怪盗血へどろジュブナイル~肉壁電脳世界と忍者と邪神とたまに人型兵器~
鯖田邦吉
第0幕 勝利はドブの味
大きな鎧は、子宮の代替品になってくれない。
サイズの合わない剣道防具に押し込められた
鳥籠の中に似た視界は狭苦しく、そして息苦しい。
それ以上に対戦相手からのプレッシャーが胸を締めつける。腹ペコのライオンと同じ檻に閉じ込められた子ウサギの気分だ。
7歳の少年の細い神経は限界に近い。試合はまだ、はじまってすらいないのに。
己の臆病さを、零次は許した。
しかたない。相手は5歳年上の兄、
大人相手にも負け知らず、勝ちとった白星の数はもうすぐ百に届かんとする兄。
いまだ公式試合で一勝もしていない零次とは正反対だ。背丈も性格も人望も、なにもかも。
「はじめ!」
板張りの剣道場、全高7メートルの武者人形が正座して見守る前で、兄と弟は向かい合う。
一満は前に出ない。代わりに竹刀の先を2、3度揺する。
打ってこい、と言っている。先手を取らせてやる、と。
作法的に誉められた振る舞いではないが、叩きのめされるために出てきた弱者に対しては、むしろ温情と見なされる行為だろう。どうせ結果は変わらないのだし。
いや。まだそうとは限らない。
なぜなら零次には秘策が――もらった魔法があるのだから。
「
零次は風に、いや光になった。
「メェェェン!」
(勝った、ぼくが、兄上に!)
正攻法の勝利とはいえない。だが汚い手を使ったという意識は、零次にはなかった。
忍法を使いこなすのにだって相応の労苦を払ったのだ。それに以前どこかで「どんな卑怯な相手だろうと真正面から打ち勝ちます」と豪語していたのは兄なのだから。
もう百回近く勝っているのだから、一回くらい無勝の自分に譲ってくれても、という甘えもあった。
後方から道場仲間たちが駆け寄ってくるのを、零次は見た。
初勝利を祝ってくれるのか。いや違った。彼らは零次を素通りし、床にのびた一満を囲んでその名を呼ぶ。零次のことなど誰も見ない。透明人間になった気がした。
「一満!」
師範――母が兄に駆け寄る。
彼女が取り乱しているのを零次は初めて目にした。門下生から『殺人マシーン』と
「救急車ッ! 早く――」
その時、なにかの拍子に、母の視線が零次に止まった。
瞳を塗らす涙が瞬時にして煮え立つ。
気がつけば、零次の手から竹刀は落ちていた。
これは、忍法などというものに頼った零次への罰なのか?
否。
もしこれが正当な努力の果てにつかんだ勝利だったとしても、結果は同じだっただろう。
誰も零次の勝利など望んでいなかった。
みんながみんな心から、一満の百連勝を楽しみにしていたのだ。
近いうちに開かれる剣道大会の決勝戦が、百勝目を飾る晴れの舞台となるはずだった。
天才少年剣士、記念すべき新記録、しかも上手くいけば決勝は因縁の流派対決――。
ここまでお膳立てが揃えば、金の匂いを嗅ぎつけたハイエナが群がってくる。
連日のコマーシャル。街で最も大きなステージのチケットが完売。
門下生たちは一満の勝利を確信し、なけなしの金をかき集め、サプライズ祝勝パーティを準備していた。
それが零次ひとりのために、すべて御破算だ。
兄弟の一戦は一満の勝利数を調整するためのものでしかなかったが、負けは負け。
公的に、忍法の存在は認められていない。また、認めさせまいとする動きもあるようだった。零次を失格負けにするか、でなければ無効試合とせよ、という声は、まるでどこからか圧力がかかったように立ち消えになった。
仮にもし無効試合になったとしても、あまり意味はなかっただろう。大会までに一満を病室のベッドから動かすことは、どんな名医にも不可能だった。
一満の快復を祈り、病室や自宅に贈られてくる無数の花束。
それを見るたび、零次は自分を呪う母の目を脳裏に甦らせた――。
「――よう零次。今日も続けてんのか、ヤドカリごっこ?」
試合から、2ヶ月経つ。
零次の部屋に入ってきた
あれ以来、零次は自室に閉じこもり、布団を頭から被って過ごしている。
兄はもう退院して、主治医に睨まれながらも竹刀を振る日々に戻っているというのに。
「もうなにもしたくない。みんなを不幸にしたくないし、ぼくが不幸になるのも嫌だ」
「だったら手遅れだな。おまえのクオリティ低いヤドカリごっこには、オレは既にウンザリガニだ」
マルヤの陽に焼けたしなやかな腕が、無情にも布団を引っぺがす。
敷き布団の上に虚ろな目で横たわる零次は、打ち上げられた魚の死体のようだ。
マルヤは顔をしかめ、聞こえよがしにもう一度大きな溜息をつく。
「放っておいてよマルヤ。どうせぼくが立ち直ることなんて、誰も必要としてないんだ」
「んなこと気にすんな。必要とされる人間なんか、この世にはいねえ」
「え?」
「考えてみろよ。人類の歴史がはじまって以来、強い奴も賢い奴も、いっぱい死んだろ? でも歴史は続いてるじゃねえか。つまりだ、みんな替えの利く――根本的には、人類みんな要らねえ命だ」
「そう……なるのかな」
「そうだよ。今必要とされてるヤツだって、ちょっとなにかありゃ、すぐポイ捨てされらぁ。必要とされるかなんて、その程度のモンだ」
マルヤの言葉は、「みんな誰かに必要とされている」なんて綺麗事より、よっぽど慰めになった。
「他人からの愛情だの期待だの信頼だの、そんな明日にはなくなってるようなモン気にすること自体、間違ってんだよ。ってか、世の中のモンを必要かどうか決めるのは向こうじゃねえ、こっちだ。ヤツらがオレらに『必要としてください』って頭ァ下げて頼みに来るべきであって、その逆はありえねえ。オレらは自分から必要とされてりゃ、それで充分だ」
「すごいね、マルヤは」
傲慢もここまでいくと清々しい。
いや。
神々しい。
袴田零次の目には、他者におもねることなく立つマルヤの姿が、美しく、気高く、絶対的なものとして映った。
「ぼくも、そんな風に思える?」
当たり前だろ、とマルヤは笑う。
暗い室内に太陽が差し込んだようだった。
「それよか腹ァ減ってきた……。なあ、りん姉がお菓子用意してたんだけどさ、オレつまみ食いしちまって。なんとか2人分ゲットしてきてくれ。友達のぶん、とか言って」
「ぼくの友達っていったら君しかいないの、みんな知ってるから無理だよ」
「じゃあおまえのぶんをオレに寄越せ。それでいこう」
「なにがそれでいこうだよ、全然いけてないよ。まあ、別にいいけど」
あの日以来、初めて零次の頬は緩んだ。
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