192.-Case三郎-山中模索

 山岳は木々の乱立した傾斜の緩い斜面であった。

 青臭い香りで満ちている。

 夏の森の匂いだった。

 背の高い杉が好き勝手に自生しており、十数メートル間隔で展望を阻害する。


 低山ゆえに一部を除いて勾配は比較的緩やかだ。

 常人の足でも駆け降りるくらいはできる。

 しかし急ぎ過ぎれば転倒し、10メートルは転がる程度に足を取られる。

 むしろ緩やかな坂道が油断を誘うので事故率は高い。


 そして傾斜以外が安全かと言えば、決してそうでもなかった。

 森ではあるものの、下は必ず草土という訳ではなく、ゴツゴツした岩肌が露出している箇所もある。

 手の平大を超える石も転がっている。

 落石や転倒で命を落としかねない。

 そのくせ、土面は崩れる所もあるくらいに緩い。


 その他にスズメバチやヒルや蛇など、必ず命に関わるほどではないにしても危険性のある生物が生息していた。

 スズメバチに集団で襲われてアナフィラキシーを起こして死んだ人や、ヒルを振り払おうとして滑落した人もいる。

 1匹2匹ならともかく、集団で襲われれば致死性は充分にはらんでいる。


 もっとも、今は蜂や蛇など問題にならないくらい物騒な生物に追われているが。


「迂回しながら本殿の方向に降りるよ! 人の多い場所なら少しは安全、なはず」


 盾にできるし、というつぶやきが聞こえた。


 木々の間をジグザグに走る結城を必死で追う。

 時折、背後の僕を振り返って確認してくれているが、健脚の彼に比べて僕はお荷物なくらいに遅かった。

 見捨てられないだけマシだと思った。


「はっ……はっ……はぁー……はっ……!」


 走り始めて数分もしないうちに息が切れ始めた。

 ただでさえ体力は人並みであるのに、慣れない山道はあっという間にスタミナを奪い去った。

 下り道といえど、いや下りだからこそ足底が地面を踏みにくく、余計な力がかかって消耗を早めている。

 足元に注意を払う余裕もなく、何度もコケそうになった。

 時折どこかから聞こえる、獣の咆哮に似た不気味な声への恐怖も無関係ではない。


――ゴォオァアアァアアアアアアア!!!


 木々の間を反響する鬼の怨み節。

 三郎の変化した鬼が僕らを追っている。

 彼我距離は一定ではなかった。

 近づいたり遠ざかったりを繰り返す。


 何をどう追っているのか不明だが、こちらを知覚できたり出来なかったりしているようだ。

 真っ直ぐ近づいてきたと思ったら、てんでデタラメな方向へ突進していることもある。

 だが決して見失うことはない。


 バキバキメキメキと何かの薙ぎ倒される音がする時もある。

 おそらく巨漢の鬼は木立を避けることができない為、衝突して破壊しながら突き進んでいるのだろう。

 重機もびっくりの馬力だった。


「あーちゃん、もっと早く走らないと追いつかれるよ!」


 結城の声に激励され、促され、息も絶え絶えに何とか走り続ける。

 呼吸が苦しい。酸素が足りない。

 肺が破裂してしまいそうだ。


 足が痛い。

 柔らかい地面と硬い地面を不規則に踏み続けている。

 山道の度重なる疲労は確実に、太ももからつま先までの筋肉に乳酸を溜まらせていた。


 もはや自分がピーク時の何割の速度で走れているのかわからない程に疲れていた。

 ほぼ限界のまま走り続けている。

 傍からは情けないくらいにグチャグチャになっているはずだ。


 ……疲労と無関係かは分からない。

 分からないが、おかしな物も見えていた。


 山に入ってから、ずっと辺り一面の景色が原色に色変わりしていた。

 赤や緑や青や黄色。

 自然色とは思えないドぎつい一色に。

 木々も地面も草木も結城も。

 上から透明度のある濃い色の壁を乗算したかのように、染まっていたのだ。


 それも一度や二度ではない。

 ずっと、断続的に。

 おそらくはまばたきをする都度。

 色が移り変わる。


 酸欠による色覚へのダメージとは明らかに違っていた。

 例えるなら昨日の夕頃、結城が調理をしていた時にキッチンが紅く染まっていた。

 あれに近い色味だ。

 ほぼ真っ黒だったあの時に比べれば、幾分か物体の輪郭がわかるだけマシである。

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