第6幕 袴田家で朝食を
鼻歌が聞こえる。子守唄のような、あるいは童謡のような優しいメロディーだ。
6畳ほどの質素な和室。
都市の北東部に広がる高級士族専用住宅街の一角、『袴田道場』と表札に大きく書かれた武家屋敷。
その敷地の片隅にある、零次の部屋だ。
部屋の主が本来横たわっているべき布団の上には、幼い少女がこちらに背中を向けて座っていた。部屋に差し込む朝の光を反射して、長く艶やかな銀髪がキラキラ光を放つ。零次は少しの間、起きたことを報せずにそれを眺めていた。
と、鼻歌が唐突に止まった。
「……どうしよう……」
途方に暮れたような哀れっぽい声が、幼女の口から漏れる。
(なにをしているのだね零次君。ほら彼女、心細さに泣いているじゃあないか)
(心細さ……?)
(あの歳の少女が、親元から引き離されて平気でいるものかね。甘い言葉のひとつくらい、囁いてやりたまえ)
(伯爵……)
意外に優しいんですね、と言おうとした矢先、伯爵は邪悪な笑みを浮かべた。
(心の弱ったときこそ、つけこむ最大のチャンスだ。逃す手はない)
(もう黙っててください)
不自然な体勢で寝ていたせいで、凝り固まった背中の肉がみしみしと痛む。
零次はスティナの肩にそっと手を置いた。
「……大丈夫だよ。安心して。きっとなんとかなるよ」
「あ……いえ、すみません、無理そうです」
スティナはちらりと零次を振り返って、悲しげに顔を伏せる。
打ちひしがれたその様子は、零次の胸にまた新しい痛みを生んだ。
「気を落とさないで。まだなにもしていない、これからじゃないか」
「いいえ、わたくしには無理です!」
伯爵の言うとおり。
気丈そうに見えたが、やはり年齢相応の女の子なのだ。
(……可哀想に)
触れれば雪のように儚く消えてしまいそうな幼い女の子が、たった独り見知らぬ世界に放り出される。なんて残酷な運命なのだろう。
励ましてやりたかったが、気の利いた台詞など思い浮かばない。
どこかで聞いたような薄っぺらい言葉を並べるしかない自分に腹が立つ。
「あきらめちゃ駄目だよ」
「そうは言われても……」
「今は耐えるんだ。きっと光はあるよ」
「いいえ、いいえ!」
スティナは零次に向き直って、両手を差し出した。
「――これ、難しすぎますッ!」
差し出された手の上には、色とりどりの立方体。
零次の私物であるルービックキューブが、不揃いの面を晒していた。
「……これは?」
「ごめんなさい……。えっと、先に目を覚ましたのですが、起こすのも悪いなと……。それで、暇で、ちょっと弄ったら、元に戻せなくなってしまいました……」
「…………」
「も、元通りにしようという、つもりはあるのですよ?」
スティナは別に泣いてなどいなかった。
むしろ全然、元気そうだった。
「…………」
ぶふっ、と背後で何者かが笑う。
マルヤだった。折り曲げた座布団を枕に寝転がったまま、白い歯を見せる。
「……マルヤも起きたなら、ぼく朝ごはん持ってくるよ」
「いや、前それやって怒られただろうが。オレが行くよ、使用人らしくな」
「本当? ありがとう」
マルヤは面倒臭そうに立ち上がり、部屋を出て行く。
その背中を、スティナは不思議そうに見送った。
「袴田。海藤は、あなたの従僕なのですよね?」
「一応ね。ぼくは対等な友人だと思ってるけど」
「対等……」
スティナはなにか言いたげな顔をしたが、結局なにも言わなかった。
「……貸して」
零次はスティナからキューブを受け取り、ちょっと考えてから、回転させる。
すべての面が同じ色になるまで、3手とかからなかった。
「イノベーション!」
スティナが興奮に目を輝かせる。
ルービックキューブだけでなく、知恵の輪もスライドパズルも、そして針金1本で鍵を開けることさえ、零次は瞬く間に解くことができる。
知識や理論に基づいたものではない。まったくの勘だ。
穴の空いたこけしにキーを差し込んで首を飛ばす玩具も、見るだけでどの穴が正解かわかった。
「役に立たない特技だよ。テストで試したら赤点ギリギリで、もう少しで親を呼ばれるところだった」
「いいえ、いいえ! わたくしは素晴らしいと思いますよ!」
スティナの言葉が本心のものであれ、口先だけのものであれ、零次は奥歯にものの挟まったような笑みを返すことしかできなかった。
「……しかし、こうしてみると、本当にわたくしがいた世界とは別のようですね?」
辛気くさくなった空気を振り払うように、スティナは言った。
マルヤが開けっ放しにしたままの障子戸の向こうには、ARニシキゴイが遊泳する
「巨大な機械の虎の中にある街――
「その『イノベーション』ってなんなの」
「父の口癖です。新しい価値観、新しい出会いは素晴らしい。そこには
スティナは微笑んでいた。
不敵な笑みだ。
これから冒険の旅に繰り出そうとする腕白小僧、という印象を零次は抱く。
「お父さんの頭皮のために早く帰るんじゃなかったの?」
「母なら、ロマンスの1つでもしてから帰ってこいと言うでしょう」
「ロマンスはこれから何度でもできるけど、ハゲたオヤジはもうフサフサには戻れないんだよ」
「あら。袴田は、そんなにわたくしと別れたいのですか?」
スティナは挑発するような目で零次を見上げてきた。
「……もし別れたいって言ったら、困るの?」
「ええ、悲しいですとも」
「そう……。君も誰かに必要とされたい人なのか」
「え?」
誰の愛も求めず1人で立っているマルヤとは違う、つまらない人間。
自分と同じだ。
異世界人といってもその程度かと、零次はちょっとがっかりしたような気分になる。
そこでマルヤが2人分の膳を抱えて戻ってきた。
マルヤは膳の1つを零次の前に置き、もう1つを自分の前に置く。
スティナが興味深そうに覗き込む。
「白米、味噌汁、卵焼きにソーセージ……。今ひとつ面白みがないです。異世界なんだから、もっと食べられるのかさえわからないものが来るのではと思っていたのに。ノットイノベーション」
「嫌なら食わなくていいんだぞ」
「そもそもわたくしの膳がありませんが?」
「あるワケねえだろ、人数分しか用意されてねえのに。フォークはつけてやったから、仲良く半分こしろ、零次と」
自分のぶんは渡さない、と言外に宣言し、マルヤは味噌汁を啜る。
「この世界では、朝食を家族と一緒にとらないのですか?」
「よそは知らない。うちは各人で勝手に食べる」
「夕食も?」
「盆や正月とか、なにかの行事でないかぎりはそうだよ」
「さびしくはありませんか?」
「どうして?」
いいからさっさと食え、とマルヤが口の中をモゴモゴさせながら言った。
はいはい、とソーセージを上品に噛み切ったスティナだが、小首を傾げ、眉をひそめる。
「……豚肉でも魚肉でもない……不思議な味ですね」
「ああ、人肉だよ」
「そうですか。……え? なんと?」
「人肉。君のいた場所だと、食べないの?」
「食べませんよ!」
「おいおい、じゃあ人間が死んだ後どうしてんだ? 貴重なタンパク質、まさか捨てちまうのか?」
「わたくしの世界では、亡くなった方は手篤く埋葬します」
「そりゃ埋葬はするだろうよ。でもそんなの、骨1本で事足りるだろ」
「……袴田。わたくしはお腹いっぱいですので、後は袴田が食べてください」
スティナはフォークを置いて、そっぽを向いた。
小声でなにやら「異文化異文化異文化」と呟いている。零次は気にしないことにした。
「零次、食い終わったらオジキに会いに行くぞ」
マルヤの食べるスピードは速い。零次が自分の取り分を半分平らげる時分には、もう食べ終えてしまっていた。それでいて零次の膳に物欲しげな目を向ける。
「社長に? どうして?」
「さっきメールが来た。『銀髪のガキ連れて釈明しに来い』ってよ」
「釈明って、なにを……?」
「ニュースサイト見てみろよ」
零次はワイズチップでネットにアクセス。
目の前の空間にブラウザのウインドウを展開。ニュースタイトルがずらりと並ぶ。
……【
そうした記事リストの中に、
【磁駒衆の正体発覚!? 謎の少女の正体は?】
昨夜の出来事が、もう記事になっている。そこには宝物殿から逃げようとする磁駒衆の写真が添えられていた。
磁駒衆の写真が載るのはこれが初めてだった。これまでは零次が監視カメラを停止させてきたからだ。だが今回はそういかなかった。
最近の監視カメラは高画質だ。違法探索者たちの姿は色も鮮やかにくっきりと記録されている。それでも覆面を被っているから、個人の特定にはまだ時間がかかるだろう。
問題は、素顔で彼らの後を追う銀髪の幼女だ。
さらに都合の悪いことに、ちらりと後ろを振り返った顔が綺麗に映ってしまっていた。
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