207.-Case結城-サイコゴースト
「はぁー……はぁー……はぁ……ふぅ……はぁー……」
結城が荒い息をしながらのそりと立ち上がる。
緩慢な動作だった。
起き上がるのも酷く億劫そうだ。
だが何故だろう。
疲労し負傷しているはずの彼がまったく弱ったように見えない。
呼吸さえ喘鳴じみた雑音が混じっている。
正常な外呼吸ではない。乱れている。
気道や肺への損傷あるいは血中酸素濃度の低下による呼吸不全というより、情緒不安による不規則な胸式呼吸だ。
にも関わらず、彼の一挙手一投足にゾクリとした恐怖心を感じる。
不穏当な雰囲気が増していた。
敵意や情念がギラギラと煮えたぎっている。
「はぁ……はぁー……あー……ちゃん……ふぅ……はぁー……」
首は垂れて前傾し幽鬼のようだ。
顔が髪に隠れて表情は伺い知れない。
浮世絵の幽霊画を彷彿とさせた。
前髪の隙間から、あの死人の目がこちらを睨みつけてくる。
黒く濁っているのにギョロギョロとして鋭い。
地獄の餓鬼が食物を付け狙うが如く。
「あーちャん……アーちゃンが欲しイよ……スグ行くかラね……そっチニ行くからネ……待ってテ……ボクが……ボク……アーチャン……あーちゃンアーちゃん……あーチャんあーちゃんあーチャンあーチゃん……」
暗く重い焔が結城の中で燻っている。
黒く濁った不可視の液体が胸元からドロドロ漏れ出していた。
その醜悪な液体は彼の足を伝って地面に染みる。
土を汚染し非存在の曼珠沙華の根元に及ぶと、茎から浸透して花弁を真っ黒に侵した。
根腐って枯れていく。
心の廃液だった。
腐蝕した精神のヒビから腐乱し液状化した心が漏れている。
実態を伴わない非存在の川原はその腐れの影響をモロに受けていた。
「あーちゃん……あーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃんあーちゃん……」
今や結城は、僕の理解の及ばないおぞましい存在へと変貌していた。
「……あーくん、聞かせてほしいことがあるんだ」
三郎が振り向きもせず肩越しに尋ねてくる。
彼は今この場においてもまったくと言っていいほど揺らいでいない。
普段のさーやや鬼三郎の気性と違い、凪のように静かで穏やかだった。
「な……なに?」
「あたしは、あーくんを守りたい。その為に一番良いのはここから逃げ出すこと。正直、あたしじゃあいつを手に負えないかもしれない。なんだか体調が良くなくて体が上手く動かない。それに嫌な予感がするんだ」
あいつ、とは結城のことだ。
僕の為に三郎が行動してくれるという。
であるなら願ってもない。
僕にはもう結城をどうしたら良いのかわからない。
その三郎ですら、結城を持て余すという。
しかし……。
「逃げることは……したくない」
「あーくんはあいつをどうしたい?」
「……どうしたいって……出来得るなら止めて、しっかり話をしたい。僕たちはお互いに納得のいく結論を出せていない、気がする」
「恋に画一な答えなんかない。誰もが誰も、自分の中にある物差しでしか恋愛観をはかれないんだよ、あーくん。人の数だけ想いの形がある。そこに正しいも悪いもない。だから食い違う。それでも、危険を伴っても擦り合せをしたい?」
甘いと言われるかもしれない。
今目の前にいる結城が危険であることなど誰が見ても明白だ。
その上で三郎に危険を冒せと、言うことになる。
自分の都合で人を動かし、尚彼にとってはメリットがない。
虫の良い話である。
「あぁ……」
「そっか、わかったよ。もう一つ聞かせてほしい」
「……なんだい?」
「もし、あーくんの為にがんばったら……ほんの少しでも、あたしがあーくんの隣にいられる可能性はある?」
ある、などと軽々しく言えようはずもない。
それではまるで軽薄で八方美人な尻軽男の口ぶりだ。
結城との関係を清算できずにどうして別の答えまで出せるというのか。
僕が何を言ったところであまりに薄っぺらい。
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