149.居場所

 子供は僕の腕をするりと抜けた。

 いや、あまりのことに声を失い、僕が自分から手を離していた。

 きっと、触れていたくなかったのだ。

 あんなに人懐っこい子の素顔が、ただの空洞だったなんて知りたくもなかった。


 顔にぽっかり空いた黒い洞。

 それは、あのやぐらの代わりに置かれた巨大な脳で踊り狂っている女性と同じ黒さ。

 感情の何もかもを吸い込まれてしまいそうな。

 包容力にも似た恐ろしく虚無な寛容。


 子供は自分の顔穴を指差す。

 ケタケタと笑った。

 子供らしさなど欠片もない、下品な高笑いで。


「怖い? この顔がおそろしい? でもこれはおにいちゃんが、今までずっと甘えてきた顔なんだよ? 恋が抱きしめられるのは体までなんだ。心を抱きとめるのは愛なんだよ。同質なものじゃない。愛は根源なの。その愛が、これ」


 頬を汗が伝う。乾いたツバをごくりと呑み込む。

 後ろへ半歩後ずさる。

 自分の腰ほどしか身長もない幼子の発する空気に、全身を掴まれるような寒気を覚える。


 やはりこの子から漏れだす情動は尋常ではない。

 激情と無の相反する赤と黒が混じり合っている。

 絡み、甘さと苦さがコーヒーと砂糖のように溶け合う。


 二面性なのだ。

 仮面と素顔に分かれた、社会性と本能。

 上蓋が取れた時、そこにあるのは嘘偽りがない剥き出しの本性である。


 しかしそれが、ただの洞だなどということがあり得るのか。

 人は、大なり小なり雑多な存在だ。

 その本質だって様々な雑情報が混じったもののはず。


 だがこの子供の空洞は、ただただ全てを呑み込むだけでしかない。

 綺麗な物も汚い物も、全部を一緒くたに受け入れる。

 だからなのか、その闇には温かみがあった。人肌の体温と同程度の。

 忌避したい想いと、何もかもを忘れて呑み込まれてしまいたい想いが同在する。


 僕と子供の間に、少年が割り込む。


「全部を受け入れる必要なんてない。底の底まで見つめなくていい。人と人には隔たりがある。その敷居が人を人たらしめているんだ。社会の中で良好な関係を作る。心と心で触れ合うことはない。相手の心と自分の心を確認するだけで良いんだ。踏み込んで割れるガラスを踏むな」


 子供がキャハハと甲高く笑う。

 癇癪と同じ、空間を裂く鋭い音。

 笑いも怒りも同質の感情だからか。


「あんたがよく偉そうに言えるね! 人の世に居場所をなくしたあんたがさ! 深くて暗い場所でなければ生きられないくせに! 浅瀬で生きられない深海魚のくせに! どんなに外聞を取り繕ったって、人は見たくもない醜い物を傍に置かないんだよ!」


「……だとしても、ずっと傍にいようとし続けるよ。想うのは勝手だろう。お前と同じ、信じたいものをってことさ。それが徒花だとしてもね」


 子供は笑うのを止める。

 落ちていた般若面を拾った。

 それを被り直すでもなく、手で顔に押さえた。


「まぁ、好きにしたらいいんじゃない。ボクは咲かない、枯れない花になんて興味はないけど。艶やかに花めくのが美しいのだもの」


 子供は踵を返し振り向く。

 僕たちに背を向け、やぐらの方へ歩き出した。

 その姿は2歩も3歩もしないうちに、すっと掻き消える。


 なんだかよくわからないが、少年に助けられた、のかもしれない。


「あ……ありが、とう……?」


 少年は僕をじっと見つめてくる。

 何かを言いたげだ。目が訴えていた。

 片手でもう片手を掻く仕草が、その逡巡を表している。

 そして悲しそうな瞳で微笑んだ。


「……おにいさん、あなたがこれから先どんなに不幸だと感じたとしても、辛い目にあったとしても、忘れないでほしい」


「……なにを?」


「あなたはあなただ。他の誰でもない、世界で唯一の。だから、世界を呪うほどに嫌ってしまっても、自分だけは嫌わないでほしい。無価値だと嫌悪しないでくれ。自分を迷わないで。あなたへ誰かが向けた愛だけは、本物だから」


 どういう意味なのだろう。

 僕は僕だ。

 これから先のことなんて分からないけれど、自分を嫌いになんて、ならないと思う。

 少なくとも、今そう見えるような振る舞いはしていないはずだ。

 それともこれは、慣例なだけの励ましとか。


「わかったよ、ありがとう」


 意味が分からなくても、彼が僕を気遣ってくれたことは理解した。

 年下の子供に情けをかけられたと思っても、不思議と苛立ちは全くなく、素直に感謝の念に入った。


 彼の頭にポンと手を置いて撫ぜる。

 やはりごわごわした手触りの少年らしい髪質。

 男の子はこれが本来普通なのであり、結城や三郎の柔らかく細かい髪の毛は異質なのだ。


 少年は撫ぜられることに慣れていないらしい。

 照れ臭そうにはにかむ。

 そして彼は初めて、無邪気な笑顔を浮かべた。


「へへ……」


 青葉と泥の匂い。

 生命力の満ちた香りがした。

 この異形の中で浮いているが、どこまでも純粋だった。

 きっと、純粋過ぎるのだろう。

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