190.-Case三郎-変貌

「んー…………何かおかしいな」


 三郎がむくりと上体を起こす。

 腹を蹴られて額を打ち据えられても怪我の一つとしてない。

 あれだけ手酷く痛めつけられたのに、まるでこたえていない。

 俯き、後ろ頭を掻き、不思議そうに自分の手の平をじっと見つめた。


 結城が間髪入れず包丁の一本を水平に投げ放つ。

 音もなく飛翔する刃が三郎の額を捉えた。


 ドスッ。

 三郎の眉間に包丁の刃が深々とめり込んだ。

 傷口から血か脳漿か分からない液体が小さく噴出した。


「ひっ……」


 僕は自分の口から漏れる悲鳴を聞いた。

 やってしまった。

 結城も三郎も殺気を迸らせていた。

 こうなる可能性もあった。

 だが、まさか本当に殺すなんて……。


 息を整えている結城の視線の先。

 三郎が自分に突き刺さった包丁をゆっくりと引き抜いた。

 手にした出刃包丁をじっと見つめる。両手でいじくり回す。


 触り、指で弾き、端を持って折ろうとしていた。

 しかし彼の怪力を以てしても、びくともしない。

 そしてポツリと呟いた。


「まさか……いや、いつからだ……あの時……違う……ずっと……? 視てたってのか? でも、確証は何もない……」


「何ぶつぶつ言ってんの? 脳天に光り物ぶっ刺さってイカれちゃった?」


 結城が挑戦的に挑発しながら、再び太ももから予備の包丁を抜き出す。

 いったい何本持っているのだろう。

 あんな物を何本も隠し持って出歩いていたのか。


「……いや、今あたしがすべきことはあーくんだ。今はそれだけで良い。他に無駄な考えは持たない。欲しい物は、それだけ……」


 立ち上がると同時に包丁を投げ捨てる三郎。

 地面をカラカラと転がった。

 不思議なことに、包丁は三郎がいかにいじくろうとも何ともなかったのに、地面に落下すると刃がへの字に折れ曲がった。


 信じがたいことが起きた。

 三郎の眉間にパックリと開いた傷口から出血がピタリと止まった。

 それどころか骨格筋のような細く赤い紐が左右から絡み合い、裂傷を縫合して閉じてしまった。


「見た!? 見たあーちゃん!? あいつ傷をミミズみたいのがのたくって塞いじゃったよ! 化け物だよ! 気持ち悪いねぇ~?」


 結城が鬼の首を取ったかのように嬉々として囃し立てる。

 そんな悪口を言っている場合ではないというのに。

 彼を逆上させるだけだ。


「……お前だけは地獄に送っとく。気に喰わねぇ! 癇に障るんだよ!」


 ドクンッ!

 そう心音が聞こえた。

 僕のでも結城のでもなく、三郎から。


 三郎の体内からバキゴキ音が鳴る。

 それは先ほどもあった筋肉と骨の悲鳴。

 血管の膨張が全身に回った。


 彼からツンと鼻をつく異臭が放たれる。

 甘い、肉の腐った腐敗臭と獣臭だった。

 思わず鼻を塞ぎたくなる悪臭。


――――オォ……オォォオォォ……!!


 地獄の釜の蓋が開いている。

 野太く苦悶の亡者の喚きと、怨みに満ちた鬼の咆え。

 魂を持ち去られそうな不気味さ。

 それが三郎の喉から発せられると気付いてゾッとする。


 三郎の体が膨張していく。

 だが今度は先ほどと異なり、全身の姿形が変貌していく。

 体中のあちこちがコブのようにボコボコ歪に膨らんだ。


 腕も足も逞しく太くなり、胸筋と背筋が腫れあがり、体高が高まり肩幅も広くなる。

 口から鋭く長い牙が生える。

 全身が黒く染まる。

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