染まらずの魔女が頬を染める時

 フィーナの案内で一昼夜歩き、僕たちはエルフの都、それも王都に来ていた。

 歳を取っても七凪は健脚で、疲れ知らずに見える。昨夜の野営でもよく寝てたし、むしろ体力がないのは僕のようにも感じた。

 エルフたちの歓迎を受け、いよいよ染まらずの魔女は人々の希望として立ち上がった。

 そんな彼女が最初に始めたのは、意外なことだった。


「ねえ、七凪……こんなことしてていいの?」

「あら、こんなことなんて。大事なことよ? 魔女としての、大事なお仕事」


 七凪は王宮への招待をやんわり断ると、王都の中央に広がる広場にやってきた。多くの屋台や露店が並び、大都市特有の賑わいに満ちている。

 だが、やはり行き交う人々は皆、どこか疲れた顔をしていた。

 エルフもドワーフも、ホビットも、勿論人間も。

 皆、滅びに瀕した世界の中で、まるで刑罰を待つ咎人だ。

 そんな中で、七凪は地面に座り込んで杖を置く。

 ローブ姿の白髪頭で、長い髪にも今は潤いがない。

 それでも多くの人が足を止め、魔女と知るや行列ができた。


「森の魔女だって? なあ、頼みがあるんだ……こんな時に来期の田畑を考えるなんて、どうかしてるかもしれないが」

「あら、そんなことはないわ。来期もその次も、季節は巡るしいい風が吹く筈よ」

「雨季が長かったから、土の強さが少し足りないんだ。来期はなにを植えたら」

「そうね、よく耕して土を休めた上で、小麦なんかがいいんじゃないかしら。西の国では随分水害があったから、小麦の値段が上がるわ」


 先程からずっと、この調子だ。

 七凪は、ちょっとした人生相談から些細な悩み、あらゆる仕事の面倒事をこの場で聞き始めた。

 魔法で解決するとか、叡智を授けるとか、そういうことではない。

 ただただ相手の話を聞き、一言二言の簡単な助言をする。

 たったそれだけのことでも、魔女の言葉に誰もが安心の表情になるのだった。

 僕は、横に控えているフィーナに小声で聞いてみる。


「ねえ、フィーナさん。呑気にこんなことしてて、いいの?」

「私に聞くな。だが……民はいつも、悩みを抱えている。些細なことでも、魔女が都に来たなら相談したくなるものだ」

「まあ、確かに。フィーナさんも七凪に会いに森に来てたし」

「……魔女は、この世界の賢人だ。だが、その力や知恵だけが全てではない」


 魔女は本来、なにとも戦わないし、俗世に干渉することはないという。

 だが、人種や身分を問わず、全ての民に寄り添う。

 悩みがあれば耳を傾け、いつでも相談に乗り、必要最低限のアドバイスをする。時には気休めにしか過ぎないだろうし、決して魔女としての力を使ったりはしない。

 世界が滅ぶのならば、滅びの中で民に触れて回る……それだけだ。

 本来は、そうらしい。

 七凪の行動は異例で、だからこそ決戦までは魔女として振る舞おうとしているのだろう。

 そう思っていると、乳飲み子を抱えた女性がやってきた。


「魔女様、どうかこの子に祝福を……この春の二ノ月に生まれたんです」

「あら、元気な子ね。どう? ちゃんと乳は出ているかしら」

「それが……わたしは、母親としてとてもとても……これ以上は」


 赤子は火が突いたように泣いている。

 だが、静かに微笑み七凪は両の腕を伸べて、幼い命をその手に抱いた。

 一瞬泣き止んだ赤子は、再び激しく泣き出す。

 それをあやしながら、七凪は母親を安心させるように声をやわらげた。


「みんな不安なのね。でも、もう大丈夫。巨神の災いは除かれるわ」

「ま、魔女様がそう言うのなら」

「あれは、とある錬金術師がこの世界に招いた、本来あってはならない力よ。だから……私が取り除くわ。私が異物を除く時、異物もまた私を除こうとしてくる。それでもよ」


 ニコリと頬を崩す七凪の、その笑みが僕には無敵に見えた。

 なんの保証も担保もないのに、無責任に信じてしまう。妙な頼もしさについ、すがってしまいそうになる。この世界では彼女は、異世界部の部長である前に、染まらずの魔女なのだ。

 だが、その力は万能ではない。


「次は俺だ! 魔女よ、頼む! もうどこに逃げたらいいやら……財産と家族に安全な場所を示してくれ!」

「待て待て、横入りするなって!」

「僕が先だ! ねえ、魔女さん! 聞いてくださいよ!」


 今、苛立ちが人々に蔓延している。

 その原因は、世界を脅かす巨神だ。

 不安の中で、誰もが少しずつ余裕を失っているのだ。

 僕はそっと、座ったままの七凪に身を屈める。


「ねえ、七凪」

「大丈夫よ。よくあることなの。でも……みんな心配なのね」

「それはそうだけど、僕は七凪も心配だよ。少し、疲れてない?」


 輝くように白い肌も、老いて今は潤いを失っている。そして、今はなんだか血色も悪いように見えた。

 無理もない、今の七凪は高齢の老婆なのだ。

 あの森から、休み休みとはいえ随分と歩いた。

 決して顔には出さないが、かなりの疲労を感じている筈である。

 だが、そのことを口にしたら七凪は鼻で笑った。


「キミね……ふふ、少し嬉しいぞ? もう、孫ができたらこんな感じかしらね」

「馬鹿言ってないでさ、七凪。少し休もう。これから、バルトルノルヴァとの戦いも控えてる。……奴は、来るかな」

「必ず来るわ。バルトルノルヴァにとって、最後の障害は私だけだもの」

「……わかるんだ、そういうこと」

「ええ、長い付き合いだもの。あ、そうなの? そういうことなの、ふーん」


 七凪がにんまりと目を細める。

 やっぱり猫みたいで、この人の魂は猫科の動物に近いんだと思った。


「バルトルノルヴァとは、そうね……元カレ、かしら?」

「うっ、嘘!」

「そう、嘘よ」

「七凪……あのねえ。頼むよもう」

「ふふ、渚クンってば面白いわ。そういうとこ、好きよ」

「……よ、よせって」


 七凪は、自分とバルトルノルヴァとの話を聞かせてくれた。

 大昔、七凪とバルトルノルヴァとは師弟の関係だったそうだ。もしかしたら、バルトルノルヴァもかつては偉大な錬金術師だったのかもしれない。だが、彼は太古の伝承を調べる内に、巨神の大いなる力に心を奪われた。

 この世界の神話に名を残す、巨神の支配と人間たちの戦い。

 やがて、バルトルノルヴァは禁忌の研究に傾倒していった。

 伝説上の存在だった異世界への、ゲートを開く術を編み出し、体系化したのだ。


「バルトルノルヴァは、あらゆる知識を吸い込み自分の力に変えた。そして、それを自分のためだけに使うの……それはいいけど、そのために人も世界も顧みなくなった」

「ただのはた迷惑な奴になった、と」

「そゆこと」


 僕も流石に苦笑するしかない。

 そして、内心ホッとした。

 まず、バルトルノルヴァに対してあまり同情の余地がないこと。彼はいわゆる『よかれと思って悪事をなしてる』という訳ではないらしい。ただのエゴイストで、自分のために力を求め、超越者としての支配を欲している。

 うん、同情の余地が全くないかもしれない。

 あと、七凪といわゆる深い仲、男女の情がなくてよかった。

 そんな器の小さいことを考えていると、七凪の前に小さな女の子が立った。


「魔女さま、はいこれ。お花!」

「あら、私に」

「うんっ。パパもママも、困ったら魔女さまが助けてくれるって」

「そうよ。普段はまあ……特になにもしないのだけど。今回は特別」

「ねえ、あの怖い巨神に、勝てる?」

「ええ、勝つわ。チョチョイのチョイよ」


 女の子は満面の笑みになった。

 だが、そんな空気を絶叫と轟音が引き裂く。

 鼓膜を激しく震わせる、それは爆発音だ。


「巨神だぁー! 巨神が来たぞおおおおお!」

「ひいいっ、とうとうこのエルフの都にも!」

「くっそぉ、もう終わりだ! これ以上どこに逃げればいいんだよ!」

「こうしちゃおれん、どいてくれ! どけってんだよ!」


 あっという間に現場は混乱へと陥った。

 その背後を、王宮から出てきた兵士たちが走ってゆく。フィーナは「私は騎士団の指揮を執る!」と叫んで、王宮の方へ行ってしまった。

 戦慄が満ちて、戦いの緊張感がすぐに広がった。

 僕はつい、腰の七鍵刀へと手を置く。

 情けないことに、この期に及んでも僕は震えていた。

 逆に、七凪は酷く落ち着いている。


「さて、と……じゃ、ちゃっちゃと片付けましょうか」


 皆の前で余裕を演じて、彼女は立ち上がろうとした。

 そしてよろけて、慌てて伸ばした僕の腕の中にもたれかかる。

 やはり、老齢には強行軍が堪えているのではないだろうか。


「大丈夫よ、渚クン。みんなが見てるから」

「知ってるよ。それでも、七凪は戦いに行く。そうだろ?」

「ええ。渚クンと一緒にね」

「なら、行こう! 大丈夫、僕もついてる」


 迷わず僕は、七凪を抱き上げた。

 体力のない僕でも、楽勝だ。驚くほどに、今の七凪は軽い。老いて枯れた身は細くて、力を入れれば折れてしまいそうだった。

 驚く七凪が頬を朱に染める。

 それでも構わず、そのまま僕は走り出した。

 向かう先にはもう、悲鳴と絶叫が折り重なって響いていた。

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