第1幕 電脳怪盗マリウス


 荒れ果てた大地に、全長20キロを越す鋼鉄の虎が無惨な屍をさらしていた。

 首は落ち、四肢はもげ、尾は千切れて転がっている。もはや獣が立ち上がることはないだろう。

 けれどその腹の中、厚さ約30メートルの隔壁内には、山と森に取り囲まれた近代的なビル街――おそらく人類最後の都市が息づいていた。


 その一角、夜の闇に包まれた森に、1台のワンボックスカーが音もなく停車する。

 最後部座席には幼い子供がちょこんと座っていた。

 9歳くらいだろうか。艶めく黒髪を下瞼したまぶたまで伸ばした、色の白い少年だった。


「――着いたぞ零次れいじ、眼ェ覚ませ!」


 え? と顔を上げた瞬間、少年――袴田はかまだ零次は癇癪玉かんしゃくだまが弾けたような痛みに額を押さえる。

 涙を拭えば、すぐ目の前に海藤かいどうマルヤの陽に焼けた端正なスマイルがあった。


「寝てないよ、マルヤ。寝てたにしても、いきなりデコピンなんかしないで、普通に起こしてよ……」

「起きてるか寝てるかわかんねえ髪型してるおまえが悪い。つか、もっとみんなと話せ。そんなんだからオレ以外友達ダチができねえんだぞ」

「…………」


 零次は前方を見た。

 前方座席には同年代の子供が5人、思い思いの体勢で腰かけている。

 いずれも薄汚れてよれよれの服、脂で固まった髪、荒んだ眼をしていた。テカテカ光る唇は、高カロリーだけが取り得のファストフード生活の賜物たまものだ。


「……ぼくは、マルヤさえいればいいかな」

「んなこといってねえで。ほら、オレの教えてやった1発ギャグ、かましてみろよ」

「――あ、襟が曲がってるよマルヤ」

「男は芯がまっすぐなら他はいいんだよ」

「え? あ……う、うん、そ、そうだね」


 なにか言いたげな零次の額を、マルヤはもう一度指でばちんと弾いた。


「があっ……!」

「どうせオレは芯までねじくれてるよ!」

「そんなこと、思ったけど言ってないでしょ?」

「ピンじゃなくて五寸釘ブッ刺されてえのか? それより、あそこなんだよな?」


 美しく尖った顎で窓の外を示すマルヤ。

 闇の中、鬱蒼と木々を茂らせる山の入口に、鳥居が黒い口を開けていた。

 近くの石碑には『夜球よぐ神社』と彫られている。


「うん、『伯爵』はそう言ってる」


 零次は体内埋込式極小情報端末ワイズチップにインストールした赤外線視認アプリを起動させた。

 眼球が細胞レベルで高速変異。零次の目は敷地内に走る無数の赤い線を確認する。


「すごい警備だ」

「最近、テロで物騒だからな。じゃあ頼むぜ、零次?」

「うん!」


 期待してもらえている、頼られているという実感が、零次の胸にあたたかなものを広げていく。

 だがそこに冷たい一滴を投げ込む者がいた。


(ここで『いやだ』と言ったら、さぞかし胸がすくだろうな。どうだね?)


 地の底を這うような低いテノールを、零次は脳で聞く。

 振り返れば、バックドアに融けるようにして1人の男が、まさに背後霊そのものといったふうに浮かんでいた。

 年齢は30代くらい。シルクハットにタキシードという出で立ちの、病的なまでに青白い肌の男だった。 ナイフのように鋭く映える精悍せいかんな細面。だが悪戯好きの子供のような笑みが、それを台無しにしていた。


 零次は細い眉を下り坂にして、男に返事をする。心の中だけで。


(どうしてぼくがマルヤの頼みを断わらなくちゃならないんですか、伯爵?)

(友愛、実に結構だ。だがもっと愛すべきものが他にあるんじゃないのかね、零次君)

(なにを仰っているのか、わかりません)


 伯爵と呼ばれた男はステッキを手で弄びながら、嘆かわしいと言わんばかりに首を振る。


(取るに足らぬ理由であれ、私の力を使えばそれだけ君の寿命は縮まる。わかっているね?)

(そう。たいしたことじゃないですね。だから――今夜も借りますよ、あなたの力)

(……好きにしたまえ。今は君こそが怪盗マリウス伯爵だ。この赤い靴で存分に踊るがいいさ)


 零次はワイズチップのホーム画面を視界に表示。

 規則正しく並んだアプリアイコンのひとつに視線を乗せ、素早く2度まばたき。


「行ってくるよ、マルヤ」

「おう、行け零次!」


 次の瞬間、零次の意識は車外に移動する。


 その影は、さっきまでの零次とは大きく違っていた。

 平均より小さいくらいだった背丈はぐっと伸び、二次性徴をすませた10代後半のものとなっている。


 漆黒の髪の下、紫がかった瞳が鬼火めいて輝く。肌は透き通るように青白い。

 しなやかな肉体を包むものは、ロングコート、手袋とブーツ、果ては腰にいた刃渡り1メートル程の曲刀の鞘に至るまで、黒一色でまとめられている。

 唯一、翼を広げた夜鷹ウィップアーウィルのようなヴェネチアンマスクだけが、血のような赤で目元を覆っていた。


 変化したのは零次だけではない。

 世界もだ。

 空はくすんで濁ったピンク色に模様替えをしていた。大地は生皮を剥がれた人肉のよう。鳥居を構成するのは無数の人骨。所々にこびりついた肉片から、赤黒い血の雨だれが老人の小便めいて垂れる。木の枝に見えるのは、長い指をかきむしる痩せ衰えた腕だ。


 零次――黒衣の怪盗マリウスが足を踏み出す。

 階段を駆け上がれば、そこにはやしろではなく洋館がそびえていた。もちろん人骨製だ。

 入口の前には人影。

 武具をまとい、槍を持った衛兵が2人、腐乱した顔を正面に向けている。


 マリウスは2度、腕を振った。衛兵2人が音もなく崩れ落ちる。

 喉笛に突き立ったナイフごと、遺体は溶けたロウのように形を失う。


 マリウスも衛兵たちも、そして彼らがいる場所も、現実のものではない。

 ここは電夢境でんむきょう

 機動都市モビルコロニーを動かす電算装置の一部にされた脳髄のうずいたちが、失った肉体カラダ恋しさに見る疑似電脳空間ユメのセカイ

 零次の本当の肉体は、今も現実空間の、ワンボックスカーの車内にある。


(目指すはダンスホールの向こうだ。中枢電算式神メインコンピューター導力脳ブレネーターはそこにある)


「了解」


 人体で構成された電算式神コンピューターの世界を、黒衣の怪盗型電脳病魔ウイルスが駆ける。


 ゾンビめいた衛兵たちセキュリティをかいくぐり、扉をぶち破った先は、ダンスホールだった。

 見渡すかぎり広がる白壁は、磨かれ積み重ねられた無数の白骨。

 床に敷き詰められたピンクと白のタイル模様は、筋肉と脂肪が並んだもの。

 鈴なりになった眼球のシャンデリアが、動脈で編んだロープで吊るされている。

 肋骨ろっこつで壁に打ちつけられた毒々しい臓物ぞうもつが、部屋に彩りを加えていた。


 すすり泣きのようなワルツをBGMに、タキシードとドレスに身を包んだゾンビたちがくるくる踊る。

 その向こうに、頭蓋骨ずがいこつで鋲打たれた、重く分厚い扉がそびえていた。


(あそこだ)


 扉の前には衛兵たちが隊列を組み、侵入者に向かって弓を引く。

 矢の1本が、怪盗の頭のすぐ横を通り抜けた。白皙はくせきの頬に一筋の朱が走り、鮮血が一筋垂れる。

 時同じくして、現実空間にある零次の頬にも赤いミミズ腫れが生まれた。


 マリウスが傷つけば、零次も傷つく。マリウスが死ねば、零次もまた――。

 しかし、黒衣の怪盗に恐怖の色は一切なかった。


「――うっとうしいんだよ」


 底冷えのする声ひとつ吐き、怪盗は腰の剣をつかむ。

 引き抜かれた刀身は瞬時に倍以上の長さに伸びた。


 蛇 腹 刀サーペントシミター


 細かく分割された刀身を鋼線ワイヤーで繋いだ鞭が、蛇のように身をくねらせる。

 くねる刃に呑み込まれ、怪盗に向かう矢の数々はひとつ残らず叩き落とされた。マリウスはダンス客たちを蹴り倒しながら前進。


「邪魔するならさ――、死ねよ!」


 矢に続いて衛兵たちの首が落ちた。開栓されたシャンパンのように血が噴き上がる。

 そうして、その場に立っているのはマリウスだけになった。


(零次君。戦っていると口汚くなるのは君の悪い癖だ。『死ね』なんて乱暴な言葉づかいはよくない)

「永遠に黙っていていただけますか」

(そう、そんな感じだ)

「あなたに言ったのですけれど」


 天井から、拍手が降る。

 歯茎を剥き出し手を打ち鳴らすは、コウモリめいてぶら下がる類人猿のようなもの――電夢境の原産生物であるガァニ=ルドドだ。異形の群れに対し、マリウスは大仰に返礼。


 そこでぐらりと身体が傾いだ。

 たたらを踏み、なんとか転倒を免れたその頬を、汗が滴り落ちる。

 脳が熱い。さながら一仕事終えたレーシングカーのエンジンだ。


(タップダンスの練習かな。一応訊いておくが、引き返すという選択は?)


 答える代わりに、マリウスは一歩前に進んだ。

 やれやれと肩をすくめる気配が背中に伝わってくる。


 巨大な質量が頭上から降ってきたのは次の瞬間だった。

 その衝撃に屋敷は大気ごと揺さぶられる。

 間一髪圧死を免れたマリウスは、蠕動ぜんどうする肉の上を転がった。


 見上げればそこには、天井に頭がつきそうなほどの西洋甲冑。

 巨人は赤子の声で笑った。兜の奥でニタリと歪む小さな頭部は、親から不要と切り捨てられ、産声を上げる前に街の部品にされた赤ん坊のものだ。身にまとう甲冑は干からびた胞衣えなでできていた。


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