忍び寄る怪異
土曜日の校舎は、どこか閑散としている。
運動部がグラウンドをランニングする、その掛け声が遠くに響いていた。
午後の西日の中、僕は部室棟の方へと急ぐ。
なんだかちょっと、新鮮な気分だ。
「へえ、休みの日だと雰囲気違うなあ。これもまた、ちょっとした異世界みたいなもんだ」
まるで別世界なんだから、あながち間違っていない筈だ。
普段とは違って静けさに満ちて、無人の廊下はまるでダンジョン。敵が出る訳ないんだけど、普段が活気に賑わってるだけに、なんだか不気味ですらある。
ま、さりとて大した感慨もなく、僕は足早に歩く。
意外と愛生のやつ、必要なものを揃えるのに苦労してるのでは? 異世界部の部室は酷い散らかりようだから、見つけるのに難儀しているのかもしれない。
「まだ探してるようなら、手伝わされるなあ……ん?」
ふと、僕の視界を見知った顔が横切った。
向こうはこちらに気付かぬようで、まっすぐ部室棟へ向かってゆく。自然とあとを追う形になった僕は、廊下のT字路を右へと曲がる。
「っと、足はやっ! 急いでるのかな? おーい、隆史!」
既に彼は、長い渡り廊下の向こうへと消えようとしていた。
呼びかけたけど、無視された? 確かにでも、クラスメイトの吉沢隆史だよな? どうしたんだろう……ってか、僕はなんでこんなに動揺してるんだ?
そっか、親しい奴ができると、サラッと無視されるだけで凹むもんなんだな。
でも、ひょっとしたら声が聴こえてなかったのかも知れない。
僕は駆け出し、追い付き追い越して振り返った。
「フッ、久しいな……運命の戦士、隆史よ。互いの宿命が今、交わる時が来たッ!」
「…………」
あれ? やっぱしスルー? っていうか……僕、滑ってる?
……そうだよな、僕の痛キャラ属性は常に『人を寄せ付けないこと』を目的として身につけたものだもんな。今更相手にされなくて凹むなんて都合のいいことだ。
「って、明らかにおかしだろ! 無反応だぞ! な、なあ、隆史!」
不安になった。
なにか、彼の気に障ることをしただろうか?
でも、心当たりはない。
なにより、隆史の顔は普通じゃなかった。
無表情。
エミルのような、感情に乏しいというレベルじゃない。無感情で平坦な顔のまま、どんどん歩いてゆく。はっきしいって、不気味だ。その目に生気はなく、前を向いていても僕を見ようともしない。瞳に映っていても、見えていないようだ。
っていうか、瞬きしてないぞ!? ……これ、どこかで見たことがあるような。
「……なあ、隆史。お前……あ! これ、昼飯ん時の?」
僕は唐突に思い出した。
今日、昼食を取ったカフェに全く同じ顔を見た気がする。いや、作りは全く違うのに、不思議と同じ印象しか残さない無表情。そう、あの時七凪が教えてくれた、奇妙な客と似ている。
突然隆史は、まるで能面みたいな無表情で、無反応になってしまったのだ。
なにかが起きている……妙な胸騒ぎがあったし、ようやくできた親しい友人の、突然の豹変に胸が痛んだ。
だが、次の瞬間には驚きが襲い来る。
隆史は意外にも、異世界部の部室の前で立ち止まった。
そして、彼は思いがけない行動に出る。
「お、おいっ! 隆史!」
信じられないほど大きな音が響いて、部室の扉が蹴り破られた。隆史は全く表情を変えずに、足を引っこ抜くや、乱暴に戸を引っ剥がす。
尋常じゃないし、こっちだって普通ではいられない。
彼は鍵がかかってるかを確認しなかった。
つまり、最初から乱暴に押し入る目的があったように思える。
慌てて肩を掴んだ瞬間、僕の世界がひっくり返った。
振り払われたと知った時には、僕は廊下にひっくり返っていた。
起き上がろうとすると、ズキリと全身が痛む。
だが、女の子の悲鳴を聴いて飛び起きた。
「愛生ッ! な、なんだ、なんだよ……どうなってんだよ!」
昼下がりの静かな校舎は、部室棟にも全く人の気配がない。
だが、たしかに部室の中からは愛生の声が再度響き渡った。
慌てて中に駆け込むと、そこには信じられない光景が広がっていた。
愛生は部屋の隅で、本に埋もれて倒れていた。なんとか起き上がろうとする彼女を無視し、隆史は手当り次第に部室内を荒らし回っている。
僕はとりあえず、愛生に手を伸べ立ち上がらせた。
「イチチ……あ、渚! なにごとー? なんぞこれー!」
「僕が聞きたいよ! あいつ……僕のクラスメイトの隆史だ」
「そなの? もー、暴力反対!」
同感だが、隆史はまるで人形のように淡々と部室内で暴れまわっていた。感情を昂ぶらせたり、絶叫を張り上げたりはしない。それが逆に怖い。
これが、七凪の言っていた異変の予兆なのだろうか?
しかし、本当に僕の周りはトラブルが多いな!
「隆史、やめろっ! お前、そういう奴じゃなかっただろ……なあ!」
僕は、本棚を倒そうとしている隆史の背後に組み付いた。腰にぶら下がる形になったが、体格的にはそう違わないのに……彼はびくともしない。
それどころか、強烈な肘鉄が炸裂して、僕の視界に星が弾けた。
倒れた僕は、しばらく起き上がることができなかった。
なにがあったんだ? そうだ、まず愛生を逃さなきゃ。全くもって訳がわからないが、今の隆史は尋常じゃない。なら、愛生が危険だ。
「愛生、逃げ……ろ。愛生……愛生?」
ぞくりと背筋を突き抜ける、悪寒。
どうにか首を巡らせた僕は、見た。
ゆらりとまるで陽炎のように、愛生は立ち尽くしている。なんだか、酷くおぼろげに見えるのは、僕が脳震盪でも起こしているのだろうか?
午後の日差しが差し込む部室で、愛生の影が揺れていた。
明らかに周囲の空気も、冷たく沸騰したかのように豹変している。
隆史が手を止め振り返るのと同時に、平坦な声が愛生から零れ出た。
「あ、そういう……そういうやつ、ね。あたしはいいけど……どうでもいいけど」
不意に、愛生の足元から伸びる影が、膨れ上がった。
なにより彼女自身から、息苦しいほどの激情が迸る。
殺意……そう、殺気みたいなものだ。初めてこんなプレッシャーを感じた僕は、殺気という単語以外で愛生の迫力を表現できない。この部屋の全てを圧する、強烈な殺気が放たれていたんだ。
流石に隆史も一歩下がった、その時だった。
張り詰めた緊張感の中に、優雅な声が差し込まれる。
「愛生、駄目よ。今は、駄目。ほら、渚クンが怖がってる」
七凪だ。
彼女は、ゆっくりと散らかった部室の中へと足を踏み入れる。その表情は優美な微笑を湛えているが、目元だけが笑っていなかった。
愛生の怒りが攻撃衝動の炎なら、七凪の怒りは凛冽たるブリザードだ。
絶対零度の怒りを尖らせ、僕を守るように七凪は立つ。
その時初めて、隆史が口を開いた。
それは、まるで獣のような咆吼だった。
なんとか立ち上がると、改めて僕は自分を庇おうとする七凪を庇い返す。
「七凪、危ない……なんか、隆史が変なんだ」
「ええ、知ってるわ」
もう既に、隆史は僕の知っている彼じゃなかった。
おぞましい絶叫を張り上げ、襲いかかってくる。僕はかろうじて、七凪を守ってその拳を受け止める。なんて言えば聴こえはいいが、ようするに七凪の代わりに殴られた。
とても、痛い。
情けない話だけど、僕は運動が苦手なのは勿論、荒事も嫌いだ。
よろけて背後の七凪に支えられ、どうにかこらえる。
その時にはもう、隆史は全身をバネにして廊下へと飛び出していた。
「いったい、なにが……七凪?」
「平気かしら、渚クン。愛生も」
「あたしは、だいじょーぶいっ! エヘヘ、やっちまうとこだったぜー」
普段の愛生に戻ってる。
だが、部室は荒らされ見る影もない。
いったい、隆史になにが起こったのか?
その答を、七凪は簡潔に語った。
「以前、変質者の話があったでしょう? ホームルームでも、注意するように言われてたわ」
「それ、フィーナさんじゃ」
「初めて会ったあの夕暮れ時、フィーナさんは変質者に見えたわね。でも、それが学校側で注意喚起している変質者とは別だったら?」
「えっ……」
「ここ最近、まるでなにかを監視するような、調べて探すような視線を感じてたのよね。多分、こっちが本命。さて、事件になってしまうのかしら……ふふ」
事件って言うならとっくにだ。
僕は突き飛ばされて、殴られて、ようやく七凪から離れて立っている。少し足元がふらついたが、泣けてくる程じゃない。
それより、隆史が心配だ。
いったいなにが起こったのか?
その答を、目の前の少女は知っているようだった。
その七凪だが「さてと」と落ち着いた様子ですまし顔だ。
「愛生、フィーナさんとエミルさんをお願いね?」
「がってん!」
「不用意に力を使っては駄目。渚クンだってびっくりするわ」
「だよねー、ごめんごめん」
それだけ言い残して、七凪は走り出した。
恐らく、隆史を追いかけるつもりだ。
自然と僕も、気付けばその背を追って駆け出す。白い長髪をなびかせ、颯爽と走る七凪に並ぶ。彼女は隆史の奴が見えなくなっても、迷わず玄関から外へと飛び出してゆくのだった。
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