204.-Case結城-狂嗤

「ククク……クク……」


 感情が破裂した。


――――あははははははははははは!!!!


 結城は笑った。

 狂乱の嗤い声を上げる。

 空を仰ぎ、歯を見せ、甲高い声で。


「ゆ……結城……」


 それは僕の知る本来の彼ではなかった。

 49日前にも目撃した、あの狂人の様相だった。

 狂い笑う、まるで元の品性を感じさせない異常な乱心。


 ゾッとする。

 既に一度見た容貌であるのに、心臓を鷲掴まれた心地になる。

 慣れない。

 慣れることなどない深層の狂気だ。


――――あははあはあははははははははははは!!!!


 直後、結城の内側から赤黒い錆が噴出した。

 心臓を中心に、足元から周囲を一瞬にして拡がり汚染した。

 非存在の曼珠沙華と交じり合いながら地面を侵し、地平の彼方まで走っていく。

 紅い花畑がざわついた。


 赤黒の煙が渦を巻く。

 あるはずのないそれらが風に吹かれて流動する。

 何の流れか。

 おそらく結城の狂気に煽られて発生した感情の潮流である。

 無形の流体だ。


「ぼ……僕が悪いのか……」


 僕のせいなのか?

 結城の豹変ぶりはまともではない。

 つい先ほどまで猛りながらも冷静でいた、感情的さと理知的さのない混ぜな彼はいない。

 今はただただ脳の線が切れている。

 怒りからかおかしさからか、気が触れた人のそれだった。


 49日前のあの日のトリガーは僕が別れ話を切り出したことに起因した。

 今回も拒絶に似た返答によるのだろう。

 だとするなら、彼がおかしくなってしまった原因は紛れもなく僕にある。


「誰が悪いかなんてどうでもいいよ。善悪それ自体が理屈なんだもん。ずっと言ってるじゃん、ボクはあーちゃんの心を聞きたいって」


 結城がケタケタ笑いながら歩み寄ってくる。

 肩が小刻みに震えている。

 大きく半月に開けた口元に知性を感じさせない。


 彼からドス黒い情念が漏れ出ている。

 焔の如く揺らめき、螺旋状に肢体の周りをまとわりつく。

 触れては離れてを繰り返す。

 ちらちらと殺意の色を放っていた。


「ほ……本音ならさっき言った通りだよ。冷静に時間を置いた考えで結論を出したい。その言葉に嘘はない。結城の考えにも譲歩したいと思ってる」


「そう……ならボクが譲ってほしいのは、あーちゃんのハートかな」


 瞬間、結城が恐ろしい速さで接近してきた。

 それは歩行による前進とは言い難かった。

 踏み込みによる体の上下動やひねりなど一切ない。

 ひとまばたきの間に距離を詰められた。

 まるで影法師のように、黒い塊がドロッと近づいてきたようにしか見えなかったのだ。


 至近距離で彼の瞳が瞼に焼き付く。

 死人の目だった。

 濁り、淀み、底なしに光を映さない暗澹たる闇。


「あ……」


 そんな一言しか上げられなかった。


 彼が包丁を持った左手を振り抜いたことが分かったのは、既に振り抜かれた後だった。

 袈裟斬りの斬撃の軌跡が僕の胸を正確に狙った。

 死がぞわっと全身を支配した。

 斬られたという意識に支配され循環器系を含む新陳代謝が死んだ。

 心臓が一拍停止した。

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