206.-Case結城-苦悶
それを三郎が目視していたかは定かでない。
不安定な直立の状態でろくに踏ん張りもきかなかっただろう。
だが目にも止まらぬ速度で右に体を捌くと、手を前に突き出した。
どんっと。
大きく重い音が響いた。
三郎が結城の胸を突き飛ばしていた。
技でもなんでもなく、ただ片手で勢いのまま。
「ぅえっ……!」
結城が呼吸器を潰されたみたいな声を上げて後方に弾かれる。
ただの突き飛ばしのはずが、3メートル近くも綺麗に吹っ飛ばされた。
地に背中から着くと、非存在の曼珠沙華を轢き殺しながらゴロゴロともんどりうって転がった。
紅い花びらがパッパと空に舞い散る。
一瞬の攻防だった。
結城の動きも人間離れしていたが、三郎の反応速度は人間ではなかった。
野生の獣でもあんな動きは不可能だ。
ただの単純動作だったが実行した運動神経は異常だった。
「うっ……おえっ……げっ……うぅっ……」
花畑の中で結城がうずくまったまま悶えている。
その上に花弁が振り落ちていた。
苦悶の声を上げている。
酷く苦しそうだった。
何かを吐いている。吐瀉物か血か。
三郎の重機のような豪腕で突き飛ばされたのだ。
正常な人間なら無事で済まない。
心配になる。
内臓でも潰れていたら事だ。
だが先ほどの彼が脳裏を掠め、結城に駆け寄る二の足は踏んでしまっていた。
害意の塊となっていた結城。
彼は彼で充分危険な精神状態であり、多少手負いになったところで容易に近づけない。
「さ……さーや、やりすぎじゃ……」
「やりすぎ? あたしが間に入らなかったら、あーくんの首がトンでたよ」
「そうかもしれないけどさ……」
三郎が平手で喉元をトントン叩くジェスチャーをする。
確かに激情に身を任せた結城が手加減なんてしてくれようはずもない。
49日前も今さっきも結果的に命長らえているものの、もし本当に結城が殺傷を厭わないのであるなら、僕の首はとっくに夏の夜空に斬り上げられていただろう。
結城が僕を傷害たらしめるはずがない。
どこかでそんな風に考えている。
一方で、心の片隅でもしやという疑念も尽きない。
現に先ほどの一斬りは途中で寸止めるにはあまりに思い切りが良すぎる。
三郎の意見の方が現実的だ。
「……それ、大丈夫なのか?」
三郎の腕にギョッとした。
先ほど結城の投擲した包丁が突き刺さったままだった。
肉の繊維を切り裂いた刃先が数センチも貫いている。
そのスプラッタに動揺したのではない。
刺さった傷口を中心に黄緑色に変色している。
化膿していた。
出血もしていない。
ただ裂傷を起こしただけなのに膿んでいるのだ。
ほんの今さっきなのに。
よく見れば、僕を庇った時に切りつけられていた腕の方も化膿している。
傷口の出血はいつしか黄色い膿も混じっていた。
むしろこちらの方が重傷だ。
「……あーくんは心配しなくていい」
三郎がボソリと「何かおかしいな……」と呟いた。
彼は包丁を引き抜き地面に捨て去る。
ステンレスがカラカラと小川を転がった。
透明度の高い水滴が散る。
非存在の川は水辺と目に見えていても実体は酷く曖昧だった。
包丁を投げ落として水しぶきが上がるのに、落下時の衝突は元の地面のままだ。
まさに幽霊の川だ。
僕が今踏みしめている地面も透明性のある小石が並んでいるが、靴越しに踏んでいる感触は元の土畳のままである。
三郎の投げ捨てた包丁は何故か、地を転がっているうちに刀身が変形していった。
グニャグニャにひん曲がった。
斬っても突いても折れず曲がらずだったのに、地面に接触した途端にまるで生命力を失ってしまった。
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