窓に!窓に!まあ、どうにかなる

 振り向いた僕は、恐怖に凍って固まった。

 今まさに、窓の外に怪異が迫りつつあった。どこかで聞いたことがあるようなシチュエーションだが、人の手が窓に張り付いている。

 そして、さらにもう片方の手も、バン! とガラスを叩く。

 突然のホラー展開だったが、僕は呻くような小さな声を聴いた。


「うう、開けて……開けてよ、渚。あたしだよぉ……」

「愛生? 愛生なのか?」

「そうだよぉ、ふふふ……ちょっとやべーよ、凄い雨じゃんかー! 開けれー!」

「ちょ、ちょっとまって!」


 窓を開けると、荒れ狂う風が吹き込んれくる。

 バタバタとカーテンが揺れる中、愛生が「どっこら、しょい!」とおっさん臭い掛け声で転がり込んできた。

 ああ、びっくりした。

 なんで玄関から入ってこないんだよ。

 でも、正直ほっとした。

 ようやく、不本意ながら帰還したこの世界で、お馴染みの仲間に出会えた。そう、仲間だと思う。そしてこれから、もっと仲間になりたい。


「うう、さぶさぶっ! 渚ー、そこの引き出しにでっかいタオル入ってるから、とってー」

「あ、ああ。これかな? 投げるよ、愛生……って、おおおおおいいいいい!」


 僕は思わず、変な声をあげてしまった。

 愛生は、びしょ濡れの服を脱いでいた。

 街に繰り出し遊んでいた時と同じ、キュロットスカートにTシャツ、そしてジャンパーだ。その全部を脱いだ愛生は、水を絞り出してから広げている。

 僕は思わず、顔をタオルで覆った。


「あー、渚さあ。スーハーするなら、あたしが使ったあとにしてよぉ。あと、ハンガーも取って。ロッカーにあるから」

「ちょ、おま……やめろよおおおおお! シリアスな雰囲気が台無しだろ!」

「うっわ、渚ってばムッツリスケベ? シリな上にアスとかって……あたしの魅惑のヒップラインに劣情が止まらない? いやーん」

「なんだよもう! お前に……お前になにがわかるんだよ、このアホ! バカ!」


 語彙力を失ったが、変にホッとした。

 同時に、何故か涙が込み上げてきて、僕はタオルから顔をあげられない。愛生に会ったら、あまりに通常運行すぎて驚いた。そして、ようやく七凪たちとの別れに対する感情が湧き上がってきた。

 そうだ、僕は……絶対にまた、みんなに会うんだ。

 少し涙をタオルの中に染み込ませてから、僕は顔を上げた。

 そこには、スパッツ姿の愛生が立っていた。

 ノーブラだったので、慌ててタオルを投げつける。


「おっ、サンキュー!」

「みっ、みみ、見てない! 見てないとも! そもそも、ないものなど見ることはできない!」

「ん? おうこら、渚ぁ? 今、貧乳つったか? むしろ、無乳つったか!」

「なにも見てない! いいから! ほら、ハンガー!」


 タオルを羽織って、愛生はゴシゴシと髪の水気を吹いてゆく。そうして濡れた着衣をハンガーにかけると、適当なところに吊るした。

 雨はいよいよ強くなってきたが、密室に二人でなにか妙な緊張感が走る。

 僕は、愛生が落ち着くのを待って、今までの経緯を話した。

 その間に彼女は、備え付けの電子ポットで湯を沸かし直して、マグカップを棚から取り出す。半裸でうろついても、僕は無害で安全と思われているらし。


「ふーん、そっかあ……ナナちゃんがねえ」

「ハッピーエンド、だと思う。僕は、七凪を信じてる。七凪は負けない」

「ま、そだねー? でも……ちょっといい? 渚」

「え? な、なにか」

「んーん、ただね……あたしのコズミック界隈じゃ、それって古い論法だよん?」


 なんだよ、コズミック界隈って。

 だが、僕の説明を聞き終わったあとで、熱いインスタントコーヒーを二杯作って、その片方を愛生は差し出してくる。

 手にして受け取るマグカップは、ぬくもりと共に妙な安心感をくれた。

 だから、愛生の語る話を僕は、比較的冷静に受け止められたと思う。


「んとねー、渚。さっきの話だと、エミルっちの探してたゲートキーパーが、その……パルパティーン? とかいうのの巨神で、フィーナっちの世界の悪の親玉だった、と」

「そう。でも、その巨神が暴れ始めた過去に飛ばされた七凪は、あっちに残った。七凪にとって、本当にいた世界だから。……僕を救うのを、いつも彼女は最優先にしてくれてた」

「んー、それはどうかなあ」

「違うっていうのか? ……まあ、僕の思い込みかもしれないけど。七凪、なに考えてるかわからない時があるから。ってか、いつもわからないよ。理解できないから、もっと話したかったよ」

「あ、そこじゃなくて。まあ、でも、うーん……えっとね」


 愛生はズズズとコーヒーをすすってから、話し出す。

 僕は七凪と、異世界の過去にいった。バルトルノルヴァの転移に巻き込まれた結果だ。そして、そこで再び……フィーナの世界は、巨神という名の驚異に侵略されることになった。

 だが、もう心配はいらない。

 だって、七凪は必ずバルトルノルヴァの野望を打ち砕いてくれる。

 二人は初対面ではなかったし、バルトルノルヴァがこっちの世界、まほろば市に来たことは、彼にとって想定外の事態らしかったし。巨神ことゲートキーパーを得たが、七凪とは宿敵らしく、しかも直接対決では七凪がボッコボコに蹴り倒していた。

 これで向こうの世界は救われた、そう思ったが……違うらしい。


「渚さ、その……フィーナっちの世界の過去で、例えばナナちゃんがバイバイジュピターを倒すじゃん?」

「バルトルノルヴァ、ね。……多分、倒してくれるさ」

「うん。でもね、フィーナっちは救われないよ? 救われるのは、幼女の方のフィーナっちと、彼女が住む世界だけ」

「へ? いや、だって……過去が変わると、未来だって」

「過去が変わっても、既に存在する未来は変わらない。その代わり、それと別に『新しく分岐した別の未来』が生まれるだけなんだよねえ」


 どういうことだ? さっきの漫画本みたいに、過去と未来は繋がってないのか? そのことについて聞くと、妙に神妙な声で愛生は言葉を選ぶ。


「過去、現在、未来……それらは全て、一直線に連なっている。そして、既に存在する未来は、確定した現実として消えることはないんだよね。にゃはは」

「ど、どういうことなんだ?」

「つまり、こゆこと」


 愛生は例のホワイトボードをまたひっくり返す。

 そうして、過去と未来、平行世界が簡略化して描かれた相関図に向かってペンを取った。


「太古の昔に巨神伝説があって、悪い錬金術師がそれを復活させた。滅びかけたエルフの代表として、フィーナっちが森の魔女を探す中でうっかり異世界転移した。これがまず、一本目の流れね?」

「あ、ああ」

「で、その過去に渚がナナちゃんといって、ロリフィーナっちに会った。そこから先は……新しい未来が生まれる。今までの未来は、変わらず存在し続ける」

「なんだって!?」

「ごめんねー、これが宇宙の真理なんだよん? 人間にはまだちょっと早いかもだけど」


 愛生はキュキューっとマジックで、新しい未来を付け足した。

 過去から分岐して、別の流れになったもう一つの未来。そうやって、常に世界は無数にして無限の分岐を今も続けているらしい。

 ――バタフライエフェクト。

 ようするに、蝶々の羽撃き一つでも、世界は分岐する。一匹の蝶々が羽撃く都度、新しい未来が生まれていてもおかしくないのだ。そして、それぞれは独立した未来として決して交わらない。どれか一つの過去や未来で、なにが起こっても他の未来は影響を受けないのだ。


「じゃ、じゃあ……フィーナは、僕たちと一緒に遊んだフィーナの世界は」

「相変わらず巨神に苦しめられてると思うよん? ま、フィーナがその世界に戻ったなら、少なくとも巨神の正体はわかった訳だけどねぇん」


 そう言って、愛生は手にしたスマートフォンを操作し、液晶画面を向けてくる。

 夕方のニュースのようだが、映っているのはお馴染みの場所だった。

 中継のニュースキャスターが、傘をさしながら緊張の声を強張らせている。


『ご覧ください! 商業施設の立体駐車場にて、倒壊事故のようです。目撃者の中には、街で噂のUFOが墜落したとの証言もあり――』


 また、繋がった。

 でも、なにも変わらない。

 新しい情報は、なにも僕にもたらさなかった。

 世間を騒がすUFO騒ぎは、謎の未確認飛行物体は……ゲートキーパーだったのだ。


「さて、渚……どする?」

「どする、って」

「あたしは現実を語ったけど、大事なのは渚がどうしたいかじゃないかなーって」


 机の上にマグカップを置いて、不意に愛生が近付いてくる。

 僕はなにか、不思議な迫力を感じて後ずさった。

 だが、背が壁にあたったところで、密着の距離に壁ドンされた。普通逆だろと思ったが、小さな愛生は背伸びして僕の顔を見上げてくる。


「……異世界をのぞく時、異世界もまたこちらをのぞいているのだ」

「な、なんだよ急に……会いたいよ。助けたい。僕になにができるかはわからないけど、なにかができると思うんだ。僕は……また、七凪に会いたい」

「だよねー? にふふ」

「か、顔、近いって」


 濡れた愛生の髪から、甘やかな匂いがした。

 でも、妙なことを言う彼女の顔は、目元だけが笑っていなかった。


「なら、異世界をのぞいて……除いて」

「え?」

「異世界を除く時、異世界もまたこちら除いている……世界にとって、自分由来の概念以外は異物である。異物が世界を取り除こうとするように、世界もまた異世界を取り除こうとする……それが、強制力」

「あ、愛生」

「渚、言ったよね? このまほろば市は、渚が生まれた街じゃないって。渚は九年前、謎の大災害の中で……この世界に転移してきたんだって」


 怖くなるくらい、愛生の声は透き通っていた。


「何故、渚だけが強制力に排除されないのか。それは、渚が特異点だからじゃないかなーって。でも、世界の強制力は、特異点になった渚でも、できれば除きたい」

「ぼ、僕が……特殊な存在であっても、この世界の異物にほかならないから?」

「正解! ……なら、ゲートは開くんじゃないかな? あたし、そんな気するよ?」


 それだけ言って、愛生は僕から離れた。

 突然緊張から解放されて、僕はどっと汗が出て呼吸を貪る。だが、確かに彼女は言ったのだ。ゲートは開くんじゃないかな、と。

 僕は弾かれたように、走って部室を出る。

 廊下に出て数歩戻り、顔だけ出して部室の愛生に叫んだ。


「愛生、ありがとう! 僕、行くよ……行ってみる。必ず行ってみせるよ!」

「うんうん、いいねえ、青春だねえ。気をつけてねー、またあとでねぇん!」


 いつもの調子の愛生に頷き、再び僕は駆け出した。

 なにか、予感があって妙に惹かれる。本当に自分が、物語の主人公になったような気がしてきた。僕にその力があるとすれば、今がその時だ。

 僕は土砂降りの雨の中へと、迷わず飛び出すのだった。

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