。

 三児をもうけた三十路の女とは思えないほど、母の身体は研ぎ澄まされている。

 今でも門下生に指導している現役の剣士だ。


 そんな彼女が激情のままに剣を振るえば、零次たちはもう死んでいる。

 そうでないということはつまり、まだ理性が残っているのだ。だから大丈夫。


「おまえたち、なにをしでかしたか、わかっているのですか! 袴田家に泥を塗ろうとしているのですよ!」


 袴田流は街の北西部に居を構える岡崎流と並んで、長い歴史を持つ剣術道場だ。

 都市保安課に門下生を数多く就職させている実績もある。

 その袴田家から犯罪者が出たなど、あってはならないスキャンダルだ。


「特に海藤。おまえ、拾ってやった恩を忘れて……! やはり夷民いみんは衣食足りても夷民に過ぎぬか!」


 倒れたマルヤに対し、初穂は垂直に木刀を突き下ろした。

 苦痛のあまりマルヤは悲鳴すらあげられない。


 初穂の凍れる瞳は、次の獲物に向けられる。

 凄絶なる表情はもはや鬼神。

 他人の目がなければ、零次は泣いて命乞いをしていたかもしれない。


「あなたはいつもそうですね。横から滅茶苦茶にして……! やはりあの時、座敷牢にでも閉じ込めておくべきでした」


 初穂は付き人から1本の脇差わきざしをとり、零次の前に放り捨てる。


「腹を切りなさい。士族の子として尊厳ある死を許してあげましょう」


 零次は、畳の上に転がる黒鞘の光沢を見つめた。

 ここまでか。

 部屋の出入口は1つだけ。そこは木刀を持った門下生たちに塞がれている。


 零次に残された選択肢はふたつ。

 大人しく切腹するか、あるいは脇差をとって母に斬りかかるか。

 どちらを選んでも死ぬ未来しか見えない。


「母上。ぼくの命で、マルヤとそこの女の子は許していただけませんか」


 返事は母の足の甲。

 顎を蹴り上げられて、零次は壁まで転がった。棚に後頭部をぶつけ、ぬいぐるみがいくつか落下。


「この期に及んで、頼み事ができた分際か! 恥を知れ!」


「恥を知るのは、あなたです!」


 門下生たちが凍りつく。

 初穂はこの屋敷の女帝だ。絶対君主であり、それも暴君に近い。その彼女に真正面から異を唱えられる人間がいるとは。そいつは死をも恐れぬ大馬鹿者か、さもなくば類い稀なる英雄豪傑の器に違いない。


 英雄は、銀髪の幼い少女の姿をしていた。

 母と息子の間につかつかと移動する。


「スティナ・ドゥーゼと申します、御母堂」


 礼儀上やむなく、といった様子でスティナが一礼。


「我が子に対してあまりにも無慈悲な振舞い、黙ってはいられませんでした。――それでも母親ですか」

「ならばスティナさん。母親であれば、心血注ぎ丹精込め寝る間も惜しんで築き上げたものを台無しにされたとしても、相手が我が子なら笑って許さねばならぬ――と?」

「そうですよ」

「なッ……?」


 答えられまいと冷笑交じりに吐いた啖呵へ、即座に返事を叩きつけられた。

 しかも暴論といってもいい言葉を、てらいもなく。

 初穂は唇をわななかせる。


「なに――を」

「そう考えておくくらいでちょうどいいでしょう、あなたには」

「はあ!? いくら子供といえ、赤ん坊ではない! 人の立場や都合というものを、慮っていいはずです!」

「甘えるな!」

「ッ!?」

「――その子供の倍以上の年月としを経た大人が! 相手の言い分も聞かず、理を説きもせず、ただ一方的に己の都合を押しつけ、癇癪を起こし、あまつさえ暴力を振るうとは何事です! 故に『恥を知れ』と言った!」


 零次は痛みも忘れ幼女の背を見上げる。

 嵐か津波のような女師範の圧を、幼女の身体は堤防となって受け止めきっていた。


「どうして……ぼくなんかのために……?」


 スティナがなぜ自分をかばうのか、零次にはわからない。

 ――こんなぼくから必要とされたって、なんにもならないのに。


 幼女は、振り返って笑った。


「わたくしはただ、己の胸に従ったまでです」

「己の……胸……?」


 一瞬でもスティナを同類と思った自分はなんと身の程知らずだったことか。

 零次は今すぐこの世から消え去りたい衝動に駆られる。


「……なるほど、一理あると認めましょう」


 平静と寛容を取り繕い、初穂は言う。


「選択肢を与えます、零次」

「……選択肢、ですか?」

「その2人を討ちなさい。あなたの手で」

「は……?」

「2人の首を保安課に献上するのです。袴田の名に傷がつくのは避けられませんが、正当な血筋にある子が盗人であったよりは、使用人と無関係な少女だけだったほうがいい」


 早い話が、マルヤとスティナにすべての罪を押し被せようということだ。

 死人に口なし。


「母親として我が子を許そうというのです。これで満足かしら、スティナさん?」

「……選択肢と仰いましたが、もうひとつの道があるのですか」


 怒るのは、それを聞いてからにしてやる――。

 零次は床の脇差に意識を向ける。


「もうひとつは――」


「――もうひとつはッ!」


 横合いからぶつけられた大きな声が、場の主導権を塗り替えた。

 下品でも乱暴でもない、しかし確かに存在感を感じさせる力強い足音が接近する。

 門下生たちが道を空けた。


 障子戸の影から姿を現わしたのは、がっちりした体躯を誇る少年である。

 毛筆で書かれたかのような、力強い黒眉。オールバックに撫でつけられた髪は若獅子を思わせた。

 額に走る一筋の古傷。零次は弾かれたように顔を伏せる。


一満かずま……」


 14歳とは思えぬ貫禄と威圧感を放つ零次の兄は、母に向かって軽く会釈する。


「なぜ、ここに来たのです。あなたには稽古の監督を命じたはずですよ」

「三果が泣きながら歩いているのを見かけまして。これはただごとではあるまいと思い馳せ参じた次第です」

「たいした問題ではありません。下がっていなさい」

「母上、お心遣いありがとうございます」


 もう一度、ただし今度はより深く、一満は母に頭を下げた。


「いかに犯罪に手を染めたとはいえ、身内の手打ちは汚れ仕事。だから俺の与り知らぬところで片をつけようとなさったのでしょう。その親心、痛み入ります」

「わかっているなら、なぜ来ました?」

「どうか、この場は俺に御一任願えませんか」

「なに……?」


 一満は零次に向き直る。

 まっすぐ零次を見る右の瞳。だが左の瞳は斜め上を向いていた。

 零次との戦いの後遺症だ。ワイズチップによる補佐で視力に影響ないとはいえ、零次は兄の顔を直視できない。


「零次、おまえ、あの忍法ニンジャクラフトとかいうものをまだ持っているな?」

「……はい」

「それは重畳。さて、もうひとつの選択肢だが、それは俺と勝負することだ」

「……はい?」

「俺と剣で戦え。勝てば袴田家がおまえを守ってやろう」

「えっ?」

「なにを言い出すのです、一満!?」


 予想外の申し出に、零次のみならず初穂も、さらには門下生たちもあんぐりと口を開ける。


「俺に勝ったなら、それくらいの報償があってしかるべきでしょう?」

「では、負ければ?」

「3人まとめて、都市の外に消えてもらう」


 それは実質的に死ぬ。


「おまえたちには『行方不明』になってもらう。そして袴田家は知らぬ存ぜぬを突き通させてもらう。なに、違法探索者など所詮はただの小悪党。保安課もじきにあきらめるだろう」

「…………」

「2人殺し1人が確実に生き残るか、全員死ぬリスクをとってでも全員生き残る可能性に賭けるか。選べないのなら、ここで俺が3人とも斬り捨てよう。さあどうする、袴田零次!」

「ぼくは……」


 ぐい、と後ろから耳をつかまれ、引っ張られる。

 マルヤの切羽詰まった表情があった。


「おい零次! まさか戦わねえとか言わねえよな!?」

「でも、ぼくが兄上に勝つなんて……」


 マギアプリという強力な武器があり、過去に1度倒した実績もある。

 なのになぜか、零次は自分がもう一度兄を倒す姿を思い描くことができない。


「ビビってんじゃねえ! 戦うんだよ、でもって勝て! これは命令だ!」

「……わかったよ、マルヤ」


 零次は、一満の差し出した竹刀を手に取った。


「それでいいのですか、零次?」


 スティナが零次を見上げる。

 零次には、ぎこちない笑みを返すことしかできなかった。


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