150.やぐら前にて

 まばたき。

 暗転する視界。

 眼球についた涙の膜。ぼやけた虹色光彩。


 耳に、あの悲鳴にも似た嬌声が消えていた。

 代わりに、聞き慣れた和の音が聞こえる。賑やかで温かみのある音。

 それは太鼓を叩くバチであったり、横笛であったり、あるいは人の雑踏であった。

 明確な切り替わりはなく、気付けば鼓膜に聴こえていた。


 涙の薄膜を取る為に、再度まばたきをする。

 今度ははっきりと見える。

 人の世の祭りが、僕の目の前に広がっていた。

 道を行き交う浴衣の人々。露店の粉ものを焼く匂い。僅かに香る新緑の青臭さ。

 普段知覚している、表の世界。正常な光景。

 無事帰還していた。


 そこはやぐらの広場だった。

 異形の世界で同じ場所と思しき場所に、今立っていた。

 気絶するでも何をするでもなく、ただ呆然と道の往来のど真ん中で、通行人が迷惑げに横に避けながら。

 手に持った露店で買った商品もそのままに、熱だけが失われていた。


 ふぅ、と一息吐く。

 どうやら地獄には行かなくて済んだらしい。

 あの異形の世界は、いつも必ず最後には自分を現世へ返してくれる。冥府の底まで魂を連行しない。

 きっとお試し期間なのだ。制限時間付きの異次元旅行。往復切符は両方の改札を抜けて出る。

 いつか終わりがくるとわかってさえいれば、どんな苦痛であろうと耐えられる。ゴールのないマラソンは挫折しても、ゴールがあるのを確信していれば走りきるのは難しいことではない。

 それだけが唯一の安心材料だった。



 やぐら広場の側部。

 入口方面の参道から左手、来客用駐車場方向に伸びる横道付近に、10人前後の小さな人だかりができていた。

 人の流れが避ける中、そこだけぽっかりと空間が出来ているようだ。


 なんだか嫌な予感が背中を上ってきた。

 僕の嫌な予感はだいたい当たる。

 そして往々にして避けられない事態であることが多い。



「なんだろ……」


 と言いつつも、待ち受ける面倒ごとをなんとなく察していた。

 おそらくこういうのを、虫の知らせというのだろう。

 吉報なら歓迎だが、そう上手い話ばかりではあるまい。


 人の流れに紛れながら、その人だかりに近づいていく。



 人の格子の間から、空き空間を覗いて様子を伺う。

 あまり目立たないよう、半歩後ろからそっと。

 野次馬の間隔は1メートル程度も開いているので、気を付けたところで差して隠れ蓑にもならないが。


 案の定というべきか、輪の中心に結城と三郎がいた。

 2人も無事にやぐら広場まで到着していたらしい。

 いや、無事というのも語弊がある。


 2人は人一人分ていどの距離を取って相対していた。

 その空気はとても穏やかとは言い難いものである。

 三郎の方は表情が失せている。一見してご機嫌ではないと伺い知れる。

 結城は薄っすら笑いを浮かべているが、親しさは欠片もなく嘲笑に等しい。上から見下ろす視線は、文字通り見下し馬鹿にしているそれだった。


「んだと? もう一度言ってみろよ!」


 三郎が不機嫌そうな、よく通る声で威嚇した。

 さーやではなく、時折垣間見せる三郎の地声。

 それでも少年然とした声色だが、語気の強さは極道に等しい。


「ふふん、何度だって言ってやるよ。あんたの存在は、あーちゃんにとって迷惑なの。ボクとあーちゃんの前から、とっとと消えなさい!」


 結城はそれに鼻で笑って応えた。

 僕の前では見せたことのない、高飛車で傲慢で鼻にかけた口調だった。

 声色に軽蔑と怒りがない交ぜになっている。

 どんなに嫌いな相手の前だって、あんな態度は取ったことがなかった。


 語尾にドスの効いた警告。

 いや最早脅しであろう。

 彼の高い声域でも男性性(だんせいせい)を感じるほどに低い。

 消えなさい、は言葉通り目障りだから失せろ以外の意味を含まないのだろう。

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